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サマルカンド(1) /ウズベキスタン

首都タシュケントの南西約300kmに位置するサマルカンドは、かつてシルクロードの中心的なオアシス都市として栄えた中央アジア最古の都市の一つであり、青空とモスクのブルータイルの美しさから“青の都”とも呼ばれる世界遺産の都市。
始まりはソグディアナ(中央アジアを流れるザラフシャン川を中心とする地域の呼称で、イラン系ソグド人の住地)のオアシス都市として成立した紀元前5世紀頃とされている。7世紀の後半以降アラブ軍の組織的侵入がはじまり、714年、クタイバ・イブン・ムスリム将軍(ウマイヤ朝カリフ国に仕えたアラブ人の軍人 669~716)によって、サマルカンドを中心とする一帯は征服され、中央アジアにイスラム教が根付く起因になったという。それでも商才と工芸技術に長けたソグド人は、様々な王朝の支配を受けながらも数世紀にわたって営々とサマルカンドを築き上げてきたが、1220年、サマルカンドはチンギス・ハーン率いるモンゴル軍によって壊滅的に破壊され廃墟と化す。
下の写真は、当時の中心地があった現在のアフラシャブの丘。破壊された城壁や家屋の日干し煉瓦が、そのまま風化したのであろうと想わせる茫漠たる地表に、少ない水を求めて生えるラクダ草がもの悲しく映る。
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14世紀の前半頃になると、サマルカンド近郊のキシュ(現在のシャフリサブス)出身の英雄ティムール(ティムール朝の建国者:1336~1405)によって、かつての中心部に接する地域に新しい市街が形成されてサマルカンドは甦り、1369年ティムールの世界帝国の首都となる。
彼は帝国各地から遠征の度に連れ帰った工匠や職人たちを使って壮大な建築を次々と建造し、イスラム世界でも名高い都市に復興して繁栄を極めたのである。しかし、1501年ティムール朝は内紛から滅亡し、権力はウズベク族のシャイバーニ朝に移り、首都がブハラに遷都(1557年)されるとサマルカンドの政治的な地位は低下した。
そして1868年帝政ロシアに占領され、ソビエト連邦時代の1924年、民族的境界画定により、ウズベク・ソビエト社会主義共和国に区分され、1930年までその首都となっていた。独立後の現在、サマルカンドは首都タシュケントと並んでウズベキスタンの経済・文化の中心地となっている。

レギスタン広場
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モンゴル軍によって壊滅したかつての中心部(アフラシャブの丘)から移った、新しい市街の中心であったレギスタン(砂地の意)広場は、3辺を、ウルグ・ベク・マドラサ、シェル・ドル・マドラサ、ティリヤ・カリ・マドラサの壮麗なファサードで占められたモニュメンタルな都市空間。上の写真の広場西側(左)がウルグ・ベク・マドラサ、北側(中央)がティリヤ・カリ・マドラサ、東側(右)がシェル・ドル・マドラサである。

