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カテゴリ:trip photos( 144 )

アル・ケ・スナンの王立製塩所

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フランス東部フランシュ・コンテ地方の中心都市ブザンソンの、南西約30kmにあるアル・ケ・スナン王立製塩所は、フランス革命期の建築家クロード・ニコラ・ルドゥー(1736~1806)の設計。ルイ15世の治世下で製塩所の監視官という任にあり、徴税事務局の建築家であったルドゥーは、後に王立建築アカデミーの会員に推挙され“王室建築家”という立場となり、新しく建設が決定(1773年)されたアル・ケ・スナン製塩所の建築計画を委ねられ、ルイ16世の時代となって間もない1775年~1779年にかけて建設された。当初は製塩作業を合理的かつ組織的に行うため、製塩工場を中心とした円形の敷地内に、研究所や住宅や浴場等を備えた理想の産業都市が計画されていたが、経営難から工事は半円形の状態で中断し未完に終わるも、製塩所としての操業は1895年まで行われた。1982年世界遺産に登録され、現在は博物館や資料館として公開されている。
上の写真は資料館に展示されている製塩所の空撮写真。監督官(製塩所の所長)の建物を中心にして、半円形の円周に各棟が配置されることで、中心からの視線を否応なく感じさせることができるという、いわゆる「権力の視座」の構図を創りだしている。
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e0116578_10283036.jpg後期バロックの時代から新古典主義に続く時代背景の中で、建築を幾何学的形態で表現することを特徴としたルドゥーは、近代建築の黎明期に位置する建築家の一人と言われている。1789年のフランス革命で体制側の人間故に投獄され、建築家として実作の機会は失われるが、その後、思い描く理想を求めた計画やスケッチを数多く残してゆく。
アル・ケ・スナンの王立製塩所は、“幻視の建築家”として知られるルドゥーが実現した数少ない作品の一つなのである。

上の写真は製塩所の正面入口建屋。




左と下の写真は、半円形の中心に建つ監督官の建物。パラディアン様式の神殿のような建築は権力の象徴? さらに下の写真はその内部。
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上の写真は、中庭西側からの眺め。中央の監督官の建物の左右は作業棟。下の写真は西側作業棟の回廊部分。下の写真は半円の円周に沿って建つ労働者の住居棟などを、正面入口東側より西側を望む。
さらに下写真はGoogle Earthで見た製塩所。ルドゥーの当初の計画は、同じ半円形が反転した楕円形を核とした産業都市の構想であった。
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by toshinac | 2017-01-29 10:41 | trip photos

サヴォワ邸/コルビュジエ

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コルビュジエの代表的作品でもあるサヴォワ邸は、パリ郊外ポワッシーのなだらかな丘上に建つ別荘建築で1931年の竣工。近代建築の5原則と言われるピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由なファサードが完成度高く具現化された建築で、その名は建築の歴史のなかで知らぬ人はいないのではと言われるほどであり、文化財として保存されている現在も見学者は後を絶たないという。かく言う私も1975年、1985年に訪れた。そして2016年の最新の写真を見ても、パリのラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸(1923年:コルビュジエ財団事務所)から続いたコルビュジエの“白の時代”を象徴する美しさは変わらない。上の写真は敷地の北東側から眺めたもの(1985年撮影)。
下の写真は東側ファサード(1975年撮影)。1階ピロティ奥のグリーンに塗られた部分はガレージの扉と、運転手の控室(建設時)の壁。2階左側は居間で中央と右はテラス部分。
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上の写真は南側ファサード(1975年撮影)。1階ピロティ奥正面が玄関ホール。2階は居間と厨房(左端)。屋上に日光浴のための空間(ソラリウム)を囲む壁が建ち上がる。
下の写真は玄関ホール(1975年撮影)。
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左の写真は、白の時代の始まりともいわれるパリのラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸(1975年撮影)で、内部の見学はかなわなかった。












