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リンダーホーフ城とエッタール修道院
リンダーホーフ城


リンダーホーフ城は、バイエルン州の南、アルプスの山麓に近い小さな村オーバーアマガウの南を走るグラスヴァン渓谷の中程にある。バイエルンの王ルードヴィッヒ2世によって17世紀後半に建てられた離宮で、パリのヴェルサイユ宮の庭園にある離宮の一つ、トリアノン宮殿を手本にして造られたとされているが、どの辺りを模しているのかはよく解らなかった。深い森を背景に建つこの小さな宮殿と地形を利用した庭園は、渓谷の大自然の中に現れた人工美。装飾過多のバロックやロココはあまり好みではないが、ここの景観は気持ちよく不思議な美しさがある。
写真は女神像の噴水がある池を中心に対峙する、宮殿側と傾斜を利用した階段庭園側を見る。
下はGoogle Earthで見たリンダーホーフ城全域。

エッタール修道院

オーバーアマガウの村から南へ8km、グラスヴァン渓谷の東端にあるエッタール修道院は、創建が1330年とされるベネディクト派の修道院。1710年に全面的なバロック化が始まり、ゴシック様式だった教会にバロック様式のファサードを付ける等、ある程度の改築は進んだが、資金難による工事の中断や火災による倒壊の憂き目に遭い、完全なバロック様式への移行は鈍化した。
その後の再建を経て、全ての空間が使用可能な状態になったのは1790年だったそうである。ただ北塔(写真上の左の塔)は19世紀半ばに建てられ、南塔(右の塔)とファサードは19世紀末から20世紀初頭の完成ということである。
バロック特有の華麗な内部に比べ、時代の反映か外観はネオ・クラシシズムの様相を呈している。
toshinacHP


リンダーホーフ城は、バイエルン州の南、アルプスの山麓に近い小さな村オーバーアマガウの南を走るグラスヴァン渓谷の中程にある。バイエルンの王ルードヴィッヒ2世によって17世紀後半に建てられた離宮で、パリのヴェルサイユ宮の庭園にある離宮の一つ、トリアノン宮殿を手本にして造られたとされているが、どの辺りを模しているのかはよく解らなかった。深い森を背景に建つこの小さな宮殿と地形を利用した庭園は、渓谷の大自然の中に現れた人工美。装飾過多のバロックやロココはあまり好みではないが、ここの景観は気持ちよく不思議な美しさがある。
写真は女神像の噴水がある池を中心に対峙する、宮殿側と傾斜を利用した階段庭園側を見る。
下はGoogle Earthで見たリンダーホーフ城全域。

エッタール修道院

オーバーアマガウの村から南へ8km、グラスヴァン渓谷の東端にあるエッタール修道院は、創建が1330年とされるベネディクト派の修道院。1710年に全面的なバロック化が始まり、ゴシック様式だった教会にバロック様式のファサードを付ける等、ある程度の改築は進んだが、資金難による工事の中断や火災による倒壊の憂き目に遭い、完全なバロック様式への移行は鈍化した。
その後の再建を経て、全ての空間が使用可能な状態になったのは1790年だったそうである。ただ北塔(写真上の左の塔)は19世紀半ばに建てられ、南塔(右の塔)とファサードは19世紀末から20世紀初頭の完成ということである。
バロック特有の華麗な内部に比べ、時代の反映か外観はネオ・クラシシズムの様相を呈している。
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シュパイヤー大聖堂

ドイツ南西の都市シュパイヤーに聳えるこの大聖堂は、正式名「聖マリア・聖ステバノ大聖堂」という全長133mの長大なバシリカ式聖堂である。神聖ローマ皇帝コンラート2世の命により、1030年に建設が開始され、孫のハインリヒ4世によって1061年に一応の完成をみるが、その後すぐに大規模な改修が始まり、完成までに80年近い歳月を要したという巨大な建築である。
この時の改修で初めて身廊部分に石のヴォールト天井が架けられたことで、ドイツに於けるロマネスク建築の時代の始まりとも言われている。数世紀にわたり帝国繁栄の象徴でもあった大聖堂は、17世紀にフランスの侵略を受けた時点から、破壊と再建の道をたどることとなる。19世紀に修復された現在の大聖堂は、創建当初の姿を取り戻したことが評価され、1981年、世界文化遺産に登録された。