ウルグ・ベク・マドラサ
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ティムールの孫で、ティムール朝の第4代君主であるウルグ・ベクによって1420年に建てられた神学校で、天文学者でもあったウルグ・ベク自身も教鞭を執ったとされ、彼の嗜好を反映した星空を表わす幾何学模様が、広場に面する正面のイワーン上部を飾る。(写真上)
下の写真は、中庭を介して正面入口の軸線上にあるイワーンを中心に、アーチが連なるフジュラ(学生のための寄宿舎)を見る。マドラサの構成は、中庭を囲む4面の中央にイワーンが配置された、いわゆるチャハル・イワーンの形式である。
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シェル・ドル・マドラサ
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17世紀、この地を支配したウズベク族の領主ヤラングトゥシュ・バハディルによって、1619年~1631年にかけて建設された神学校で、ウルグ・ベク・マドラサに相対して、ほぼ同規模で同じ構成で造られている。特筆すべきは、正面イワーンの壁面上部に動物と人面のある太陽が描かれていることである。
本来イスラムの文様に人や動物の姿がモチーフとなることは、偶像崇拝を否定する立場からありえない。だが支配者ヤラングトゥシュが自分の権力を誇示するためあえて禁をやぶり、人面の太陽を背景に、鹿を追うライオンの鬣(たてがみ)を付けた虎が描かれているのである。しかしシェル・ドルとはライオンの意味ということなので、虎ではなくライオンか?、何れにしても、この模様は動物界の王と天体の王とが一つに合体したことを表現しているという。(写真上)
下の写真は正面の裏側を中庭から見る。さらに下の写真はシェル・ドル・マドラサとウルグ・ベク・マドラサの南東側からの眺め。
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ティリヤ・カリ・マドラサ
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晩年のヤラングトゥシュによって1647年~1661年にかけて建設されたモスクを兼ねた神学校で、礼拝所の内部装飾に金箔が使われていることからティリヤ・カリ(鍍金された)・マドラサと呼ばれている。
上の写真はティリヤ・カリ・マドラサ正面。広場の全体的な展望のもとに設計されているが、厳密な左右対称ではなく、43m四方の中庭を囲むフジュラは3方のみで、西側(写真の左側)には広いモスクが造られている。下の写真はモスクの礼拝所。モスクのドームは一般的には二重殻であり、内側はある程度半球状になることが多いが、ここはドーム状には見えるがほとんど平らな天井である。数段のムカルナス装飾で正方形から八角形、十六角形、そして円形の天井へと視覚を移行させ、焦点を持つ遠近法の模様がドーム状の天井を創出している。
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ウルグ・ベク天文台
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e0116578_1773296.jpg天文学研究の中心地として、最盛期には60人~70人の天文学者が研究を行っていたというウルグ・ベク・マドラサの天文学研究をサポートするため、天文学者でもあったウルグ・ベクは、1924年天文台の建設を開始して1429年に完成させ、ここでの天体観測をもとにいわゆる“ウルグ・ベク恒星表”を作成。1449年のウルグ・ベクの死後、天文台は保守系のイスラム教徒によって破壊されて荒廃し、所在地さえも分からなくなっていたが、今世紀初頭、アフラシャブの丘から北東に1kmチュバン・アタという丘の上で発見、発掘されたのである。

上の写真は、円い基礎と六分儀の地下部分のみ残る天文台の跡。直径約48mの円筒形の建物で、最深部から約40mあったと推定されている。


左の写真は六分儀の地下遺構。巨大な六分儀の円弧をおさめるため地下深く掘り下げられた岩盤。六分儀の57°から90°までが遺っている部分だそうである。


荒廃したサマルカンドを甦えらせた祖父ティムールの英雄的行動と、君主でありながら自ら教鞭をとり、学者として活躍したウルグ・ベクの非凡な才能なくしては、“青の都サマルカンド”はあり得なかったと語られる。

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by toshinac | 2017-10-01 08:31 | trip photos

