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ブハラ (1)/ウズベキスタン

ウズベキスタンの首都タシュケントの南西約450kmに位置するブハラは、サマルカンドと共にシルクロードの重要拠点として繁栄したオアシス都市。その歴史は古く、考古学上では紀元前5世紀頃には現在の地に城壁に囲まれた都市が築かれていたとされている。紀元後にはイラン系ソグド人の都市国家が建設され、ブハラの商人たちは東西交易の仲介者として活躍していたらしく、7世紀の中国の文献にはブハラは「安国」と記されて登場する。8世紀初頭のイスラム帝国の勢力増大とともにイスラム化が進み、9世紀後半にサーマーン朝(土着のイラン系貴族)が成立すると、ブハラは10世紀末まで王朝の首都となり、イスラムの学術とイラン文化の中心地となっていく。 
13世紀前半、モンゴル軍によってブハラは征服され市街は荒廃するが、同世紀の後半には復興する。しかし15世紀のティムール朝まで政治的な中心はサマルカンドにあったため、征服以前の繁栄には及ばなかったという。16世紀後半に至り、ウズベク人のシャイバーニ朝によってサマルカンドから遷都され、ブハラ・ハン国の首都となるとブハラは再び拡大し、地域の政治・経済・文化の中心地となっていく。中央アジアの他の都市同様に、繁栄と破壊が繰り返された歴史を持つブハラに残る遺跡のほとんどは、ブハラ・ハン国の首都として栄えた16世紀のものである。
19世紀後半には、ロシア帝国の南下政策によって植民地に組み入れられ、1917年のロシア革命後はブハラ人民ソビエト共和国(1920~1924)の首都となり、1924年、ウズベク・ソビエト社会主義共和国成立後の1928年ブハラ州の首都となる。1991年のソ連崩壊後、独立国ウズベキスタン共和国の国領となる。

カラーン・ミナレットとモスク
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町のどこからでも見えるブハラのシンボル“カラーン・ミナレット”は、カラハーン朝 (9世紀~12世紀:中央アジアのトルコ系遊牧民族のなかで、最初にイスラム化した集団と考えられ、サーマーン朝を滅ぼした後、西トルキスタン一帯にティルク(トルコ)・イスラム文化を確立する。)時代の1121年に創建されたカラーン・モスク (16世紀に再建されたもの。)の前に建設されたミナレットで1127年の完成。基底部の直径約9m、高さは約46mで、西トルキスタンに現存するミナレットのなかでは最大規模を誇る。1220年のモンゴル軍による占領で、モスクは破壊されたと考えられているが、ミナレットは破壊をまぬがれたことから多くの伝説が残っている。その一つが、モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハーンが、このミナレットに感動し、部下に破壊をやめるよう命じたため、という説である。
上の写真はカラーン・モスクの中庭から、回廊越しにミナレットを望む。
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e0116578_10471662.jpg上の写真は、ミナレット上部のアザーン(礼拝の呼びかけ)が行われていた部屋からカラーン・モスクを俯瞰する。1万人の信者が礼拝できるという大きさは、サマルカンドのビビハニム・モスクに匹敵するとされ、中庭を囲む回廊は208本の柱と288の小さなドーム屋根で構成されている。
左の写真は煉瓦造りのミナレット内部の螺旋階段。段数は105で、段鼻には木材が使われている。






下の写真は、ミナレットから眺めたブハラ旧市街。
手前のドーム屋根の建物は現在博物館のようであり、左の中庭を持つ2階建ての建物はアブドゥールアジス・ハーン・マドラサ。その奥のドームを持つ建物は小さなモスクである。
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ミル・アラブ・マドラサ
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e0116578_10585688.jpgカラーン・モスクに面して建ち、青いモザイクタイルで装飾された巨大なアーチを持つ正面入口と、ドラムに精緻な装飾が施された2つの青いドーム屋根が特徴的なミル・アラブ・マドラサは、末期ティムール様式の典型的な例と言われている。
1536年の建立で、宗教を禁じたソ連時代にあっても、中央アジアで開校を認められていた数少ない神学校。
上の写真はカラーン・モスクの入口側からミル・アラブ・マドラサを正面から見る。