大聖堂の地下には大きく美しいクリプト(地下祭室)が設けられていて、コンラート二世
をはじめ歴代の皇帝や皇后が葬られている。ロマネスクの教会堂では盛んに設けられ
たクリプトは、通常内陣の下に設けられるが、ここでは交差廊の下にまで及ぶ広い祭室
となっている。もともと祭壇下の石室に納めた聖者の遺体や聖遺物に、少しでも近づいて
崇拝できるようにするため、石室の周りに造った廊下状の通路がクリプトの始まりで、
10世紀頃から交差ヴォールトを架けた列柱式広間に発達したという。

写真下はロマネスク様式の聖堂としては最大級の大きさを誇る
シュパイヤー大聖堂の鳥瞰写真(Google Earth)

ロマンティック街道
ドイツ国内の観光コースの一つとして指定されている観光街道ローマンティシュ・シュトラッセ(Romantische Strasse)は、フランクフルトから120Kmほど東南東に位置するヴュルツブルクから、アルプスの麓の町フュッセンに至るおよそ350kmの道。現在ではいわゆる“ロマンティック街道”として多くの観光客で賑いを見せているが、ほんの数十年前までは、特に日本人観光客はあまり訪れないルートだったそうである。当時ドイツ政府観光局の局長として着任した日本の方が、「ローマ時代の道」という意味のローマンティシュ・シュトラッセを、ルート沿いに点在する中世の趣を残すロマンティックな町並みと関連づけ、“ロマンティック街道”と名付けたことから、日本の女性誌等でとり上げられ一気に日本人観光客が増えたという
ヴュルツブルク
ロマンティック街道の起点となるヴュルツブルクは、中世より司教領として栄え、ルネッサンス期には文化と芸術が開花した美しい古都。毎年6月に開催されるモーツァルト音楽祭が、かつての大司教の宮殿レジデンツで行われることでも有名な町である。写真は大司教の住まいであったマリエンベルグ要塞から眺めたヴュルツベルク旧市街。マイン川に架かるアルテ・マイン橋をはじめ、市庁舎やノイミュンスター教会、レジデンツなどが一望できる。
下の写真は街道を南下する途中で見かけた、館の下を道路が貫通する“おもしろ建築”。車の旅は想定していないシーンに巡りあうことがある。

ローテンブルク
Romantische Strasseのハイライトは、中世の趣を色濃く残す城壁の町ローテンブルク。正式には“ローテンブルク・オプ・デア・タウバー”といい、町の起源は9世紀中頃とされている。15世紀初めには2万人が居住する大都市となり、中世期ドイツの重要な地位を占めていた。しかし30年戦争(カトリックとプロテスタントのキリスト教2派の分裂による、ドイツにおける宗教戦争)による敗戦の憂き目にあいその地位も低下。19世紀初頭にはナポレオンによるヨーロッパの改新で自治権も失い、流通の中心からも外れていった。だが中央から見放されていたことが、返って近代化されずに歴史的な建築や環境が保存されたという。第2次大戦の空襲で町の40%を焼失するも、戦後、市民の再建の努力と全世界から寄付もあり、破損部分はほぼ復元された。
写真左は町の南端にあるシュピタール稜堡。左下はローテンブルクの撮影スポットでもあるプレーンライン(ラテン語で小さな場所)から見たシーバース門(1385年頃の建設)。右下はシーバース門を外側から望む。シュピタールの門が造られる以前は、ここシーバースが市門であった。かつて跳ね橋を収めていた跡が入口壁に残る。


ディンケルスビュール
なだらかな起伏の牧草地や畑の中を貫く街道の爽快なドライブ。いくつかの丘を越え、やがて尖塔や赤い屋根の連なるディンケルスビュールの町が見えてくる。古くからドイツの東西・南北を結ぶ交易路が交わる所に発展した交易の町。幸いにして第2次大戦の爆撃を受けなかったことで、中世の頃の町並みをそのまま現在に残している。
写真上は、ディンケルスビュールの景観を特徴づける町を囲む壁“市壁”に取りつく塔。現在の市壁は町の最盛期であった14世紀から15世紀にかけて造られたとされているが、町は19世紀から20世紀にかけて大規模な拡張がなされている。市壁が完全に町を取り巻く形で完成したのはそのときだそうである。ちなみに10世紀頃に巡らされた当初の市壁は、いまの町の中核部分を丸く囲んでいたという。その痕跡は地図上の通りの形で見て取れる。
写真下は中心街であるマルクト通り。15世紀中頃の建築とされるドイチェス・ハウス(中央に建つティンバーフレームの建物)をはじめ、様々な色と形の建物が通りを彩る。