下の写真は全て2016年撮影のもので、ものつくり大学教授八代克彦氏から拝借したものである。
下の上左はゲートからのアプローチが取りつく北側ファサード。上右は2階の居間。下の下左は2階厨房。下右は居間からテラスを見る。
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by toshinac | 2016-12-16 11:51 | trip photos

ナンジェセール・エ・コリ通りのアパート

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パリ市南西部に位置するブローニュ・ビヤンクール地区の、ナンジェセール・エ・コリ通りとラ・トゥレル通りの二つの通りに面して建つこの建物は、最上階の8階と屋上ペントハウスが、コルビュジエ自身の住居とアトリエになっていた1934年竣工の集合住宅である。
クライアントが開発業者であったことによる複雑な契約条件や、地域特有の法的規制や資金難から、必ずしも設計当初の構想通りには進まなかったということもあってか、外観は見過ごしてしまうほど街並みにとけ込んでいる建築。 クライアントとの契約であったかは分からないが、コルビジュエは最上階を購入し、屋上にペントハウスを設けてゲストルームとするなど自費を投じて工事をし、そこから31年間の生涯を通じた住居としたのである。
上の写真は、8階のコルビュジエの自宅で、アトリエ側より見たリビング・ダイニング。ダイニングの左にキッチン、右に寝室がある。中央の赤と白に塗り分けられた部分はエレベータシャフトとP.S.部分を利用した小さな棚。下の写真は、ペントハウスへの廻り階段とアトリエと住居を仕切る大きな間仕切り扉を見る。
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e0116578_16361353.jpg左の写真は1975年に訪れた時のもの。外観を見る限りでは、直前に竣工したコルビジュエの代表的作品であるサヴォワ邸とは、個人住宅と集合住宅、郊外と街中といった用途や諸条件の違いもあって類似性は感じられない。どちらかと言えばガラスブロックつながりで、ピエール・シャロウ(1883~1950)設計のダルザス邸(1932通称:ガラスの家)との類似性を強く感じる。現に、コルビュジエはダルダス邸の工事現場に度々訪れてスケッチをしていたという話もあることから、少なからず影響は受けていたのかもしれない。
またコルビュジエとシャロウは、テオ・ファン・ドゥースブルフ (1883~1931 建築家で画家・美術家:新しい造形運動を広めるため “ピエト・モンドリアン”と雑誌「デ・ステイル」を1917年に創刊。抽象表現を追求し、絵画はもとより建築やデザインの分野にも大きな変革をもたらし、後のバウハウスへも大きな影響を与える。) 設計の自邸を見学し、必要に応じて部屋を仕切る大きな回転扉に魅せられたという。ちなみにシャロウ設計のガラスの家にも巨大な間仕切り扉が設けられている。
下の写真左はアトリエ部分を見る。右は寝室内のシャワーブース。
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by toshinac | 2016-11-02 16:54 | trip photos