左の写真はカラーン・ミナレットから俯瞰したもの。中庭を囲んで回廊があり、一階に講義室や図書室などが設けられ、2階がフジュラ(学生のための寄宿舎)となっている。
奥の土色のドームはタキと呼ばれる交差点を覆うバザールで、ブハラ市内には幾つかあり、このバザールはタキ・ザルガランという宝石商市場。
そのドームの先にウルグ・ベク・マドラサがあり、向い合ってアブドゥールアジス・ハーン・マドラサが建っている。



ウルグ・ベク・マドラサとアブドゥールアジス・ハーン・マドラサ
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ティムールの孫であるウルグ・ベクが、真の教育施設にしたいと願って1418年に創設した神学校で、1585年に修復はされているが、中央アジアに現存する最古のマドラサで、現在は歴史博物館となっている。
上の写真は正面入口と中庭側。マドラサの扉には、「向学心こそムスリムにはなくてはならぬもの」と記されている。
下の写真は、ウルグ・ベク・マドラサの真向かいに建つアブドゥールアジス・ハーン・マドラサ。ウルグ・ベク・マドラサの創建後、200年以上も経てから建てられているので、色彩も豊かになり、中央イワーンにはムカルナス装飾も見られるなど、イスラム建築の変遷が見えてくる。
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# by toshinac | 2017-12-11 11:10 | trip photos

シャフリサブス/ウズベキスタン

サマルカンドの南約80kmに位置するシャフリサブスは、古くはキシュと呼ばれたティムール誕生の地としてその名を歴史に留めている。中央アジアのイスラム化以前からソグディアナの都市として知られており、玄奘三蔵の「大唐西域記」にも羯霜那国(kusana)の名で登場する。ティムールは、建国当初は首都をシャフリサブスにと考えていたらしいが、立地条件や交通の便の悪さが要因で、サマルカンドに首都を据えたとされている。だが帝国を築いた後も故郷を忘れず、サマルカンドに引けを取らない壮大な建築群を次々と建設する。しかし16世紀後半に、ブハラ・ハン国(シャイバーニ朝)によって町は攻略され、ティムールの遺産のほとんどが破壊されてしまう。
その後シャイバーニ朝の統治が始まるも、17世紀にはウズベクの地方部族による自治権闘争が繰り返され、やがて1870年にロシア帝国の保護下にあったブハラに併合される。
ソヴビト連邦崩壊後にウズベキスタン共和国が独立すると、ティムールの再評価に伴い、シャフリサブスはティムールの故郷として観光都市化が進められている。

アク・サライ宮殿跡
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e0116578_14262313.jpgティムールの離宮で、またの名を白い宮殿と呼ばれるアク・サライ宮殿は、1380年に着工され、ティムール死後の1405年まで建設が続けられたという。1405年の完成時の宮殿入口には50mほどの塔が建ち、宮殿の上部には「我が力と壮麗さを疑う者はこの建築を見よ」という銘文を掲げていたとされ、宮殿の屋上にはプールが設置されていたという説もある。ティムールが残した最も壮大な建造物とされている。
現在は半ば崩れた正面入口部分を遺すのみ。破壊される以前の往時の宮殿の姿を想像するが、遺構があまりにも乏しくて想い描くのは難しい。
上の写真は、現在公園となっているアク・サライ宮殿跡。ティムール像が立つあたりに宮殿が建っていたらしく、北300mほどに塔状に残る崩れた入口部分を見る。左の写真上は塔状に残る正面入口部分。左の写真下は近くで見上げた塔状部分の遺構。全ての部分が彩釉煉瓦やマジョリカ・タイルなどで覆われていたと想われる。


コク・グンバス・モスク
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ドルッテイロヴァット(瞑想の家)建築群と呼ばれる、ティムールゆかりの建築群の中にあるコク・グンバス・モスク(青色のドームを持つモスク)は、ティムールの孫ウルグ・ベクが、父であるシャー・ルフを偲ぶために1436年に建てた金曜モスク。内部壁面は近世に修復されている。(写真上)
中庭を介して、グンバズィ・サイーダン廟(1437年~1438年にかけて、ウルグ・ベクよって一族の墓所として建立された)と、シャムスッディーン・クラル廟(1374年にティムールが父タラガイと、聖者シャムスッディーン・クラルのために建てた墓所)がある。