ネルトリンゲン
町を囲む壁、いわゆる“市壁”が完全な形で残るネルトリンゲンに最初の壁が造られたのは、1215年の帝国自由都市(神聖ローマ帝国のドイツに於ける都市の一形態で、皇帝の直轄下に置かれ、一定範囲の自治を行使できた都市)となった時期。その後発展にともなって町は同心円状に拡大し、1327年には現在の市壁が造られている。第2次大戦の空爆からも奇跡的に免れたことで、歴史的な旧市街はロマンテック街道沿いの他の町同様に、中世の”都市の風景”を今に残している。

上の写真はきれいな楕円の市壁で囲まれた現在のネルトリンゲン(Google Earth)。中央部分に見る小さな同心円状の通りの形から、かつての市壁の範囲を読み取ることができる。ここネルトリンゲンは、1500万年前に巨大隕石の落下によってできたリース盆地のほぼ中央にある。衛星写真をもう少し引いて見ると、直径約25kmの盆地(クレータ跡)も、町の同心円状の形に見えてくる。下の写真は市壁の内外とメルヘンチックな中世の佇まい。


アウグスブルク
ロマンティック街道最大の都市アウグスブルクは、紀元前15年、ローマ皇帝アウグストゥスよって築かれた城の起源が都市名の由来である。15世紀から16世紀かけてフッガー家(中世ヨーロッパのこの地を中心に鉱山や金融を営んでいた大富豪)等によって金融都市として繁栄を極めことから“フッガーシュタット”とも呼ばれるというドイツで最も古い都市の一つ。
写真はそのフッガー家によって建てられた、世界最初の低所得者のための集合住宅“フッゲライ”。敬虔なカソリックで勤勉な、にもかかわらず貧しい家族持ちなどが入居対象の社会福祉住宅である。1521年の完成以降も、住居棟が増えるに伴って教会・学校・病院等も設けられ、フッゲライ自体が小さな町のようになったという。先の大戦で甚大な被害を受けたが、フッゲライの現在は歴史文化財として観光に寄与する一方、現役の福祉住宅としても活用されている。

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ヴュルツブルク

下の写真は街道を南下する途中で見かけた、館の下を道路が貫通する“おもしろ建築”。車の旅は想定していないシーンに巡りあうことがある。

ローテンブルク
Romantische Strasseのハイライトは、中世の趣を色濃く残す城壁の町ローテンブルク。正式には“ローテンブルク・オプ・デア・タウバー”といい、町の起源は9世紀中頃とされている。15世紀初めには2万人が居住する大都市となり、中世期ドイツの重要な地位を占めていた。しかし30年戦争(カトリックとプロテスタントのキリスト教2派の分裂による、ドイツにおける宗教戦争)による敗戦の憂き目にあいその地位も低下。19世紀初頭にはナポレオンによるヨーロッパの改新で自治権も失い、流通の中心からも外れていった。だが中央から見放されていたことが、返って近代化されずに歴史的な建築や環境が保存されたという。第2次大戦の空襲で町の40%を焼失するも、戦後、市民の再建の努力と全世界から寄付もあり、破損部分はほぼ復元された。 写真左は町の南端にあるシュピタール稜堡。左下はローテンブルクの撮影スポットでもあるプレーンライン(ラテン語で小さな場所)から見たシーバース門(1385年頃の建設)。右下はシーバース門を外側から望む。シュピタールの門が造られる以前は、ここシーバースが市門であった。かつて跳ね橋を収めていた跡が入口壁に残る。


ディンケルスビュール
なだらかな起伏の牧草地や畑の中を貫く街道の爽快なドライブ。いくつかの丘を越え、やがて尖塔や赤い屋根の連なるディンケルスビュールの町が見えてくる。古くからドイツの東西・南北を結ぶ交易路が交わる所に発展した交易の町。幸いにして第2次大戦の爆撃を受けなかったことで、中世の頃の町並みをそのまま現在に残している。