カップ・マルタンの休暇小屋/コルビュジエ

南仏のイタリア国境に近い地中海に面した小さな村ロクブリュヌのカップ・マルタン (カップ岬) は、モナコ公国に隣接するコート・ダジュールのリゾート地。コルビュジエ自身と妻イヴォンヌのための休暇小屋は、海岸沿いの岩場の崖上に建つ軽食堂「ひとで軒」の増築というかたちで1952年に建てられた。方3.66m(内法)の居住空間に幅70㎝ほどの通路状入口と便所が付いただけで、食事と入浴のための機能は無く、まさしく小屋:キャバノン(cabanon)である。
下の写真は木立に覆われた丸太小屋風の休暇小屋。木軸の壁に、丸太の布挽きで出る一番外側の丸身材を張り付けている。
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すでに社会的にも経済的にも成功を収めた世界的な建築家の別荘となれば、大方の人は大規模で瀟洒な意匠を凝らした建築を想像するに違いない。それがトイレとベッドと洗面器、それに棚と机が設けられた僅か8畳ほどの住まいは、流布されているような愛妻への誕生日プレゼントと言うよりも、パリという都会での美術・建築に携わる日常から距離を置くため、紺碧の海を見晴らすこの地で生活するに足る究極の住まいで、精神の安らぎと思索を深める場を求めたように思えてくる。
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e0116578_995960.jpgCIAM (近代建築国際会議1928) の発足メンバーでもあるジークフリート・ギーディオン (1888~1968:スイス出身の都市史家で、建築・美術の評論家であり研究者。ハーバード大学客員教授時代の講義録とゼミ録をまとめた著書「時間・空間・建築」は代表作) に宛てた1954年の手紙には、「私はそこで幸せな修道僧のように生活をしている」とあったという。ここでのコルビジュエの簡素な生活や考え方は、「方丈記」の作者である鴨長明の方丈庵 (一丈3.03m四方の一室空間の住まい。京都の下賀茂神社摂社である河合神社内に復元されている) での暮らしぶりとよく比較され、人生を達観した芸術家の終の住まいとして語られることもある。
上の写真は部屋の北東側に設けられたトイレとベッドで、赤いカーテンで仕切られている。
左の写真は入口通路。絵が描かれた壁に付くドアは「ひとで軒」への通用口で、食事とシャワーは「ひとで軒」で済ませていたという。
下の写真は南東側に開く窓と机と洗面器。全体はコルビュジエが考案したモデュロール(人体寸法と黄金比の基本寸法)をもとに設計されている。
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現地の休暇小屋見学ツアー資料などによれば、コルビュジエがここにキャバノンを建てた経緯は、アイリーン・グレイ (1878~1976:アイルランド生まれの家具・インテリアデザイナーで建築家) の別荘「E1027」が、ジャン・パドヴィッチ (1893~1956:ルーマニア出身の建築家・評論家で建築雑誌の編集者) の協力のもと、1929年カップ・マルタンに完成したことに始まる。
地中海を望む白いモダニズムの家「E1027」は、建築家として最初に手掛けた住宅にして彼女の代表作となり、またその時デザインした家具の一つ「E1027サイドテーブル」は後に名品となっていく。その才能にはコルビジュエも嫉妬したという話もある。「E1027」を称賛していたコルビュジエは、1937年パリ万博での共同展示を行っており、この頃には毎年のようにカップ・マルタンの「E1027」に訪れ、1938年の滞在時には壁にフレスコ画を描いている。(コルビュジエが勝手に描き、アイリーンを激怒させたという話もある)1948年「E1027」のすぐ近くに軽食堂「ひとで軒」がオープンし、オーナーのトマ・ルビュタトとコルビュジエの付合いが始まり、1951年にはルビュタトにキャバノンのスケッチを渡し、交渉の末「ひとで軒」東側の土地を借り受け、プロジェクトがスタートして1952年に完成。その返礼として、1954年「ひとで軒」の拡張計画である宿泊施設ユニテ・ド・キャンピングの設計図を完成させ、1957年に完成を見るが予算不足で5室のみ。ちなみに、修復中であったE1027は今年の8月から一般公開が始まったようである。
下の写真は、休暇小屋に関連する建物の位置関係をGoogle Earthで見る。
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上の写真は、埼玉県行田市にある「ものつくり大学」内に作られた「カップ・マルタン休暇小屋」の原寸レプリカである。これまでにも国内外のコルビュジエ展で、休暇小屋の原寸レプリカが展示されることはあったが、そのほとんどはインテリアで、外壁の丸太の丸身材の割付まで数えて作られた例は初めてのことだろう。
下の写真2葉は室内。家具・照明器具・洗面器など、細部にわたって精巧に複製されている。
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by toshinac | 2016-10-09 09:31 | trip photos