シャハンギール廟

e0116578_14333643.jpgティムールが22歳で亡くなった長男シャハンギールのために建てた霊廟で、死後20年の1932年にようやく完成したとされる巨大な廟。
半ば崩れかけた廟の前には、ドルッサオダット(大いなる力の座) 建築群と呼ばれている、かつての建築群の基礎跡が展開する。(写真左)






下の写真は、ドルッサオタット建築群の中にあるハズラティ・イマーム・モスク。
8世紀の高名な指導者が埋葬されているとされ、現在でも信仰を集めている19世紀に建てられた新しいモスク。シャハンギール廟の傍に建ち、その側面の地下室には、1963年に発見されたティムールの棺がある。ティムールが自分のために用意したものらしいが、彼はサマルカンドのグリ・アミール廟に埋葬されている。
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# by toshinac | 2017-11-23 14:40 | trip photos

サマルカンド(2) /ウズベキスタン

ビビ・ハーヌム・モスク
中央アジアに最初で最大の帝国を一代で築き上げたティムールは、帝国の首都と定めたサマルカンドに大規模なモスクの建設を企て、インド遠征から帰った1398年(1399年説もある)に着工。
建設には、ティムールが征服したイランやシリア、インドなどから連れてこられた多数の技術者が動員され、老ティムール自身も毎日現場に出向いて工事の指示を出すとともに進行を急がせたという。その結果、当時のイスラム世界では最大規模を誇る美しい建築が異例の速さで1404年には完成したとされている。だがこの建築は落成後間もなく崩落が始まるのだが、ティムールが中国遠征の途上で歿する(1405年)ということもあり、修復や再建工事が行われることなく放置され、その後の地震等でも崩壊が進み荒廃してしまう。
時は流れ、ウズベク・ソビエト社会主義共和国時代の1974年に再建・修復が始まり、主礼拝室と副礼拝室のドームが復元され、その後の独立後も再建・修復が進み、正門のイワーンやミナレットなど外観の一部が完成している。
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167m×109mという東西に長い広大な敷地に、78m×64mの中庭を囲んで、メッカの方角にあたる西側に主礼拝堂、それに相対する東側に正門。南側と北側の中央には副礼拝堂が設けられ、列柱で支えられた連続する小ドームの回廊がそれらをつないでいた。外周の四隅と主礼拝堂の正面左右と正門左右に、計8本のミナレットが建ち、壮麗な姿を誇っていた巨大モスクは、いつどこまで甦るのだろう。
上の写真は北側中央に建つ副礼堂を中庭側から見る。
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上の写真は主礼拝堂。中庭側正面から見るとファサードが大きすぎ、サマルカンド・ブルーのドームが写らないため側面から見る。二重殻ドームの外径は18mで、高さはかつて50mほどであったとされているが、建築史書によると40mに達するとある。さだかではないが再建後の数値なのかもしれない。巨大すぎた構造と工事の急ぎ過ぎなどが崩落の原因ではとされるビビ・ハーヌム・モスクには、史実の中に多くの伝説も紛れているようで、その見極めがなかなか難しい建築である。
下の写真は、北側のリブ付きドームを頂く副礼拝堂とモスクの正門を中庭側から見る。
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グリ・アミール廟
“王の墓”を意味するグリ・アミールは、ティムールとその息子達が眠る霊廟である。もともとこの場所には、ティムールの孫ムハンマド・スルタンが14世紀末に創設したマドラサとハナカ(巡礼者用の宿舎)が建っていた。(マドラサ等の建築は現在失われている) しかしムハンマド・スルタンが1403年に遠征先で戦死したことから、ティムールは直ちにハナカの中庭に接して墓廟の建立を命じ、1404年の秋には完成。外形は八角形だが墓室は正方形で、二重殻のドームがそれを覆っており、特徴的な高いドラム上には青いタイルの華麗なリブ付きドームが地上34mの高さに達している。
孫の死を偲んで建てた墓廟であったが、1405年に中国への遠征先で病死したティムール自身もここに葬られ、以後ティムール一族やその側近達の墓所となり、“グリ・アミール廟”と呼ばれることになる。
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e0116578_103431100.jpg上の写真は北東側から眺めたグル・アミール廟。手前にかつてのマドラサ跡と中庭への入口を見る。