タシュケント/ウズベキスタン

中央アジアに位置するウズベキスタン共和国は、国境を2回以上超えないと海に達することができないという、いわゆる「二重内陸国」である。したがって、海へ直接つながる国内河川はなく、国土のほとんどは広大な沙漠と険しい山々で占められた乾燥地。古の東西交易のいわゆるシルクロードの北のルート上に、度重なる戦乱を生き抜いた歴史的なオアシス都市が点在する。
下の写真は、タシュケントの旧市街にあるクカルダシュ・マドラサ。16世紀に建てられた神学校で、独立後修復され現在も神学校として活動している。
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首都であるタシュケントは、同国の北東部にあり、天山山脈に源を発するシルダリヤ川支流のチルチク川流域に展開するオアシス都市。町の起こりは紀元前1世紀頃とされ、この地にあった仏教寺院の建築装飾のためインドの工匠が訪れたという話が、中国の史書「魏志」に記されているという。
8世紀のアラブ人に始まり、13世紀初頭にはモンゴルに、14世紀にはティムールに征服されるという、戦乱による荒廃期と隆盛期が繰り返されてきた。ティムール帝国統治下の15世紀後半には幾つかのイスラム寺院や神学校が建設され、さらに16世紀に入ると学芸の隆盛を迎え、詩人、学者、音楽家たちが優遇され多くの信仰上の建物が建設されている。19世紀初めにコーカンド・ハーン国 (18世紀から19世紀前半にかけて中央アジアに栄えたイスラム王朝)の支配下となるが、一方で帝政ロシアとの経済関係も拡大されその影響力が増大し、1865年ロシアに併合された。
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e0116578_9325314.jpg1930年からはウズベク・ソビエト社会主義共和国の首都となり、タシュケントは急速にロシア化が進み、ロシア革命後の旧ソ連時代も通して、中央アジア支配の拠点都市となっていく。1966年の大地震で壊滅的な被害を受けるが、ソ連各地から数万人の労働者が投入され、町は僅か数年でソ連的な近代都市に生まれ変わり、その復興ぶりは社会主義の見本として盛んに宣伝されたという。
ソ連が崩壊した1991年、独立国となったウズベキスタンの首都となる。
上の写真は16世紀に建てられたバラク・ハーン・マドラサ。中庭のバラ園が美しく、ソ連時代から中央アジアのイスラムの本庁が置かれていた。
左の写真は、バラク・ハーン・マドラサの向かい側に建つハステイ・イマーム・モスク(16世紀)の本庁付属の図書館内部。中央の机の上には、最古のコーランといわれるオスマン・クラーン(7世紀)のコピーが展示されている。
下の写真はオスマン・クラーンのコピー。オリジナルは上階の書庫に厳重保管されている。
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アリシェル・ナヴォイ劇場
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アリシェル・ナヴォイ劇場(ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場)は1947年の完成で、設計はロシア・ソビエト連邦の建築家で、赤の広場のレーニン廟の設計者アレクセイ・シューセフ(1873~1949)。第2次大戦後のソ連に抑留されていた旧日本兵の捕虜の中から、建築に適した工兵457人が強制的に派遣され、特殊業務として建設に従事したことで知られる建築。
1966年の大地震で街が全壊したにも関わらず、全くの無傷で避難所として活用されたほどの見事な仕事ぶりは、現在ウズベキスタンで親日感情が高いことの一因とも言われている。

ウズベキスタン工芸博物館
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e0116578_9401920.jpg1907年に建てられたロシア公使の私邸であった博物館は、建物自体が展示品のような美しい装飾が施されている建築である。1927年に国内(ウズベク・ソビエト社会主義共和国)の芸術家が首都タシュケントに集まり展覧会を開催したことが始まりで、以後「ウズベキスタン国立展覧会」として定期的に開催されるようになり、刺繍、彫刻、絨毯、宝石など、展示された多様な美術品が集められて、1937年ウズベキスタン工芸博物館が設立された。1997年にウズベキスタン共和国文化省の管轄下に入り、ウズベキスタン国立応用美術館と改名されている。
上の写真は正面入口。緻密な装飾がポーチを飾る。展示品より建築に目が向いてしまうのは建築好きの性なのか。
左の写真と下の写真は壁・天井が装飾で埋め尽くされた部屋。イスラムの宮殿のような贅を尽くしたかつての居間(下の写真)だが、設えられたミフラーブはメッカとは逆の方向に向いていることなどから、公使が真のイスラム文化の信奉者ではなかったということがよく解る。
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by toshinac | 2017-09-09 09:57 | trip photos

ブータン王国/ウォンディ・ポダン

プナカから南に車で約40分。ポ・チュ(父川)とモ・チュ(母川)が合流して流れるプナツァン・チュ沿いの尾根上にある町で、古くからブータンの東西交通の要衝とされてきた所。町のシンボルでもあるウォンディ・ポダンのゾンは、切り立つ尾根上に聳える威圧感のある城砦で、ブータンの初代シャブドゥン(政教両面の統治者)であるガワン・ナムギャル(1594~1651)によって1638年に建設されたとされている。ちなみに、ガワン・ナムギャルはティンプーのタシチョ・ゾンも1641年に建設している。これらの城塞は、17世紀前半に度々ブータン西部に侵攻してきたチベットの各勢力を撃退する上で大きな役割を果してきたという。
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e0116578_1092680.jpgしかしながら歴史あるこの美しいゾンは、2012年6月火災が発生(確定的ではないが漏電が原因ではとされている) して全焼してしまいました。
当時修復工事中であったことから、重要な仏具や遺物等は他の場所に移されていたため、難を逃れたのは不幸中の幸いということであろう。
国家的惨事と位置付けられたことで、現在再建に向けた計画が着々と進められているという。
上の写真は仰ぎ見るウォンディ・ポダン・ゾン。