写真下は中心街であるマルクト通り。15世紀中頃の建築とされるドイチェス・ハウス(中央に建つティンバーフレームの建物)をはじめ、様々な色と形の建物が通りを彩る。

ネルトリンゲン
町を囲む壁、いわゆる“市壁”が完全な形で残るネルトリンゲンに最初の壁が造られたのは、1215年の帝国自由都市(神聖ローマ帝国のドイツに於ける都市の一形態で、皇帝の直轄下に置かれ、一定範囲の自治を行使できた都市)となった時期。その後発展にともなって町は同心円状に拡大し、1327年には現在の市壁が造られている。第2次大戦の空爆からも奇跡的に免れたことで、歴史的な旧市街はロマンテック街道沿いの他の町同様に、中世の”都市の風景”を今に残している。



アウグスブルク
ロマンティック街道最大の都市アウグスブルクは、紀元前15年、ローマ皇帝アウグストゥスよって築かれた城の起源が都市名の由来である。15世紀から16世紀かけてフッガー家(中世ヨーロッパのこの地を中心に鉱山や金融を営んでいた大富豪)等によって金融都市として繁栄を極めことから“フッガーシュタット”とも呼ばれるというドイツで最も古い都市の一つ。
写真はそのフッガー家によって建てられた、世界最初の低所得者のための集合住宅“フッゲライ”。敬虔なカソリックで勤勉な、にもかかわらず貧しい家族持ちなどが入居対象の社会福祉住宅である。1521年の完成以降も、住居棟が増えるに伴って教会・学校・病院等も設けられ、フッゲライ自体が小さな町のようになったという。先の大戦で甚大な被害を受けたが、フッゲライの現在は歴史文化財として観光に寄与する一方、現役の福祉住宅としても活用されている。


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ダルムシュタット芸術家村
ダルムシュッタットはドイツ中部・ヘッセン州の行政の中心地。ユーゲントシュティール(広義ではアール・ヌーボーの同意語)の建築が集まる芸術家村は、19世紀末、ヘッセン・ダルムシュタット公国最後の大公エルンスト・ルードヴィヒが、新しい芸術表現に取り組んでいる芸術家を各地から招聘し、町はずれの「マチルダの丘」につくらせた村。その際に築かれた建築の多くは、総責任者として建設の任にあたったオーストリアの建築家ヨゼフ・マリア・オリブリヒが設計している。特に大公の結婚を記念して建てられた結婚記念塔(1907年)は有名で、結婚を宣誓した時の大公の手をモチーフとした建物上部の形態が特徴的である。下左の写真は、住む人の優雅な佇まいが感じられるようなグリュッケルトハウス(オリブリヒ設計)。1901年の建築だが1967年に再建されている。右は結婚記念塔近くに建つロシア教会。この場所にどうしてロシア正教の教会が?という感じもするが、大公の娘が帝政ロシアのニコライ2世のもとに嫁いだ記念に建てられた教会だそうである。設計はロシアの建築家レオン・ベノワ(1856~1928年)。

ル・トロネ修道院

ル・トロネ修道院は南仏プロヴァンス地方バール県にあるロマネスク建築の傑作。
清貧を信条とするシトー派の手仕事と祈りのみの共同体生活に応じた建築で、
装飾や壁画を排した簡素な空間はいわゆる“清らかな意匠”である。
コルビュジェがラ・トゥーレット修道院を造るとき参考にしたという話はよく解る。
上の写真は、淡い色合いのステンドグラスを透した光が、柱や開口部周りの
石のエッジを際立たせ、凛とした美しさを見せる聖堂内部。
下の写真は聖堂正面。信者には門戸が閉ざされていたため中央に入口はなく、
両側の扉(右は修道士・左は助修道士)のみ側廊に通じている。