左の写真は墓室内部。床に並べられた墓石は、地下室にある墓の位置を示しているのみで実際の墓ではないが、中央に置かれた黒緑色の軟玉石がティムールの墓石で、1425年に孫のウルグ・ベクが遠征先から持ち帰ったともの伝えられている。そしてウルグ・ベクもこの廟の一隅に眠っている。17世紀ティムールの後裔であるムガル朝のアウラングゼーブ王が、中央アジア併合の布石として、グル・アミール廟の拡張工事を行うが未完に終わり、その後崩壊するままに放置されたという。




下の写真は、拡張されるはずであったと想われる西側大ホールの基壇と接続部分の遺構越しに、廟のリブ付きドームを望む。
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シャーヒ・ズィンダ廟群
“生ける王”と言う意味のシャーヒ・ズィンダの廟群は、古代サマルカンドの遺丘アフラシャブの南端にある。預言者ムハンマドの従兄弟で生きたままこの世を去り、永遠に生きつづけているという伝説を生んだ、クサム・イブン・アッバスの廟(11世紀)に至る坂道の両側に、14世紀から15世紀にかけて造られたティムール一族の墓廟が建ち並び、“死者の通り”と言う呼び名も頷ける独特な景観を見せている。
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e0116578_10515855.jpgこの地はモンゴル軍の来襲以前からイスラム教徒の聖地となっており、12世紀にはすでに巡礼のための順序が定められていたと言われているが、12世紀当時のものは建物の一部の基礎部分が残るのみで、廟群のほとんどはウルグ・ベク時代の完成とされている。
上の写真は、溝状の通りを一番奥にあるクサム・イブン・アッバス廟近くの丘上からの眺め。通り奥の左側にティムールの妹を祀った廟とされるシリン・ベク・アガ廟。通りをはさんでアミール・ゾダ廟とシャディ・ムルク・アガ廟(ティムールの姪)とが隣合せで建ち、どちらもリブ付きドームを頂いている。その手前の16角形の立ち上がりを持つ廟は、ティムールの部下の将軍の廟ではとされているが定かではない。何れも14世紀の建造とされている。
左の写真は通りの一番上の門で、手前左側がクサム・イブン・アッバス廟への入口となっている。

下の写真はクサム・イブン・アッバス廟の中にある礼拝の広間。
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e0116578_1058420.jpg左の写真は、シリン・ベク・アガ廟とシャディ・ムルク・アガ廟の間から、“天国への階段”を上りきったところにある尖塔アーチの門(18世紀)を見る。
奥に見るウルグ・ベクの天文学の師であるカズィ・ザル・ルミの廟(15世紀)とされる青のドームが印象的。







下の写真は、中央の霊廟群から一番奥の上の門を望む。右手の八角形の廟は15世紀のものとされているが、誰が祀られているのかは不明だそうである。
左側には14世紀頃の墓廟跡がつづき、ティムール軍の将軍の廟ではと言われている16角形の廟が建ち、上の門の左奥に、ティムールの妻トゥマン・アガの廟に付属するモスクの青いドームが見え隠れ。
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# by toshinac | 2017-10-20 11:07 | trip photos

サマルカンド(1) /ウズベキスタン

首都タシュケントの南西約300kmに位置するサマルカンドは、かつてシルクロードの中心的なオアシス都市として栄えた中央アジア最古の都市の一つであり、青空とモスクのブルータイルの美しさから“青の都”とも呼ばれる世界遺産の都市。
始まりはソグディアナ(中央アジアを流れるザラフシャン川を中心とする地域の呼称で、イラン系ソグド人の住地)のオアシス都市として成立した紀元前5世紀頃とされている。7世紀の後半以降アラブ軍の組織的侵入がはじまり、714年、クタイバ・イブン・ムスリム将軍(ウマイヤ朝カリフ国に仕えたアラブ人の軍人 669~716)によって、サマルカンドを中心とする一帯は征服され、中央アジアにイスラム教が根付く起因になったという。それでも商才と工芸技術に長けたソグド人は、様々な王朝の支配を受けながらも数世紀にわたって営々とサマルカンドを築き上げてきたが、1220年、サマルカンドはチンギス・ハーン率いるモンゴル軍によって壊滅的に破壊され廃墟と化す。
下の写真は、当時の中心地があった現在のアフラシャブの丘。破壊された城壁や家屋の日干し煉瓦が、そのまま風化したのであろうと想わせる茫漠たる地表に、少ない水を求めて生えるラクダ草がもの悲しく映る。
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14世紀の前半頃になると、サマルカンド近郊のキシュ(現在のシャフリサブス)出身の英雄ティムール(ティムール朝の建国者:1336~1405)によって、かつての中心部に接する地域に新しい市街が形成されてサマルカンドは甦り、1369年ティムールの世界帝国の首都となる。
彼は帝国各地から遠征の度に連れ帰った工匠や職人たちを使って壮大な建築を次々と建造し、イスラム世界でも名高い都市に復興して繁栄を極めたのである。しかし、1501年ティムール朝は内紛から滅亡し、権力はウズベク族のシャイバーニ朝に移り、首都がブハラに遷都(1557年)されるとサマルカンドの政治的な地位は低下した。
そして1868年帝政ロシアに占領され、ソビエト連邦時代の1924年、民族的境界画定により、ウズベク・ソビエト社会主義共和国に区分され、1930年までその首都となっていた。独立後の現在、サマルカンドは首都タシュケントと並んでウズベキスタンの経済・文化の中心地となっている。