左の写真は対岸から眺めたゾン全景。
下の写真はゾン正面入口。





さらに下の写真は、ウォンディ・ポダンの町の広場に面して連なる石置き屋根の商店。
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下の写真2葉は、ゾンのある尾根の対岸に見る集落リンチェンガ村。
古い時代にインドから来て定住したというインド系住民の村だそうで、現在では観光客も訪れる村となっているらしい。(写真は全て1996年に訪れた時の撮影)
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by toshinac | 2017-08-09 10:21 | trip photos

ブータン王国/プナカ

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首都ティンプーの北東約75km(直線距離では26km程)の距離に位置するブータンの古都プナカは、ポ・チュ(父川)とモ・チュ(母川)という2つの川の合流点に開けた河谷平野にあり、ティンプーに比べ標高(約1200m)が低く、亜熱帯性の気候で冬でも暖かいところから、緩やかな棚田では稲作が行われ2期作もあるという米どころ。ティンプーが恒久的な首都となるまでの300百年余りは、ブータン王国の冬の首都とされていた。上の写真は、ティンプーからプナカに向かう途中の、標高3150mのドチュ峠に建つチョルテン。現在は2004年に造られた108基の小さなチョルテンが周囲を取り囲み、1996年撮影のこの写真とは大きく様変わりしている。
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e0116578_9333350.jpg上の写真はプナカ・ゾン。1637年に建国の父と称されるシャプトゥン・ガワン・ナムゲルによって建てられた。二つの川の合流点に船のように建つこのゾンは、1950年代の初めまで夏の首都ティンプーに対する、冬の首都の行政府と僧院として使われてきた。現在もティンプーのタシチョ・ゾンの高僧たちは、古くからの習慣にならって冬の間はプナカに移住する。

左の写真はGoogle Earthで見たプナカ・ゾン。プナカ・ゾンが建つ以前の1328年に、現在のゾンの北側にゾン・チョンという寺が建てられている。





下の写真はゾンへの入口となる吊り橋だが、現在では吊り橋右側の石造りの建物に、パロ・ゾンの橋と同じ構造の刎橋が架けられている。吊り橋の奥に見える建物が古いお寺のゾン・チョン。
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下の写真はプナカ・ゾンの近影で、1996年に訪れた時は大規模な改修中だった。
さらに下の写真は、斜面に建つプナカの民家。「美しい自然と仏教文化の中で、幸せに暮らす素朴な人々」そんなイメージを持ってしまうが、近代化が進むにつれ、俗化の進行は止まらないという耳にしたくない話も聞こえてくる。
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by toshinac | 2017-07-19 09:42 | trip photos

ブータン王国/ティンプー(2)

タシチョ・ゾン
ブータンの政治と宗教を司るタシチョ・ゾンは、市街北部のウォン川西岸に建つ同国の中央政庁である。
チベット仏教4大宗派の一つカギュ派の分派であるLhapa派の創始者ジャルワ・ラハンバが、現在のゾンの北東の丘に小さな僧院(デュンナン・ゾン)を1216年に建立したのが始まりとされ、数年後にはカギュ派ドゥルック系を持ち込んだとされるラマ僧(パジョ・ドゥゴム・シクボ)に引き継がれたという。後の1641年、仏教ドゥルック派のもとにブータンを統一したシャブドゥン・ガウン・ナムギャルが、僧侶と役人の双方が入れるよう僧院の拡張をしてタシチョ・ゾン(栄光の宗教の要塞)と名付け、谷間の現在の場所にも役所としてのゾンが別に建設された。
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e0116578_1121195.jpg1771年には丘の上のゾンが焼失してしまい、修道士も谷間のゾンに移り住むこととなってゾンはさらに拡張されていく。
その後2回の火災や地震で大きな被害を受け、そのつど再建修復はなされてきたが、1962年に第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチャックが首都をティンプーに移したとき、タシチョ・ゾンの修復・拡張工事が5年計画で開始され、1969年に完成した。
古来の伝統にしたがって図面は作らず、1本の釘も用いない木造建築として紹介されている。

上の写真は谷の西側の丘から眺めた1996年のタシチョ・ゾン。対岸には国民議会の建物が建つ。

左の写真はGoogle Earthで見たタシチョ・ゾン。20年という時を経ているが、市の中心街と違ってそれほどの変化は感じない。


下の写真はタシチョ・ゾン近影。
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メモリアル・チョルテン(第3代国王記念仏塔)