小さな家/コルビュジエ

スイスのレマン湖東部北岸コルソー地方の湖畔に建つ「小さな家」は、コルビュジエが齢を重ねた両親のために設計した小住宅で、機能的な平面と優しい気遣いの工夫が込められた住まいである。既に設計していた「小さな家」の条件を満たす敷地として、1923年にこの地と定め、東西14m南北4mほどの矩形の建物を湖の際に建築、1924年に完成させている。
下の写真は湖側からの全景。庭の東側角の水際に建つ石壁の開口は、レマン湖とアルプスの景観をより印象付けるためのピクチャーウィンドウ。
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敷地選定要因の一つでもあった湖とその先に広がるアルプスの景観を、余すところなく取込むための長さ11mの横長の連窓が住居の中心を成し、わずか60㎡ほどの小さな家に無限の広がりを与えているのが特徴的。正式な呼び名はビラ・ル・ラク(湖の家)だが、コルビュジエが自著で発表した「小さな家」が通称となり、父親が1年ほどの居住で亡くなった後、母親が一人で100歳まで暮らしたことから「母の家」とも呼ばれている。現在は博物館として一般に公開されている(冬季閉館)。
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上の写真は東側の庭からの眺め。当初は全て白い漆喰で仕上げられていたが、1950年頃、湖に面した外壁をアルミ板で覆っている。またこれより先に道路側外壁も亜鉛メッキ鋼板で覆われている。個人的には漆喰壁を継続してほしいところだが、メンテナンスを考えると致し方ないということか。
下の写真はその道路側全景。北西角の2階部分は、コルビュジエ夫妻が訪れた際に泊る部屋で、1931年に道路側の塀の増築に伴って設けられたという。
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上の写真は、この住宅の重要なファクターの一つでもある横長の連窓。レマン湖の水平線とアルプスの山並が眼前に展開する美しい景観は、コルビュジエから両親への最大の贈りものであったろう。
下の写真は東側の庭先にある憩いの場。ピクチャーウィンドウが設けられた日陰を作る石壁には固定されたテーブルが置かれ、絵画のように美しい風景を眺めながら、心地よい時間を過ごしてもらおうという細かい配慮がなされている。さらに下の写真は額縁効果満点の風景。
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by toshinac | 2016-10-01 09:19 | trip photos

コルビジュエの建築/フィルミニ

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フランスのリヨン近郊の地方都市フィルミニは、ル・コルビジュエの晩年の建築作品群を見ることができる街。1960年、当時のフィルミニ市長の依頼を受け、1万人収容のスタジアムと青少年文化センター、それに教会と丘の上の集合住宅(ユニテ・ダビタシオン)を計画する。そのほとんどが1965年のコルビジュエ没後の竣工だが、なかでもサン・ピエール教会は、コルビジュエが残した計画を基に1973年から着手されるが、財政的な事情によりに下部のコンクリートが打ち上がった(1975年)時点で工事は中断、未完のまま長く放置されていた。時は流れて2004年、コルビジュエ財団の尽力や市民の寄付などによる資金調達もあって工事が再開され、2006年11月に完成を見る。一説には、教会が完成したことはル・コルビジュエ作品の世界遺産推薦の機運を高めたとも指摘されているという。
上の写真は、フィルミニのコルビジュエ作品が集まる地区をGoogle Earthで見る。

青少年文化センター
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e0116578_913864.jpg1965年に完成した青少年文化センターは、劇場や図書館や展示室等が入る文化複合施設で、フランス政府の「文化の民主化」政策事業の一環として建設されたもの。全長112mの建築で、1スパン7mの16スパンで構成された、非対称の放物線を描く吊り屋根構造の建築である。
上の写真は北西側から見た文化センター。
左の写真は西面ファサードの部分見上げ。




下の写真は東南側からの眺め。東側ガラス面の、ところどころ彩色されたリズミカルな窓枠は、ラ・トゥーレット修道院の特徴的な窓枠をデザインしたヤニス・クセナキスが担当している。
妻壁のレリーフはコルビジュエが好んで描いた牡牛のモチーフだそうである。彼方にスタジアムの屋根とサン・ピエール教会を望む。
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上の写真は階段状の教室内部。吊り屋根の支持点(高さの差約3m)に、1スパン(7m)を4分割した位置にφ36mmのペアのケーブル架け渡し、上に厚さ100㎜の気泡コンクリート版を設置して屋根面を構成しているが、計画当初の図面では現場打ちのコンクリートスラブで、中央に柱も立っていた。

