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ヒヴァ (1)/ウズベキスタン
首都タシュケントの西約750km、ホラズム州の州都ウルゲンチの南西30kmに位置するヒヴァは、古代ペルシャ時代からカラコム沙漠への出入口として栄えたオアシス都市。
その起源は考古学的には1世紀頃に遡ると考えられている。年間300日は雲一つないという「太陽の国」ホラズム(中央アジア西部に位置する歴史的な地域)の古都ヒヴァの名が初めて現れたのは、10世紀に書かれたアラビア語の地理書の中だそうである。13世紀のチンギス・ハーンによる攻撃や、14世紀のティムールによる支配で破壊、荒廃したホラズムを再興したのは16世紀初めに南下したウズベク族で、ブハラ、コーカンドとならんで、3ハーン国の一つとされるヒヴァ・ハーン国が建設されたのは1512年。
1643年にヒヴァ・ハーン国の首都がウルゲンチからヒヴァに移されると、街はホラズムの政治、経済、宗教の中心地としてその地位を確立する。街には二重の城壁が巡らされ、外側の城壁に囲まれたデシャン・カラ(外城)と、内側の城壁で囲まれたイチャン・カラ(内城)に分かれている。1740年、ペルシャのナーディル・シャーによる攻撃で街は破壊され、イチャン・カラも廃墟と化したが、18世紀から19世紀にかけてほぼ完全に再建されている。1873年にはロシア軍に占領されて帝国の属国となるが、ハーンの住居やイスラムの信仰施設の建設はつづけられていた。
ロシア革命(1917年)後の1924年にウズベク・ソビエト社会主義共和国が成立すると、ヒヴァはウズベクに区画され、1938年にホラズム州に編入された。
イチャン・カラ
イスラム教の聖都ヒヴァのイチャン・カラには、20のモスクと20のマドラサ、6基のミナレットなど、多くの遺跡が残されており、1969年には“博物館都市”に指定され、1990年には世界文化遺産に登録されている。上の写真は、東西約450m、南北約650mのイチャン・カラを囲む城壁の一部。ヒヴァには城壁に死者を埋葬する旧習があったことから、城壁の基部にはイスラム独特の形をした墓が連なるように造られている。
下の写真はイチャン・カラの東西南北にある城門の一つで、南にあるタシュ・ダルワザ門。過酷なカラクム沙漠への出入口である。
上の写真は観光客の入口となる西門(アタ・ダルワザ)を抜け、最初に目にするイチャン・カラのシンボル、未完の塔“カルタ・ミナル”を逆光の中に見る。左側の壁は古い宮殿を意味するクフナ・アルクの城壁。あえて逆光補正をしなかった結果の写真で、シルエットのみの景観となった。
上の写真は西門近くの城壁上からの眺め。城壁の右側がイチャン・カラで、1983年に大規模な改修工事が行われ、歴史記念物地区の建物は保存・改修され、老朽化が進んだ一部の建物は取り壊され、居住区の古い家屋は撤去と建替えが行われたという。
左の写真は、イチャン・カラの中心部からタシュ・ダルワザ門(南門)に通じる通り。イスラムの中世都市景観を彷彿させてくれる。
イチャン・カラのランドマークともいえる、高さ45mのイスラム・ホッジャ・マドラサ(1910年)のミナレットを正面に見る。
下の写真は東側のバルヴァン・ダルワザ門(1835年)。門の外側には、ロシアの支配下(1873年)に入るまで奴隷市場があったことから別名「奴隷の門」とも言われた。
当時奴隷の数は3万人を超え、ロシア人の奴隷も3000人を数えたとされ、強靭なロシア人奴隷はラクダ4頭で売られたという説がある。
toshinacHP
その起源は考古学的には1世紀頃に遡ると考えられている。年間300日は雲一つないという「太陽の国」ホラズム(中央アジア西部に位置する歴史的な地域)の古都ヒヴァの名が初めて現れたのは、10世紀に書かれたアラビア語の地理書の中だそうである。13世紀のチンギス・ハーンによる攻撃や、14世紀のティムールによる支配で破壊、荒廃したホラズムを再興したのは16世紀初めに南下したウズベク族で、ブハラ、コーカンドとならんで、3ハーン国の一つとされるヒヴァ・ハーン国が建設されたのは1512年。
1643年にヒヴァ・ハーン国の首都がウルゲンチからヒヴァに移されると、街はホラズムの政治、経済、宗教の中心地としてその地位を確立する。街には二重の城壁が巡らされ、外側の城壁に囲まれたデシャン・カラ(外城)と、内側の城壁で囲まれたイチャン・カラ(内城)に分かれている。1740年、ペルシャのナーディル・シャーによる攻撃で街は破壊され、イチャン・カラも廃墟と化したが、18世紀から19世紀にかけてほぼ完全に再建されている。1873年にはロシア軍に占領されて帝国の属国となるが、ハーンの住居やイスラムの信仰施設の建設はつづけられていた。
ロシア革命(1917年)後の1924年にウズベク・ソビエト社会主義共和国が成立すると、ヒヴァはウズベクに区画され、1938年にホラズム州に編入された。
イチャン・カラ
下の写真はイチャン・カラの東西南北にある城門の一つで、南にあるタシュ・ダルワザ門。過酷なカラクム沙漠への出入口である。
上の写真は西門近くの城壁上からの眺め。城壁の右側がイチャン・カラで、1983年に大規模な改修工事が行われ、歴史記念物地区の建物は保存・改修され、老朽化が進んだ一部の建物は取り壊され、居住区の古い家屋は撤去と建替えが行われたという。
左の写真は、イチャン・カラの中心部からタシュ・ダルワザ門(南門)に通じる通り。イスラムの中世都市景観を彷彿させてくれる。
イチャン・カラのランドマークともいえる、高さ45mのイスラム・ホッジャ・マドラサ(1910年)のミナレットを正面に見る。
下の写真は東側のバルヴァン・ダルワザ門(1835年)。門の外側には、ロシアの支配下(1873年)に入るまで奴隷市場があったことから別名「奴隷の門」とも言われた。
当時奴隷の数は3万人を超え、ロシア人の奴隷も3000人を数えたとされ、強靭なロシア人奴隷はラクダ4頭で売られたという説がある。
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| 2018-02-01 14:11
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