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パラディオのヴィラとパラッツォ4

ヴィラ・フォスカリ

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ヴェネト州ヴェネツィア県ミーラにあるヴィラ・フォスカリ(1560)はブレンダ川沿いにあり、ヴェネツィアの中心部からボートでアクセスできる別荘である。水際の湿気をさけるため、非常に高い基壇上に設けられたヴィラは、髙さを誇るかのような壮大さ。そこに突き出たポルティコは、煉瓦造の柱上にイオニア式の石の柱頭が載った神殿風の構え。その姿をブレンダ川の水面に映す(写真上)。パラディオのヴィラ建築ではめずらしく、計画時から農業用のバルケッサなどの別館がないことからも、ヴェネツィア郊外の住居として構成されたものとされている。

ヴィラ・ヴァルマラーナ

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ヴィチェンツァ県のボルツァーノ・ヴィチェンティーノのリシエラに建つヴィラ・ヴァルマラーナ(ヴァルマラーナ・スカニョーラリ・ゼン:1563)は、ヴィチェンツァの貴族ジャン・フランチェスコ・ヴァルマラーナのためのヴィラだが、パラディオのオリジナルのデザインはロッジア付きの2階建てという構成。1566年にヴァルマラーナが亡くなると、工事は何年も中断され、結局ロッジアの2階は建築されず、中央部分はイオニア式の柱が並ぶポルティコに、ペディメントが載る屋根裏部屋状の部屋が設けられて終了。ヴィラは、第二次大戦で大きな被害を受け、その後再建されたものである(写真上)。

ヴィラ・アルメリコ・カプラ(ラ・ロトンダ)

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ヴィチェンツァ郊外の小高い丘の上に建つヴィラ・カプラ(1566)は、パラディオ建築の傑作の一つとされ、北ヨーロッパ諸国、特に18世紀のイギリスで好まれた作品で、チジック・ハウス(ロンドン西部ハウンズロー特別区にある、1729年完成のパラディオ様式のヴィラ。)等の模作があるばかりでなく、市街地住宅の立面構成の指標になるほどの影響を与えている。ローマ教皇庁の司祭パオロ・アルメリコが、引退後を生まれ故郷のヴィチェンツァに移り住むためのヴィラをパラディオに依頼、1567年に着工したが、1580年にパラディオが亡くなり、施主であるアルメリコも1589年に亡くなると、パラディオの高弟ヴィンチェンツォ・スカモッツィが、新たに施主となったカプラ兄弟の下で1591年に完成させた。パラディオの古典的理想を最もよく示したヴィラは、完全な対称形に分割された正方形平面の中央部に、ドームを頂く円形のホールを持ち、正方形の4辺にイオニア式円柱のポルティコを付している。上の写真2葉は1988年の撮影。下の写真は1983年の撮影である。ポルティコの上のペディメント上には古代の神々の像が立つ。
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ヴィチェンツァのパラッツォ

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ロッジア・デル・カピタニアト(上の写真左)。ヴィチェンツァのシニョーリ広場に、パラディオ設計のバシリカ(パラッツォ・デル・ラジョーネ)と向かい合って建つ、ヴェネツィア政府のカピタニアト(政府によって設立された軍事当局)のパラッツォで、さしずめ代官公邸のようなもの。1565年に設計され、1571年に着工されるが、1572年には工事は中止(オスマン帝国との戦争による軍事費負担が市の財政を圧迫。)され、当初計画されていたとされる57ベイ(柱間)は完成せず、3つのベイのみが建設された。メインのファサードは、コリント式柱頭で飾られた巨大な4本の半柱(付け柱)が、ロッジアの3つのアーチと2階会議場の開口部を囲み、装飾されたバルコニーと、突き出たコーニス上に屋上部屋が載ったような構成である。一方右側面の意匠は、半ば完成したロッジアに、レパント海戦(1571年、ギリシャのレパント沖で、オスマン帝国とスペイン・ヴェネツィア共和国連合軍による海戦。)の戦勝記念として、ローマのフォーラムに遺るセヴェルスの凱旋門を手本にパラディオが追加設計したと言われている。