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ユニテ・ダビタシオン
マルセイユのユニテは、コルビュジェの住居に対する想いを実現させた近代建築を代表する集合住居。現在、基本的にはアパートの内部以外は自由に見学ができ、かつ住居を利用したホテルも開業していることなどから、築後60年経てなお建築関係者のユニテ詣は絶えることがない。プレハブ化された多様な住戸ユニットを立体的に組込んで表現されたコンクリート打放しのファサードは、特徴の一つでもある建築化された日除け(ブリーズ・ソレイユ)の効果と相まって、幾何学的な美しい陰影をつくり出している。
* 今年の2月10日に火災があり、数戸が被災した模様。巨大な集合住居であるだけに、防災と避難は気になるところ。・・・ル・モンドのサイトに動画がアップされている。
下の写真は共用通路と呼ぶ夜の街路をイメージした中廊下。
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ヴィエイユ・シャリテ
ヴィエイユ・シャリテはマルセイユの旧港北側のパニエ地区にある。17世紀、
貧しい人々を保護する目的の施療院として建設された。中庭に面して設けら
れた連続アーチ3層の回廊からは、中庭中央の礼拝堂をどこからでも見らる
構成となっている。第2次大戦後の解体を免れて国家遺産となり、現在は
地中海考古博物館などが入る複合文化施設として使われている。


写真は古典様式の礼拝堂の入口側とバロック様式を呈する礼拝堂の裏側。
様式の混在にそれほどの違和感はない。楕円ドームの背後にコリント様式
の柱を用いた古典的なスタイルの礼拝堂内部は、設計者ジャン・ビュジェの
独創的なところ。下はGoogle Earthで見たヴィエイユ・シャリテ。

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貧しい人々を保護する目的の施療院として建設された。中庭に面して設けら
れた連続アーチ3層の回廊からは、中庭中央の礼拝堂をどこからでも見らる
構成となっている。第2次大戦後の解体を免れて国家遺産となり、現在は
地中海考古博物館などが入る複合文化施設として使われている。


写真は古典様式の礼拝堂の入口側とバロック様式を呈する礼拝堂の裏側。
様式の混在にそれほどの違和感はない。楕円ドームの背後にコリント様式
の柱を用いた古典的なスタイルの礼拝堂内部は、設計者ジャン・ビュジェの
独創的なところ。下はGoogle Earthで見たヴィエイユ・シャリテ。

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五台山の古寺巡礼
中国仏教四大名山一つ五台山は山西省東北部の五台県に位置し、文殊菩薩が応化した場所として伝えられている。寺院は1900年以上前から修築、拡張を続け、いまでは47座の寺廟を数える仏教聖地。円仁(慈覚大師)が838年からの9年間にわたる中国の旅を記録した「入唐求法巡礼行記」では、840年の5月・6月の二ケ月間五台山に滞在し、高僧や多くの僧に出会い、数か所の寺で学び見分を広め、多くの教義を得た様子を記している。
南禅寺
五台県李家村にある南禅寺は中国最古の木造建築。創建は不明だが、大殿の梁に大唐建中3年に再建した旨の墨書銘があることから782年の建築とされている。時代の古さか?入母屋の屋根勾配がかなり緩いため、通常見かける社寺の大屋根という印象はない。殿内に安置された釈迦牟尼像をはじめとする仏像群は、そのほとんどが唐代の塑像の傑作だそうだが、残念ながら見ることができなかった。

仏光寺

創建は北魏の孝文帝(471~499年)の時代とされる仏光寺は、五台県豆村の仏光山山腹に建つ。現存の大殿は857年に再建された間口7間の雄大な建築で、中国では3番目の古さを誇る木造建築である。大殿に至る入口は、窰洞(ヤオトン)スタイルの管理棟らしき建物(近年の建築?)中央に設けられたトンネル状の階段で、狭いヴォールトを通り抜ければ大殿前の広場。下りは瓦屋根に開けられた穴に階段で下るという不思議なアプローチが面白い。

顕通寺

円仁は「入唐求法巡礼行記」の中で、840年5月16日大花厳寺に到着したと記している。現在の顕通寺である。創建は漢の明帝(56~75年)の時代で、洛陽の白馬寺と共に中国で最も古い仏教寺院であるが、現存する建物はそのほとんどが明代、清代に建てられたもの。現在でも五台山台壊鎮にある寺廟群の中心的な寺院で、今日の五台山仏教協会もここ顕通寺に設置されているそうだ。
塔院寺