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ブータン市街の南中部に建つこの仏塔は、第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチャックが建立を発願したが、1972年ナイロビで客死したことで第4代国王のジグミ・シンゲ・ワンチャックその意思を引き継ぎ、1974年に完成したティンプーのランドマーク的な仏塔である。
祀られている仏像は、ブータンの国教カギュ派のドゥルック派の教えではなく、チベット仏教の中で最も古い宗派の一つであるニンマ派(開祖はグル・パドマ・サンババで、ブータンへ初めてチベット仏教を伝え広めた僧とされている。)の教えに従って造られている。

左の写真は1996年の撮影。2008年に大きな改装がなされている。








公共施設
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上の写真は1996年に訪れた当時の公共施設である。
現在も同じ場所で同じ施設として継続しているかは定かではないが、ブータンではゾンを始めとして、公共建築から住宅まで、建築の意匠や材料の用い方に一貫性がある。左上は国立図書館。右上は国立病院。同じ場所かは分からないが現在は近代的な病院が建設されている。左右下は美術学校の外観と上階に設けられた学生寮。ブータンの仏教美術や伝統木彫技術を数年かけて習得する。

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by toshinac | 2017-07-01 16:43 | trip photos

ブータン王国/ティンプー(1)

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ブータンの首都ティンプーは平均値で標高約2400mにある高原都市。ブータンでは国王の所在地をもって首都としてきたことが慣例で、冬季は温暖なプナカ(ティンプーの東約75kmで標高約1200mの古都)に首都機能が移っていた。1950年代に第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクがティンプーに宮殿を建設し、年間を通じて居住するようになったことで本格的な首都建設が始まり、1955年から恒久的な首都となっていたという。「照葉樹林文化論」の提唱者である植物学者の中尾佐助(1916~1993)が1958年にブータンを訪れたとき、ティンプーの王宮で国王に謁見したことが広く知れわたり、神秘の国ブータンの首都がティンプーに移転していたことが世界に明らかにされたと言われている。プナカからの遷都が完了した1961年、ティンプーがブータン王国の首都として宣言された。
上の写真は、朝雲たなびくティンプー市街の山の手。
下の写真は伝統的な家屋が軒を連ねる通り。
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上の写真は市内点景。左上は中心部のノルジン・ラム通り沿いにある時計塔広場。左下は市場。右上は裏通りの住宅街。右下は中心街の交差点。ブータンでは信号機はあえて設けず、警察官が手信号で車を捌く。下の写真は、店先にダルシンを立てて商売を営む市内の住宅。
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by toshinac | 2017-06-17 08:08 | trip photos

ブータン王国/パロ(3)

タクツァン僧院
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ブータン随一の仏教聖地であるこの僧院は、パロ市街の北西約10kmに位置し、標高3000mを超える切り立つ断崖に建つ。8世紀後半に高僧グル・リンポチェ(パドマサンババ)が、チベットから虎の背に乗ってこの地にやって来たという伝説がブータンへの仏教伝来の話として信じられており、グル・リンポチェはこの地の洞窟で3ヶ月間瞑想を続け、その後パロに仏教を広めたと言われている。タクとは虎、ツァンは巣を意味するところから「虎の棲家」という、伝説に基づく名称が付いたタクツァン僧院は、14世紀にはお堂の一つが建っていたらしいが、現在の姿は17世紀末の創建とされている。
訪れた1996年当時、僧院には40名ほどの僧が修行に励んでいると聞かされただけで、僧院内の参観はできなかった。1998年の火事で建物は全焼してしまうが、2004年には完全に修復が終わり、元の姿を取り戻す。現在は内部参観も可能になっているという。
上の写真はタクツァン僧院近景。焼失前の1996年の撮影。

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上の写真左は、麓からの山道を1時間ほど登った所にある展望台から眺め。切り立つ崖の中腹に建つ僧院。右の写真は途中の民家。庭先に埋め込まれた木製の浴槽(ドツォ)で、水を張り、熱した石を入れてお湯にする。日本の風呂と同じように熱い湯に入る風習はアジアでもめずらしい。
下の写真は、さらに登った開けた場所にあるマニ車のお堂。傍らにはダルシン(長い棒に経文書いた布を取り付けた幟)がはためく。
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ドゥルックヤル・ゾン