パラッツォ・ポルト・ブルガンツェ(上の写真右)。ヴィチェンツァのカステッロ広場南側に建つこのパラッツォは、クライアントであるアレッサンドロ・ポルト家の古い家(15世紀)に隣接して計画され、新しい建物の建設が進むにつれて、ポルト家の古い家屋を徐々に取り壊して建替えるという計画(1570年頃)であったという。建設はパラディオの死後、1580年からヴィンチェンツォ・スカモッツィによって実施されたというが、元もと計画されていた7ベイ(柱間)のうち2ベイのみが建設されて終了する。計画が継続されなかった理由がアレッサンドロの財政難という説もあるが定かでない。ジャイアント・オーダー左側の小さなアーチ隣にポルト家の古い家屋を見る。

ヴィラ・サレゴ

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ヴェネト州ヴェローナ県のコムーネであるカリアーノの、サンピエトロ市サンタソフィア・ディ・ペディモンテにあるヴィラ・サレゴ(1569)は、「建築四書」に載る大規模な計画の、ごく一部のみ実行されたヴィラである。1572年には居住可能な建物があったらしいが、1580年にクライアントであるマルカントニオ・セレゴの死により工事は完全に中断されたそうである。その後19世紀の半ばに、建築家でエンジニアのルイージ・トレザ(17521823:若くしてミケーリ・サンミケーリやジュリオ・ロマーノの建築にかかわり、後年にはヴェローナの円形劇場発掘調査の監督を務める。)により一部増築がなされるも、未完の状態で維持されてきました。上の写真は、四角い中庭を囲む計画であった建物の半分も実現できず、コの字型で終わったロッジア。下の写真はコの字型を正面から見る。ペリスタイル(ギリシャ建築やローマ建築における、柱のあるポーチ、または中庭を囲むコロネードで、中央に庭園などを持つ。)を構成するこのヴィラの最大の特徴は、2階建てのロッジアを支える巨大なイオニア式柱の形状にある。荒削りの不規則な石灰岩のブロックを重ねた柱は、パラディオの他の作品には見られない、素朴でユニークな形状である。晩年のパラディオに去来した造形美の表現か?
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下の写真はヴィチェンツァ市内に建つパラディオの像。その足元で思いを馳せる若かりし我。できるものならその時間と場所に戻ってみたいものである。

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# by toshinac | 2022-02-06 10:53 | trip photos

パラディオのヴィラとパラッツォ3

ヴィラ・ゼノ
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ヴェネト州トレヴィーゾ県のドニゴール・デ・チェッサルトにあるヴィラ・ゼノ(1554?)は、パラディオのヴィラの中でも、詳しいことが最も分かっていないヴィラと言われている。パラディオの計画は既存の建物を組み込んだものであったらしいが、その後大幅な変更を重ねながら18世紀にはレンガ造りとなり、そのときも大きな変更をともなったようである。上の写真は、正面側の全く面白みがない外観だが、パラディオの「建築四書」の立面図には、1階上部に半月形の大きなサーマルウィンドウが見られるが、18世紀の変更の際取り除かれたそうである。下の写真は庭園側の外観だが、3連アーチのロッジアにパラディオの特徴を見つけたり。
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ヴィラ・ティエネのバルケッサ(納屋)
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パドヴァ市の北西部に位置するコムーネ、フランカ・パドヴァーナにあるヴィラ・ティエネのバルケッサ(1556)は、ヴィチェンツァの貴族フランチェスコ・ティエネの依頼による、かなり大きな別荘建築であったが、実際に建築されたのは、最初に着工された右翼のバルケッサの一部のみ。未完成の計画を引き継いだフランチェスコの息子オドアルド・ティエネが、1567年に宗教上の理由でこの地を去ることとなり、計画は永久に放棄された。「建築四書」には、中央の巨大なロッジアの両翼には湾曲した柱廊が接続され、両端にはバルケッサが付いている計画図が描かれている。写真は、5つのアーチを連ねるバルケッサ。下の写真はバルケッサの屋根裏だが、その大きさから全体計画の壮大さが窺える。
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ヴィラ・バルバロ
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トレヴィーゾ県マゼールに建つヴィラ・バルバロ(1557)は、典型的なパラディオのヴィラ建築。ヴェネツィアの貴族であるダニエレ・バルバロと、マルカントニオ・バルバロ兄弟が、パラディオに依頼し建設したものである。兄弟は共に英国(ダニエレ)やフランス・オスマン帝国(マルカントニオ)で大使も務めた外交官で、兄のダニエレは、ウィトルウイルス(帝政ローマ初期に活躍した建築家で、最古の建築理論書“建築十書”の著者。)の注釈者としても知られており、弟のマルカントニオもまた、美術好きで、アマチュアの彫刻家でもあった。共に建築や美術に造詣の深い兄弟は、建築家パラディオ、彫刻家アレッサンドロ・ヴィットーリア、画家パオロ・ヴェロネーゼという、当代きっての3人の芸術家をスタッフとして迎え、ヴィラ・バルバロを完成させたのである。上の写真は、イオニア式オーダーを用いた神殿風の主屋を中央に、アーチが連なるバルケッサを左右に配し、その両端部は3連アーチの上部にペディメントをのせ、日時計を付けたパヴィリオンのような形態だが、裏側は食用の鳩小屋という建築である。
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上の写真は正面中央部分と、バルケッサのポルティコから見た前庭とその先に広がる緑豊かな田園風景。下の写真は、建物の背後に造られたグロッタ(人工洞窟)・ニンファエウム(古代建築における水の精ニンフに捧げられた祭祀堂)と呼ばれる噴水庭園である。デザインにパラディオが関わったかは定かではないが、水の精を祀るニンファエウムはアレッサンドロ・ヴィットーリアの作で、ニッチを飾る何体かの彫刻と、主屋正面のペディメントを飾る彫刻は、施主であるマルカントニオの作とされている。
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上の写真は、ヴィラ内部を飾るだまし絵である。ヴィラ・バルバロの内部は、まるでヴェロネーゼの美術館を想わせるほどのフレスコ画が描かれ、随所に見られるだまし絵は、立体的な部分と平面に描かれただまし絵が調和していて、写真に撮って見るとたしかにだまされそうである。下の写真は、ヴィラの前の道路沿いに建つバルバロ家の私設礼拝堂であるテンピエット・バルバロ(1580)。円形の礼拝堂に、6本のコリント式オーダーとペディメントからなるポルティコがついた形態は、パンテオンを小さく縦長にしたような建築で、パラディオ最晩年の作となっている。パラディオはこの礼拝堂の建設中マゼールで亡くなったとされているが、詳しいことは分かっていない。ちなみにテンピエット・バルバロは、現在この地域の教会になっているそうである。
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# by toshinac | 2022-01-01 12:00 | trip photos