レギスタン広場
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モンゴル軍によって壊滅したかつての中心部(アフラシャブの丘)から移った、新しい市街の中心であったレギスタン(砂地の意)広場は、3辺を、ウルグ・ベク・マドラサ、シェル・ドル・マドラサ、ティリヤ・カリ・マドラサの壮麗なファサードで占められたモニュメンタルな都市空間。上の写真の広場西側(左)がウルグ・ベク・マドラサ、北側(中央)がティリヤ・カリ・マドラサ、東側(右)がシェル・ドル・マドラサである。

ウルグ・ベク・マドラサ
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ティムールの孫で、ティムール朝の第4代君主であるウルグ・ベクによって1420年に建てられた神学校で、天文学者でもあったウルグ・ベク自身も教鞭を執ったとされ、彼の嗜好を反映した星空を表わす幾何学模様が、広場に面する正面のイワーン上部を飾る。(写真上)
下の写真は、中庭を介して正面入口の軸線上にあるイワーンを中心に、アーチが連なるフジュラ(学生のための寄宿舎)を見る。マドラサの構成は、中庭を囲む4面の中央にイワーンが配置された、いわゆるチャハル・イワーンの形式である。
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シェル・ドル・マドラサ
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17世紀、この地を支配したウズベク族の領主ヤラングトゥシュ・バハディルによって、1619年~1631年にかけて建設された神学校で、ウルグ・ベク・マドラサに相対して、ほぼ同規模で同じ構成で造られている。特筆すべきは、正面イワーンの壁面上部に動物と人面のある太陽が描かれていることである。
本来イスラムの文様に人や動物の姿がモチーフとなることは、偶像崇拝を否定する立場からありえない。だが支配者ヤラングトゥシュが自分の権力を誇示するためあえて禁をやぶり、人面の太陽を背景に、鹿を追うライオンの鬣(たてがみ)を付けた虎が描かれているのである。しかしシェル・ドルとはライオンの意味ということなので、虎ではなくライオンか?、何れにしても、この模様は動物界の王と天体の王とが一つに合体したことを表現しているという。(写真上)
下の写真は正面の裏側を中庭から見る。さらに下の写真はシェル・ドル・マドラサとウルグ・ベク・マドラサの南東側からの眺め。
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ティリヤ・カリ・マドラサ
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晩年のヤラングトゥシュによって1647年~1661年にかけて建設されたモスクを兼ねた神学校で、礼拝所の内部装飾に金箔が使われていることからティリヤ・カリ(鍍金された)・マドラサと呼ばれている。
上の写真はティリヤ・カリ・マドラサ正面。広場の全体的な展望のもとに設計されているが、厳密な左右対称ではなく、43m四方の中庭を囲むフジュラは3方のみで、西側(写真の左側)には広いモスクが造られている。下の写真はモスクの礼拝所。モスクのドームは一般的には二重殻であり、内側はある程度半球状になることが多いが、ここはドーム状には見えるがほとんど平らな天井である。数段のムカルナス装飾で正方形から八角形、十六角形、そして円形の天井へと視覚を移行させ、焦点を持つ遠近法の模様がドーム状の天井を創出している。
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ウルグ・ベク天文台
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e0116578_1773296.jpg天文学研究の中心地として、最盛期には60人~70人の天文学者が研究を行っていたというウルグ・ベク・マドラサの天文学研究をサポートするため、天文学者でもあったウルグ・ベクは、1924年天文台の建設を開始して1429年に完成させ、ここでの天体観測をもとにいわゆる“ウルグ・ベク恒星表”を作成。1449年のウルグ・ベクの死後、天文台は保守系のイスラム教徒によって破壊されて荒廃し、所在地さえも分からなくなっていたが、今世紀初頭、アフラシャブの丘から北東に1kmチュバン・アタという丘の上で発見、発掘されたのである。