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パロ市街から北西に約14km、パロ渓谷上部の尾根上に建つドゥルックヤル・ゾン(通称ドゥゲ・ゾン)は、1644年にチベットとモンゴルの合同軍を撃退したことを記念して造られたとされる城砦で、1646年~1649年頃に建てられたが、 1951年にバターランプの火により失火し廃墟となってしまう。
この地域の防衛上の重要拠点としての役目は僅かな期間ではあっが、ブータンの人々にとっては、国の主権の維持に貢献した出来事と結びつける重要な記念碑となっているという。
晴れた日には、ゾンの背後の山のさらにその奥に、万年雪を頂いた女神の山チョモラリ(7315m)が展望でき、ブータンで最も美しい城砦遺跡となる。
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by toshinac | 2017-06-06 09:27 | trip photos

ブータン王国/パロ(2)

パロ・ゾン
ブータンは現在20の県(ゾンカク)に分かれていて、県庁には基本的にゾン(チベット文化圏多く見られる城砦建築)があり、行政庁舎と僧院を兼ねた聖俗両方の中心として機能していることが多い。パロ谷を見下ろす山腹に建つパロ・ゾン(正式名リンプン・ゾン)も、パロ県の県庁であり多くの僧が修行する寺院でもある城砦建築で、リンプン・ゾンとは宝石の山の城という意味だそうである。創建は15世紀とされているが、現在の姿は20世紀初頭の火事で焼失した後に再建されたものである。下の写真はパロ・ゾンの全景で、奥にかつての望楼であるタ・ゾンを見る。チベット・ラサのポタラ宮を彷彿させるが、一説には、ポタラ宮の増築時にパロ・ゾンも参考にされたという説もある。
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e0116578_1711398.jpg左の写真はパロ・ゾンへ通じる道に架かる橋の外観と内観。
架構方法が珍しく、山梨県大月市の桂川に架かる猿橋と同じ刎橋(はねばし:川の両岸にと呼ばれる角材を斜めに差し込んで中空に突出し、その上に重ねて同様の刎ね木を少し長く突出してこれをくり返し、対岸からの刎ね木と結合させたところで上部構造を組み上げるという、柱脚をつくらない架橋技術)で、現存する木造の屋根付き刎橋はめずらしい。
橋の上は一時の憩いの場にもなっている。
ちなみに、猿橋は鋼製の桁材に木材を貼り付けて、江戸時代の構造を復元したものである。





下の写真はパロ・ゾンの入口。
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上の写真は、パロ・ゾンの上に立つかつての望楼(タ・ゾン)で現在は国立博物館。めずらしい円形の建物で、山側上部のブリッジを渡って入り、展示物を見学しながら下りて行く。
下の写真は、チベット仏教には欠かせないマニ車が設えてある出口。
さらに下の写真は、博物館を出ると眼下広がる美しいパロ谷の風景とパロ・ゾン。
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by toshinac | 2017-05-30 17:28 | trip photos

ブータン王国/パロ(1)

ヒマラヤ山脈の南東部にある小さな王国ブータンは、北は標高7000mの雪の山々でチベットと国境をなし、南は海抜100mほどの熱帯でインドに接するという、平地は極めて少ないヒマラヤ山脈の南斜面に位置する国。長く鎖国状態であった「神秘の王国」も1971年の国際連合加盟後、1974年から外国人観光客の受け入れを始め1983年には空路も開設。2008年に憲法が制定されて立憲君主国となる。国民の8割をチベット系が占めるという民族構成もあって、チベット仏教(ラマ教)が国教となっており、チベット仏教4大派の一つであるカギュ派の中のドゥルック派に属している。
そんな神秘の国ブータンを訪れたのは、20年以上前の1996年のことである。現在の状況とは違っていることも多いとは思うが、当時の長閑なブータンの風景を紹介したい。
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空の玄関口であるブータン国際空港は、標高2300mの谷間に水田が広がる小さな町パロにある。市街から6kmほど離れた空港は周囲を高い山々に囲まれているため、パイロットは離着陸に高度な技術が要求されるという。山の斜面をすれすれに飛び、それほど長くない滑走路をめがけて谷間に突き進むような感覚に若干緊張を覚えたものである。また有視界飛行となるため離着陸は天候次第、出発地でパロの天候回復を待つという事態に遭遇することも少なくない。
上の写真はパロ谷の中の滑走路をパロ川越しに見る。
下の写真は、バンコックから4時間ほどのフライトでパロ空港に着陸したドゥルック航空の機体と乗客。
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e0116578_9214587.jpg左の写真はパロ中心部の目抜き通り。伝統的な建築が連なる街並みはブータンの古都を彷彿させれるが、近年は近代的なホテルやアパート等の建設が進み、周縁部の景観も変わりつつあるという。