ユニテ・ダビタシオン・フィルミニ
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e0116578_912818.jpg1967年に竣工したフィルミニのユニテは、奥行21m長さ130m高さ51mという巨大な集合住宅で、当初3棟の建設が予定されていたが、財政的な理由で実現したのは1棟のみ。
内部の構成はマルセイユのユニテと同じく、中廊下式の上下3層で一つのユニットを形成しているが、かなり簡素化されており、工事費で比較すると四分の一ほどで建設されたという。
住戸の一部が既に分譲されて改修されてしまい、建築当時の形とは変わってしまったところもあるらしいが、オリジナルデザインを残すべく、問題解決にむけて取り組みが進んでいるとか。

上と左の写真は、南北軸に配置された住宅の東側ファサード。



下の写真はマルセイユのユニテに比べ簡素化されたピロティの柱。
さらに下の写真は内部中廊下。
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スタジアム
下の写真は、古い採石場跡地に造られたスタジアムで観客席背後にサン・ピエール教会を見る。
設計は1954年にされていたが、プロジェクトが動き出したのはコルビジュエ没後の1966年で、1968年に完成。当初は観客席の上部全てに屋根が架かる計画であったらしいが、工事費の削減か中央部分だけで終わっている。
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サン・ピエール教会
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e0116578_9222772.jpgコルビジュエの没後41年という時を経てサン・ピエール教会を完成させたのは、フランス人建築家のジョゼ(ホセ?)・オーブレリー(1932~)。コルビジュエが亡くなるまでの最後のスタッフの一人で、この教会の設計に初期段階から関わっていたというオーブレリー監修のもと、長い工事中断を経て2006年に竣工した教会は、正式な教会という位置づけではなく、ル・コルビジュエという偉大な建築家の最後の作品の完成を目的としたもので、建物下階には4つの展示ホールと会議室、上階に四角錘状の上昇する空間が特徴的な祭壇と説教壇が設けられた集会場からなる文化施設である。
上の写真は東南側からの眺め。半円形の庇下のコンクリート壁に無数に開けられた小さな穴が、内部祭壇の薄暗い壁に星座を現出させる。左の写真は内部。祭壇背後の星が瞬くような光と、上昇する斜壁の最頂部から降り注ぐ明かりが生みだす幻想的な空間。
下の写真は西側からの眺め。
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by toshinac | 2016-09-05 09:31 | trip photos

ラ・トゥーレット修道院

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ロンシャンの礼拝堂完成後の1956年着工され、1960年に竣工したラ・トゥーレット修道院は、ロンシャンの礼拝堂同様に、ル・コルビュジエ後期の最も重要な作品の一つに数えられる。フランスのリヨン市郊外の森に囲まれた傾斜地に建ち、修道院の伝統的な中庭型平面を踏襲しつつ近代建築の原則に沿った新しい建築を試みている。修道院は、静かに祈り思索するための宗教的な場と、集団生活を営むための居住としての場を併せ持つ空間であることから、ロンシャン礼拝堂の宗教的な光の体験と、ユニテ・ダビタシオンで得た集合住宅の経験が生かされた作品と評されている。
上の写真は修道院の南西側を見たもの。斜面に柱を立て、建物本体をピロティで持ち上げた建築は、直線的で荒々しい打放しコンクリートの矩形のデザインで、曲線で構成されたロンシャン礼拝堂とは対比的な形態を見せている。
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上の写真左上は、コンクリート打放しの小さくシンプルな修道院のゲート。上の写真左下と右側は、エントランスを入って3階から中庭を見たもの。特徴的な窓枠や格子のデザインは、コルビュジエの弟子ヤニス・クセナキス(1922~2001:アテネ工科大学で建築と数学を学び、1948年よりコルビュジエの弟子となって、インド・チャンディーガルのプロジェクトやラ・トゥーレット修道院の設計に参画し、同時にパリ音楽院で作曲を学び、作曲に数学的理論を応用。後に現代音楽の作曲家として名を馳せる。)が担当し、モデュロールの寸法に従ったプロポーションや配置は、彼の音楽的なセンスや数学的考案に基づくところが大きいとされている。下の写真は、3階廊下の市松模様を想わせる窓枠を通して中庭を見る。
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e0116578_8524190.jpg上の写真は、中庭2階にある祈祷堂の三角屋根と、アトリウムの屋根を3階廊下より見る。
伝統的な修道院の中庭型平面が踏襲されているとはいえ、傾斜地であるがゆえ、直接囲まれた中心の地面の上に立つことができない中庭は、伝統的な修道院建築における多目的な庭空間としての役割は欠けてしまい、周縁からの眺めも開放感に物足りなさを感じてしまう。
左の写真は祈祷堂の内部。