上の写真は、円い基礎と六分儀の地下部分のみ残る天文台の跡。直径約48mの円筒形の建物で、最深部から約40mあったと推定されている。


左の写真は六分儀の地下遺構。巨大な六分儀の円弧をおさめるため地下深く掘り下げられた岩盤。六分儀の57°から90°までが遺っている部分だそうである。


荒廃したサマルカンドを甦えらせた祖父ティムールの英雄的行動と、君主でありながら自ら教鞭をとり、学者として活躍したウルグ・ベクの非凡な才能なくしては、“青の都サマルカンド”はあり得なかったと語られる。

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タシュケント/ウズベキスタン

中央アジアに位置するウズベキスタン共和国は、国境を2回以上超えないと海に達することができないという、いわゆる「二重内陸国」である。したがって、海へ直接つながる国内河川はなく、国土のほとんどは広大な沙漠と険しい山々で占められた乾燥地。古の東西交易のいわゆるシルクロードの北のルート上に、度重なる戦乱を生き抜いた歴史的なオアシス都市が点在する。
下の写真は、タシュケントの旧市街にあるクカルダシュ・マドラサ。16世紀に建てられた神学校で、独立後修復され現在も神学校として活動している。
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首都であるタシュケントは、同国の北東部にあり、天山山脈に源を発するシルダリヤ川支流のチルチク川流域に展開するオアシス都市。町の起こりは紀元前1世紀頃とされ、この地にあった仏教寺院の建築装飾のためインドの工匠が訪れたという話が、中国の史書「魏志」に記されているという。
8世紀のアラブ人に始まり、13世紀初頭にはモンゴルに、14世紀にはティムールに征服されるという、戦乱による荒廃期と隆盛期が繰り返されてきた。ティムール帝国統治下の15世紀後半には幾つかのイスラム寺院や神学校が建設され、さらに16世紀に入ると学芸の隆盛を迎え、詩人、学者、音楽家たちが優遇され多くの信仰上の建物が建設されている。19世紀初めにコーカンド・ハーン国 (18世紀から19世紀前半にかけて中央アジアに栄えたイスラム王朝)の支配下となるが、一方で帝政ロシアとの経済関係も拡大されその影響力が増大し、1865年ロシアに併合された。
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e0116578_9325314.jpg1930年からはウズベク・ソビエト社会主義共和国の首都となり、タシュケントは急速にロシア化が進み、ロシア革命後の旧ソ連時代も通して、中央アジア支配の拠点都市となっていく。1966年の大地震で壊滅的な被害を受けるが、ソ連各地から数万人の労働者が投入され、町は僅か数年でソ連的な近代都市に生まれ変わり、その復興ぶりは社会主義の見本として盛んに宣伝されたという。
ソ連が崩壊した1991年、独立国となったウズベキスタンの首都となる。
上の写真は16世紀に建てられたバラク・ハーン・マドラサ。中庭のバラ園が美しく、ソ連時代から中央アジアのイスラムの本庁が置かれていた。
左の写真は、バラク・ハーン・マドラサの向かい側に建つハステイ・イマーム・モスク(16世紀)の本庁付属の図書館内部。中央の机の上には、最古のコーランといわれるオスマン・クラーン(7世紀)のコピーが展示されている。
下の写真はオスマン・クラーンのコピー。オリジナルは上階の書庫に厳重保管されている。
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アリシェル・ナヴォイ劇場
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アリシェル・ナヴォイ劇場(ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場)は1947年の完成で、設計はロシア・ソビエト連邦の建築家で、赤の広場のレーニン廟の設計者アレクセイ・シューセフ(1873~1949)。第2次大戦後のソ連に抑留されていた旧日本兵の捕虜の中から、建築に適した工兵457人が強制的に派遣され、特殊業務として建設に従事したことで知られる建築。
1966年の大地震で街が全壊したにも関わらず、全くの無傷で避難所として活用されたほどの見事な仕事ぶりは、現在ウズベキスタンで親日感情が高いことの一因とも言われている。