パラディオのヴィラとパラッツォ2

ヴィラ・ポイアーナ

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ヴィチェンツァ県のコムーネ(基礎自治体)、ポイアナ・マッジョーレの町の南に建つヴィラ・ポイアーナ(1549)は、古くからこの地の地主であったポイアーナ家の別荘である。パラディオのヴィラに多くに見られる地階・主要階・屋階(アッティコ)三層構成で、平面的にも中央に広間、左右に脇部屋という三列構成となっている。上の写真は正面で、セルリアンモチーフ(セルリアーナ:各柱間に、円柱等で支えられたアーチが組み込まれたモチーフで、マニエリスムの建築家セバスティアーノ・セルリオ:14751554が最初に理論化したが、パラディオが好んで使ったことでパラディアン・モチーフとも呼ばれる。)に5つのオクルス(ラテン語の目を意味し、円い形状の窓や開口部を指す。)を配したデザインが特徴的。設計年とされる1549年は、パラディオの代表作の一つでもある、ヴィチェンツァのバシリカ(パラッツオ・デッラ・ラジオーネ)の建築家として正式に決まった時期。セルリアンモチーフがヴィラ・ポイアーナの設計に取り入れられたことはよく分かる。ただ後の「建築四書」の立面図に5つのオクルスは見られない。下の写真は庭側からの眺め。
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ヴィラ・コルナーロ

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ヴィラ・コルナーロ(1553)は、ヴェネツィアの北西約30kmパドヴァ県のコムーネ、ピオンビーノデセにある貴族の別荘である。通りに面した正面は、突出したダブル・ポルティコと呼ばれる2階建ての柱廊玄関が特徴的なファサードで、1階はイオニア式、2階はコリント式の柱廊が上下に重なっている(写真上)。下の写真は庭園側のファサードで、同様のダブル・ポルティコだが両側の壁面より中に埋まった形になっている。18世紀には、ヴィラ・コルナーロは「建築四書」の図面を通して世界中のヴィラのモデルとなり、イングランドのマーブルヒルハウス(1729)や、アメリカのドレートンホール(1742)などは、その影響を受けた初期の例とされている。特にアメリカ人には好まれる形だそうで、私達が訪れた1988年のヴィラ・コルナーロには、日本びいきのアメリカ人夫妻が住んでいた。
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パラッツォ・アントニーニ