下の写真は北側に建つ教会堂。トップライトと僅かなスリットのみで、他に開口部がない打放しコンクリートの直方体には、湾曲した北の聖具室と小礼拝堂が取りつき、「光の大砲」と名付けられた採光のための煙突状のトップライトが屋上に突き出る。
さらに下の写真は小礼拝室内部。「光の大砲」からの光は、白、赤、青に塗り分けられた筒に導かれ、薄暗い礼拝室の原色の壁を照らして光の絶対性を演出している。
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by toshinac | 2016-08-16 09:01 | trip photos

ロンシャンの礼拝堂

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フランス東部のオート=ソーヌ県ロンシャンに建つ礼拝堂(ノートルダム・デュ・オー礼拝堂)は、カトリック修道会の一会派であるドミニコ会の礼拝堂で、20世紀最大の建築家ともいえる"ル・コルビジュエ"の設計で1955年に竣工している。コルビュジエ自身が提唱した、「近代建築の五原則」に基づく機能性や合理性を追求したモダニズム建築とはかけ離れた彫塑的で象徴的な形態は、一部では論理的な一貫性を欠いているという批判もあったらしいが、むしろ独創的な造形の評価の高まりは世界的に広まり、その影響力は計り知れないものとなる。後期コルビュジエを代表する珠玉の建築ではなかろうか。
上の写真は、ロンシャン礼拝堂のベストアングルでもある東南からの眺め。第2次大戦の空爆で破壊された中世の石造り礼拝堂の瓦礫等を再利用した、石積みの分厚い壁にモルタルを吹き付け、鉄筋コンクリートを併用しながら全体をスタッコで白く仕上げ、特異なそりを持ったシェル屋根をコンクリート打放しのままとして重量感を持たせ、白い壁のマッスとの対比を図っている

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上の写真は、屋外の祭壇がある東側ファサードで、張り出すシェル屋根が圧倒的な量感で迫る。町はずれの小高い丘の上に建つ礼拝堂は、普段は参拝者もまばらで、無人の空間にローソクが灯るだけという日が多いらしいが、年2回の祝祭日には、屋外の祭壇前は1万人を超える信者で埋め尽くされるそうである。
下の写真は北側のファサード。右側の壁から突き出た棒状のコンクリートは雨樋。
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下の写真2葉は礼拝堂内部。中央に垂れた天井と分厚い壁に包み込まれた堂内は、様々な方法で採り入れられた光が神秘的な空間を創出する。なかでも、傾斜する巨大な南の壁は、下から上へと厚さが変わる壁に穿たれた開口部の奥に原色のステンドグラスが嵌め込まれ、差し込む光が壁の厚みを際立たせて堂内に拡散するという、鮮やかな光と影の対比による構成となっている。
コルビュジエが「建築をめざして(1923)」の中で、「建築とは、光の下に集められたヴォリュームの、知的で、正確で、そして壮大な遊びである。私たちの目は光の下で形を見るようにできている。明暗が形を浮びあがらせる。・・・」と述べていたことを思い出す。
礼拝堂の東側に設けられた祭壇上には、壁に穿たれた開口部に設置された逆光の中のマリア像が堂内を見下ろすが、光が強すぎて写真には映らない。屋外のミサの際には、マリア像は回転して外に向く仕掛けとなっている。
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by toshinac | 2016-07-27 16:45 | trip photos