五台山の仏教界を象徴するような大白塔(舎利塔)を持つ塔院寺は、五台山の五大禅処の一つ。顕通寺に隣接し塔院としての役割を担っていたが、明代に大白塔が建替えられた際に塔院寺という独立した寺院になったという。大花厳寺(顕通寺)に逗留した円仁も、青空の中に映える“かつて”の大白塔を眺めたのであろう。
菩薩頂

満州族の言葉で文殊菩薩の住むところという意味の菩薩頂は、塔院寺の北にある五台山最大のラマ廟である。創建は北魏の孝文帝の時代とされ、当初は大文殊院と呼ばれる仏寺であったが、明代後期には菩薩頂という名称はあったらしい。清代に入り皇帝がラマ教を崇拝したことから1660年(順治17年)ラマ教に改められ、主要な殿堂には高貴を表す黄色の瑠璃瓦が葺かれるようになる。
金閣寺
五台山聖域の南端に位置する金閣寺は、770年(唐代)の創建。現在ある建物は全て明代、清代のもの。当初は鋳銅の瓦に鍍金が施されていたことが寺名の由来だそうである。840年7月1日、唐の都長安を目指した円仁は、ここ金閣寺に2日間宿泊している。日記には寺の仏教宝物や法具についての記述がある。
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南禅寺
五台県李家村にある南禅寺は中国最古の木造建築。創建は不明だが、大殿の梁に大唐建中3年に再建した旨の墨書銘があることから782年の建築とされている。時代の古さか?入母屋の屋根勾配がかなり緩いため、通常見かける社寺の大屋根という印象はない。殿内に安置された釈迦牟尼像をはじめとする仏像群は、そのほとんどが唐代の塑像の傑作だそうだが、残念ながら見ることができなかった。

仏光寺

創建は北魏の孝文帝(471~499年)の時代とされる仏光寺は、五台県豆村の仏光山山腹に建つ。現存の大殿は857年に再建された間口7間の雄大な建築で、中国では3番目の古さを誇る木造建築である。大殿に至る入口は、窰洞(ヤオトン)スタイルの管理棟らしき建物(近年の建築?)中央に設けられたトンネル状の階段で、狭いヴォールトを通り抜ければ大殿前の広場。下りは瓦屋根に開けられた穴に階段で下るという不思議なアプローチが面白い。
顕通寺

塔院寺

菩薩頂

金閣寺
五台山聖域の南端に位置する金閣寺は、770年(唐代)の創建。現在ある建物は全て明代、清代のもの。当初は鋳銅の瓦に鍍金が施されていたことが寺名の由来だそうである。840年7月1日、唐の都長安を目指した円仁は、ここ金閣寺に2日間宿泊している。日記には寺の仏教宝物や法具についての記述がある。toshinacHP
縣空寺


山西省大同市渾源県の恒山峡谷にある縣空寺は、切立った断崖に取りつく懸造りの寺院。仏教・道教・儒教が共存するという珍しい寺院形態である。北魏後期の創建後、金、元、明代の再建を経る過程で、異なる宗教や教学が一体化した建築群となったのではなかろうか。
岩壁に差し込まれた梁が各層の荷重を負担し、かつ層間の柱を受ける梁は崖下から立上る柱に支えられている。古詩では「飛閣丹崖上、白雲幾度封」、「蜃楼疑海上、鳥道没雲中」と詠まれるが、その高さは詩から受ける印象ほどではなかったが、時期や気象条件によっては詩の雰囲気があじわえるのかも。
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仏宮寺釈迦塔

中国山西省応県にあるこの塔は、現存する中国最古の楼閣式木塔で、高さ67メートル5層の八角塔。(実際には各層間に暗層が設けられているので9層でもある)碑文の記載から創建は1056年ということだが完成はその140年後と言われている。石造と違い、木造で140年もの時間を費やしての完成というのはチョット首を傾げるが、たぶん造営中断の期間も相当あったのでは?と想像する。でもそこは悠久の大地“中国”、常識だけでは語れない事象がいっぱい。だから面白い!
若干右回りに傾きつつある釈迦塔だが、その荘厳なかたちは900年以上の時を経てなお見る者を圧倒する。
近年、中国のどこの史跡を訪ねても感じることだが、周辺の整備が進みすぎ、いささか俗っぽくなっているのが少し気になっている。
左は断面図(中国建築工業出版社刊、中国古代建築史より)
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