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パラッツォ・アントニーニがあるウーディネは、イタリア北東部のフリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州の州都で、市街はヴェネツィアの北東約100kmに位置している。ウーディネの貴族であるアントニーニ家のために設計されたパラッツォ・アントニーニ(1556)は、地域の裕福な家族の典型的な都市型邸宅の最初の例とされている。1563年頃には居住可能な状態ではあったが、建築工事はまだ続行中だったそうだが、パラディオ没後(1680)の次の世紀には、パラッツォは外観や内部の装飾が大きく改変され、現在パラディオのプロジェクトが残っているのは、基本的な建物のボリュームと、前面、背面のロッジア、および「4柱のホール」のコンポーネントのみだそうである。上の写真は通りに面した正面。「建築四書」の図面にあるペディメントは実行されなかった。下の写真は、側面と背面を見る。訪れた1988年当時はウーディネ銀行の本部として使用されていたが、現在はウーディネ大学が所有している。
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ちなみに下の写真は、パラッツォ・アントニーニの工事と同時期にウーディネに造られたボラニアーチ(1556)。城に続く斜面のふもとに建つ単一のアーチ門は、ヴェネツィアの中尉(後の司教)ドメニコ・ボラニ(15141579)を讃える記念碑で、フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州でのパラディオのデビュー作である。後に(1563)にパラディオ自身がアーチと城に通じる道を整え、リベルタ広場との美的つながりを改善したとされている。

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toshinacHP


# by toshinac | 2021-12-03 17:25 | trip photos

パラディオのヴィラとパラッツォ1

1980年代、2度に亘ってイタリア・ルネサンス後期の代表的建築家、アンドレア・パラディオ(15081580)設計のいくつかのヴィラとパラッツォを訪れたことがある。特にパラディオのデザインに興味があったというわけではなかったが、イタリアを縦断する旅の途中で、ルネサンス以降の建築史において大きな影響を与えたパラディオの作品群を見る機会に恵まれた。その多くは、ヴィチェンツァ市街とヴェネト州一帯に点在し、1994年には“ヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパラディオのヴィラ”として世界遺産に登録されている。設計年や建設年には曖昧なてんも多くあるようだが、訪れた作品の一応定説とされている設計年代をもとに並べてみた。

ヴィラ・ピサーニ(バニョーロ)

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ヴィチェンツァ郊外のコムーネ(イタリア語の「共同体」を指す用語だが、現在ではイタリアの自治体の最小単位組織)の一つ、ロニーゴのバニョーロに建つヴィラ・ピサーニは、ベネチアの裕福な貴族の別荘で、パラディオの初期の作品(1542)とされている。上の写真は正面(東側)で、前を流れるグア川側から眺めたもの。19世紀には、三連アーチの奥を部屋とするため壁と窓で塞がれていたらしいが、1976年の修復時に取り除かれて写真のファサードになったそうである。下の写真の左上は西側(庭側)からの景観だが、同じ建物とは思えないファサードである。パラディオが好んで使った半円の窓が内部のヴォールト天井を表現する。下の右は、フレスコ画で彩られたその内部で、ローマ浴場に着想を得たとされるヴォールト天井のホール。左下は20年近く後に建てられたとされる側屋。
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ヴィラ・サラチェーノ

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ヴィチェンツァ南郊のコムーネ、アグリアーロの長閑な農村フィナーレに建つヴィラ・サラチェーノも、パラディオ初期(1545)の作品とされている(写真上)。訪れた1988年当時は、荒れ果てた廃墟同然の状態であったが、1994年の修復後、イギリスのランドマーク・トラスト(建物保護慈善団体)所有となり、貸別荘として利用されているとか。切妻3連アーチの母屋の右側に取りつくポルティコのあるバルケッサ(納屋)は、パラディオの図面をもとに19世紀になって付加されたものだそうだが、本来は左側にもバルケッサがあり、左右対称の設計図となっている。