下の写真は典型的なブータンの民家。比較的多く見られる3階建ての民家は土壁(版築)と木軸で構成されている。土壁の上に漆喰が施された外壁には、子孫繁栄を願った絵や魔除けの動物絵が描かれた民家を多く見る。
1階は物置や家畜小屋・飼料置場などが主で、2階に穀物倉庫や居室や納戸。3階に居間・食堂・寝室そして仏間が設けられているが、2階と3階が入れ代っている例も多く、言ってみれば2階以上が生活空間ということになる。
さらに吹放しの屋根裏スペースを設けて作業場や物干しの場として利用している。
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上の写真は見学させて頂いた民家。地元の大工さんの家でかなり大きな家だが、実際は2棟の住まいが中央の階段で仕切られた民家で、一つの屋根で覆われている。
下の写真の上左は、ブータンの住宅では一般的に設けられる仏間。年に数回、お坊さんを呼ぶ時のために使われる部屋だそうだが、他の部屋に比べ極めて豪華な造りになっている。上右は仕事部屋での機織り。左下の写真は寝室。右下は台所でのバター茶つくり。
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by toshinac | 2017-05-16 09:32 | trip photos

アル・ケ・スナンの王立製塩所

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フランス東部フランシュ・コンテ地方の中心都市ブザンソンの、南西約30kmにあるアル・ケ・スナン王立製塩所は、フランス革命期の建築家クロード・ニコラ・ルドゥー(1736~1806)の設計。ルイ15世の治世下で製塩所の監視官という任にあり、徴税事務局の建築家であったルドゥーは、後に王立建築アカデミーの会員に推挙され“王室建築家”という立場となり、新しく建設が決定(1773年)されたアル・ケ・スナン製塩所の建築計画を委ねられ、ルイ16世の時代となって間もない1775年~1779年にかけて建設された。当初は製塩作業を合理的かつ組織的に行うため、製塩工場を中心とした円形の敷地内に、研究所や住宅や浴場等を備えた理想の産業都市が計画されていたが、経営難から工事は半円形の状態で中断し未完に終わるも、製塩所としての操業は1895年まで行われた。1982年世界遺産に登録され、現在は博物館や資料館として公開されている。
上の写真は資料館に展示されている製塩所の空撮写真。監督官(製塩所の所長)の建物を中心にして、半円形の円周に各棟が配置されることで、中心からの視線を否応なく感じさせることができるという、いわゆる「権力の視座」の構図を創りだしている。
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e0116578_10283036.jpg後期バロックの時代から新古典主義に続く時代背景の中で、建築を幾何学的形態で表現することを特徴としたルドゥーは、近代建築の黎明期に位置する建築家の一人と言われている。1789年のフランス革命で体制側の人間故に投獄され、建築家として実作の機会は失われるが、その後、思い描く理想を求めた計画やスケッチを数多く残してゆく。
アル・ケ・スナンの王立製塩所は、“幻視の建築家”として知られるルドゥーが実現した数少ない作品の一つなのである。

上の写真は製塩所の正面入口建屋。




左と下の写真は、半円形の中心に建つ監督官の建物。パラディアン様式の神殿のような建築は権力の象徴? さらに下の写真はその内部。
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上の写真は、中庭西側からの眺め。中央の監督官の建物の左右は作業棟。下の写真は西側作業棟の回廊部分。下の写真は半円の円周に沿って建つ労働者の住居棟などを、正面入口東側より西側を望む。
さらに下写真はGoogle Earthで見た製塩所。ルドゥーの当初の計画は、同じ半円形が反転した楕円形を核とした産業都市の構想であった。
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by toshinac | 2017-01-29 10:41 | trip photos