ウズベキスタン工芸博物館
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e0116578_9401920.jpg1907年に建てられたロシア公使の私邸であった博物館は、建物自体が展示品のような美しい装飾が施されている建築である。1927年に国内(ウズベク・ソビエト社会主義共和国)の芸術家が首都タシュケントに集まり展覧会を開催したことが始まりで、以後「ウズベキスタン国立展覧会」として定期的に開催されるようになり、刺繍、彫刻、絨毯、宝石など、展示された多様な美術品が集められて、1937年ウズベキスタン工芸博物館が設立された。1997年にウズベキスタン共和国文化省の管轄下に入り、ウズベキスタン国立応用美術館と改名されている。
上の写真は正面入口。緻密な装飾がポーチを飾る。展示品より建築に目が向いてしまうのは建築好きの性なのか。
左の写真と下の写真は壁・天井が装飾で埋め尽くされた部屋。イスラムの宮殿のような贅を尽くしたかつての居間(下の写真)だが、設えられたミフラーブはメッカとは逆の方向に向いていることなどから、公使が真のイスラム文化の信奉者ではなかったということがよく解る。
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# by toshinac | 2017-09-09 09:57 | trip photos

ブータン王国/ウォンディ・ポダン

プナカから南に車で約40分。ポ・チュ(父川)とモ・チュ(母川)が合流して流れるプナツァン・チュ沿いの尾根上にある町で、古くからブータンの東西交通の要衝とされてきた所。町のシンボルでもあるウォンディ・ポダンのゾンは、切り立つ尾根上に聳える威圧感のある城砦で、ブータンの初代シャブドゥン(政教両面の統治者)であるガワン・ナムギャル(1594~1651)によって1638年に建設されたとされている。ちなみに、ガワン・ナムギャルはティンプーのタシチョ・ゾンも1641年に建設している。これらの城塞は、17世紀前半に度々ブータン西部に侵攻してきたチベットの各勢力を撃退する上で大きな役割を果してきたという。
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e0116578_1092680.jpgしかしながら歴史あるこの美しいゾンは、2012年6月火災が発生(確定的ではないが漏電が原因ではとされている) して全焼してしまいました。
当時修復工事中であったことから、重要な仏具や遺物等は他の場所に移されていたため、難を逃れたのは不幸中の幸いということであろう。
国家的惨事と位置付けられたことで、現在再建に向けた計画が着々と進められているという。
上の写真は仰ぎ見るウォンディ・ポダン・ゾン。


左の写真は対岸から眺めたゾン全景。
下の写真はゾン正面入口。





さらに下の写真は、ウォンディ・ポダンの町の広場に面して連なる石置き屋根の商店。
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下の写真2葉は、ゾンのある尾根の対岸に見る集落リンチェンガ村。
古い時代にインドから来て定住したというインド系住民の村だそうで、現在では観光客も訪れる村となっているらしい。(写真は全て1996年に訪れた時の撮影)
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# by toshinac | 2017-08-09 10:21 | trip photos

ブータン王国/プナカ

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首都ティンプーの北東約75km(直線距離では26km程)の距離に位置するブータンの古都プナカは、ポ・チュ(父川)とモ・チュ(母川)という2つの川の合流点に開けた河谷平野にあり、ティンプーに比べ標高(約1200m)が低く、亜熱帯性の気候で冬でも暖かいところから、緩やかな棚田では稲作が行われ2期作もあるという米どころ。ティンプーが恒久的な首都となるまでの300百年余りは、ブータン王国の冬の首都とされていた。上の写真は、ティンプーからプナカに向かう途中の、標高3150mのドチュ峠に建つチョルテン。現在は2004年に造られた108基の小さなチョルテンが周囲を取り囲み、1996年撮影のこの写真とは大きく様変わりしている。
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e0116578_9333350.jpg上の写真はプナカ・ゾン。1637年に建国の父と称されるシャプトゥン・ガワン・ナムゲルによって建てられた。二つの川の合流点に船のように建つこのゾンは、1950年代の初めまで夏の首都ティンプーに対する、冬の首都の行政府と僧院として使われてきた。現在もティンプーのタシチョ・ゾンの高僧たちは、古くからの習慣にならって冬の間はプナカに移住する。