ヴィラ・ティエネ

ヴィチェンツァの東に位置するコムーネ、クイント・ヴィチェンティーノに建つヴィラ・ティエネ(1546)は、パラディオを含む数人の建築家が関わったとされているヴィラで、いまに残る建物はコムーネの本部(庁舎)になっているという。当初の計画はかなり大きな建築だったそうだが、そのほとんどは未完で、現在庁舎となっている部分が唯一完成した部分だそうである。ヴィラの歴史は建設の中断や建築家が代わるたびの増改築などが繰り返されたらしく、どこの部分がパラディオのオリジナルなのか素人の私にはよく分からない。そもそもこのヴィラは、ティエネ家と親交が深かったジュリオ・ロマーノ(19441546:ラファエロの弟子で、画家であり建築家。)のプロジェクトに従ってはじまり、建築工事の責任者であったパラディオによって変更されたという話が通説のようである。上の写真は、町の広場側に面した正面である。巨大なドーリア式のピラスター(付け柱)で表現されたファサードは、3つの部分に分けられ、元々はそれぞれに窓が付いていたという。現在は構造のレンガ積がむき出しだが、かつてスタッコで覆われていたことを想像すると、パラディオの意図に近いファサードに見えてくる。下の写真は、中庭側のファサードで、18世紀前半頃フランチェスコ・ムットーニ(1669174718世紀にヴィチェンツァ近郊で活躍した建築家。パラディオの弟子であるヴィンチェンツォ・スカモッツィのもとで働いたこともあるそうである。)による大改造時に新たに造られたものだそうだが、あまり評判は宜しくないようである。
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ヴィラ・アンガラーノ

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ヴィチェンツァ県の北東部に位置するコムーネ、バッサーノ・デル・グラッパにあるヴィラ・アンガラーノは、パラディオの友人であったジャコモ・アンガラーノの住居として、地下室、厩舎、鶏小屋、ワイナリーなどを併設した計画で、1548年頃に設計されたらしいが、結果的には部分的にしか実現されなかった。工事は1550年代に開始されたがヴィラの本体部分は未完成で、パラディオの「建築四書」の図と合っているのは、写真上の左翼のバルケッサのみ。下の写真は、バロック様式のヴィラの本体部分で、17世紀の終わりから18世紀の初めにかけてバルダッサーレ・ロヘンナ(15981682:ヴィンチェンツォ・スカモッツィに師事したバロック時代の建築家。)の計画をもとに、バルダッサーレの弟子であったドメニコ・マルグッティというベネチアの建築家によって建てられた。さらに下の写真に見る右翼のバルケッサ正面に付く教会ファサードもまた、マルグッティによるとされている。
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# by toshinac | 2021-11-13 16:30 | trip photos

1976年のレニングラード(サンクトペテルブルク)/旧ソ連

ロシア北西部、バルト海のフィンランド湾に流入するネヴァ川河口の三角州に位置する都市サンクトペテルブルクは、モスクワに次ぐロシア第2の都市。かつては河口の湿地帯の小さな村にすぎなかったが、1703年にピョートル1世(ピョートル大帝)がペトロパブロフスク要塞を築くと、1712年にロシア帝国の首都がモスクワからこの地に移され、以降急速に発展し、19世紀にはロシアの政治、軍事、工業、貿易の中心地となる。しかし1917年に始まった2月革命(1917年に発生した革命運動で、帝政ロシアが崩壊し、数年間の革命と内戦を経てソビエト連邦の設立につながった。)により、1918年に首都はモスクワに移された。ソビエト連邦が成立すると1924年よりレニングラード「レーニンの街」と改称され、ソビエト連邦崩壊までの半世紀以上用いられたが、1991年に住民投票によってサンクトペテルブルクに戻された。

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上の写真は、街の中央を流れるネヴァ川の先に広がるレニングラード中心部を、宿泊したホテルの窓から眺めたもの。右手前に係留されている船は巡洋艦アブローラ号(ロシア革命の象徴の一つとして記念艦となり、ここに係留保存されている)。中央の緑に覆われた場所は、18世紀に造られた夏の庭園で、その先にモスクワのワシリー寺院に似た血の救世主教会(スパース・ナ・クラヴィー教会)と呼ばれる聖堂、右手のトロイツキー橋の先には聖イサーク大聖堂を望む。

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上の写真2葉は、グリボエードフ運河沿いの街並み。レニングラードは幾つもの運河が街中を縦横に巡る「水の都」でもある。上の下の写真正面に写る聖堂は、ロシア正教会の「血の救世主教会」の聖堂で、1881年ロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺された場所の上に建てられたことで付けられた名称で、正式にはハリストス復活大聖堂という。1883年に着工されたが、完成は13年後の1907年だそうである。下の写真は聖イサーク大聖堂。ドームの高さ101.5mを誇るロシア正教会の大聖堂で、名称はピョートル1世の守護聖人(ダルマチアの聖イサーク・ダルマツキー)に由来するそうだ。ピョートル大帝時代にワシリエフスキー島(市中心部の北に位置するフィンランド湾に面する島)に創建されたが落雷によって焼失、現在の大聖堂は1818年から40年の歳月をかけて完成したもので、設計者はフランス人の宮廷建築家オーギュスト・モンフェラン(17861858)である。ロシア・ビザンチン様式を基にした新古典主義様式による外観は、いわゆるパラディアン様式である。訪れた1976年には博物館として利用されていた。
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上の写真は、エルミタージュ国立美術館をネヴァ川越しに見る。1754年から1762年にかけて建てられた、かつてのロシア皇帝歴代の冬季の王宮で、建築家はバルトロメオ・ラストレッリ(17001771:フランス生まれのイタリア人建築家で、主としてロシアで活躍、バロック後期の建築様式であるロシア・バロックを完成させた)。1764年、ロマノフ王朝の女帝エカテリーナ2世(在位:17621796)が私的なコレクションを始め、1775年に自分専用の王宮を建て、収集した美術品を離れに飾ったことがエルミタージュ美術館の始まりとされている。1917年のロシア革命後は貴族から没収されたコレクションの集積所となり、1918年には冬宮殿に存在した全ての研究・管理組織を、建物共々エルミタージュ美術館として統合することが決定され、1920年から一般に公開されるようになる。 下の写真はスモーリヌイ修道院(スモーリヌイキリスト復活大聖堂)。ピョートル1世の娘である女帝エリザヴェータ(在位:17411762)が18世紀に創設した修道院で、設計はバルトロメオ・ラストレッリである。次に即位したエカテリーナ2世が女子教育の場として貴族女学院を開設。その校舎はイタリア人建築家ジャコモ・クヴァレンギ(17441817)による設計。1917年にはソビエト政権の樹立宣言が行われ、首都がモスクワに移るまで革命政府の本部として使われた。
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上の写真は、ピョートル1世が築いたペトロパブロフスク要塞。スウェーデンから奪った土地の防衛拠点として建造。実際に要塞としては使われず、政治犯の収容所などに用いられ、現在では複数の博物館になっている。上左は、要塞のシンボルでもあるペトロパブロフスキー大聖堂(首座使徒ペトロ・パウェル大聖堂)。18世紀初頭の建設で、ピョートル1世からニコライ2世までの皇帝と皇后の殆どが埋葬されていて、帝政ロシア時代には最も神聖な場所とされていた。設計者はドメニコ・テレジーニ(16701734:イタリア系スイス人で、ピョートル1世の側近としてサンクトペテルブルクの都市建設事業を統括した建築家・都市計画家)。上右上は要塞への北東側ゲート。上右下は大聖堂の付属施設で、現在は大聖堂へのチケット売り場も併設されている様である。

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上の写真2葉は、サンクトペテルブルクから西に約30km離れた、フィンランド湾南岸に位置する町ペテルゴフ(ドイツ語で「ピョートルの邸宅」の意)にあるピョートル1世の夏の離宮である。20の宮殿と7つの公園で構成されるペテルゴフの建設は、1714年ピョートル1世から始まり、1723年に完成式典が行われたとされている。写真に写る3階建てのバロック様式宮殿は、後に女帝エリザヴェータが、バルトロメオ・ラストレッリに改築を命じて完成したものである。また150を超える噴水で知られる庭園は、ヴェルサイユの庭園設計者アンドル・ル・ノートルの弟子であるアレクサンドル・ル・ブロン(16791719 フランスの庭園デザイナー・建築家)のペテルゴフ公園(17171718年)のマスタープランによるものらしいが、噴水は、15mほど高い宮殿の南側から、北側の低い庭園への自然の高低差を利用している。当初はこれらの噴水に必要な十分な水量が得られてはいなかったが、1720年~1721年にかけ、ロシア人の水道技師ワシリー・トゥヴォルコフという人物が、ペテルゴフ南方22kmにあるロプシャの地下湖から、水路や貯水池を経由した水の供給システムを造ったそうである。


# by toshinac | 2021-07-15 10:00 | trip photos