左の写真はGoogle Earthで見たプナカ・ゾン。プナカ・ゾンが建つ以前の1328年に、現在のゾンの北側にゾン・チョンという寺が建てられている。





下の写真はゾンへの入口となる吊り橋だが、現在では吊り橋右側の石造りの建物に、パロ・ゾンの橋と同じ構造の刎橋が架けられている。吊り橋の奥に見える建物が古いお寺のゾン・チョン。
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下の写真はプナカ・ゾンの近影で、1996年に訪れた時は大規模な改修中だった。
さらに下の写真は、斜面に建つプナカの民家。「美しい自然と仏教文化の中で、幸せに暮らす素朴な人々」そんなイメージを持ってしまうが、近代化が進むにつれ、俗化の進行は止まらないという耳にしたくない話も聞こえてくる。
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# by toshinac | 2017-07-19 09:42 | trip photos

ブータン王国/ティンプー(2)

タシチョ・ゾン
ブータンの政治と宗教を司るタシチョ・ゾンは、市街北部のウォン川西岸に建つ同国の中央政庁である。
チベット仏教4大宗派の一つカギュ派の分派であるLhapa派の創始者ジャルワ・ラハンバが、現在のゾンの北東の丘に小さな僧院(デュンナン・ゾン)を1216年に建立したのが始まりとされ、数年後にはカギュ派ドゥルック系を持ち込んだとされるラマ僧(パジョ・ドゥゴム・シクボ)に引き継がれたという。後の1641年、仏教ドゥルック派のもとにブータンを統一したシャブドゥン・ガウン・ナムギャルが、僧侶と役人の双方が入れるよう僧院の拡張をしてタシチョ・ゾン(栄光の宗教の要塞)と名付け、谷間の現在の場所にも役所としてのゾンが別に建設された。
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e0116578_1121195.jpg1771年には丘の上のゾンが焼失してしまい、修道士も谷間のゾンに移り住むこととなってゾンはさらに拡張されていく。
その後2回の火災や地震で大きな被害を受け、そのつど再建修復はなされてきたが、1962年に第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチャックが首都をティンプーに移したとき、タシチョ・ゾンの修復・拡張工事が5年計画で開始され、1969年に完成した。
古来の伝統にしたがって図面は作らず、1本の釘も用いない木造建築として紹介されている。

上の写真は谷の西側の丘から眺めた1996年のタシチョ・ゾン。対岸には国民議会の建物が建つ。

左の写真はGoogle Earthで見たタシチョ・ゾン。20年という時を経ているが、市の中心街と違ってそれほどの変化は感じない。


下の写真はタシチョ・ゾン近影。
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メモリアル・チョルテン(第3代国王記念仏塔)

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ブータン市街の南中部に建つこの仏塔は、第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチャックが建立を発願したが、1972年ナイロビで客死したことで第4代国王のジグミ・シンゲ・ワンチャックその意思を引き継ぎ、1974年に完成したティンプーのランドマーク的な仏塔である。
祀られている仏像は、ブータンの国教カギュ派のドゥルック派の教えではなく、チベット仏教の中で最も古い宗派の一つであるニンマ派(開祖はグル・パドマ・サンババで、ブータンへ初めてチベット仏教を伝え広めた僧とされている。)の教えに従って造られている。

左の写真は1996年の撮影。2008年に大きな改装がなされている。








公共施設
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上の写真は1996年に訪れた当時の公共施設である。
現在も同じ場所で同じ施設として継続しているかは定かではないが、ブータンではゾンを始めとして、公共建築から住宅まで、建築の意匠や材料の用い方に一貫性がある。左上は国立図書館。右上は国立病院。同じ場所かは分からないが現在は近代的な病院が建設されている。左右下は美術学校の外観と上階に設けられた学生寮。ブータンの仏教美術や伝統木彫技術を数年かけて習得する。

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# by toshinac | 2017-07-01 16:43 | trip photos