マスレー/四半世紀前のイラン

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イラン北部カスピ海近くの山岳地帯にあるマスレー村は、急峻な斜面に家屋が階段状に張り付き、各家屋の陸屋根がそのまま上のレベルの道路や広場として使われるという、極めて珍しい景観を見せてくれる小さな集落である。1990年4月、「ペルシャ建築・集落・都市視察団」の旅も終焉に近づいたシーラーズのホテルで、壁に貼られたマスレーの集落写真に魅せられ、シーラーズの視察を短縮してマスレー行を提案し、団員の賛同とイラン側担当者の快諾を得て、急遽日程を変更してのマスレー行となった。テヘランまでの飛行便の変更と、マスレーまでのバスとホテルの確保と、旅行社にはかなり無理なお願いを聞き入れて頂いたのを覚えている。
上の写真は、村の入口にあたる集落の一番下から上方を眺める。石と木と日干煉瓦で造られた家屋は、そのほとんどが土壁塗りの2~3階建て。遠見では、世界中どこでも見られる急峻な斜面に建つ集落景観との差異はさほど感じない。
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e0116578_1112633.jpg当時のマスレー村は、土産物を売るお店は数軒あったが、お茶が飲める店は集落入口近くの1軒のみ。観光客の姿もほとんど見られない静かで落ち着いた印象で、むしろ私達視察団を眺める村人の方が多いのでは?と思うほどであった。イランの旅から帰った2ヶ月後の1990年6月、イラン北部一帯を襲った大地震で、マスレー村も相当な被害を被ったという情報に接し、果して復興は叶うのだろうかと心配したものである。現在では特異な景観を呈する村として広く知られるところとなり、多くの観光客で賑わっているという。
上の写真はこれぞマスレー村の特異なところ。屋根の下に見る集落のメイン通りを、広場にできた裂け目の中に見るような不思議。左の写真はメイン通りを上層の広場から見る。下の写真は、下の通りを跨ぐ橋状の通路越しに上層の家屋を見る。いまでは多くの観光客が押し寄せていると聞くが、この状態は保たれているのだろうか?・・・気になるところ。さらに下の写真はGoogle Earthで見た現在のマスレー村。道路網がかなり整備されているとこらからも、観光地化が進んでいる様子がよくわかる。
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by toshinac | 2016-06-22 11:04 | trip photos

シーラーズ/四半世紀前のイラン

テヘランから南に直線距離で700km余りのザグロス山脈中に位置するシーラーズは、標高1500mほどの高原都市。北東約60kmの所にあるペルセポリスが、古代ペルシャ帝国アケメネス朝(B.C.550~330)の王宮だった頃には小さな村でしかなかったが、ウマイヤ朝(イスラム史上最初の世襲王朝:661~750)の7世紀末ごろ、イラク総督ハッジャージュ・ブン・ユースフの従兄弟、ムハンマド・ブン・カーシム将軍によって町が建設されたとされている。
10世紀にはブワイワ朝(932~1062)地方政権の首都となり、市壁や宮殿、病院や図書館などの整備がされたらしいが、その後セルジューク王朝(1038~1157)やホラズム王朝(1077~1231)の領地となり、さらにモンゴルやティムールの占領下になるなど目まぐるしい変遷を辿り、やがてサファヴィー朝(1501~1736)の支配下になると、都イスファハーンと同じくアッパース1世により街は整備され、シーラーズは発展のピークを向かえたという。
しかしサファヴィー朝が衰退すると再び混乱期となり、町の破壊は進んでしまうが、18世紀後半、カーリム・ハーン(1705~1779:ザンド朝の創始者で、イランの歴史上有数の統治者と評価され「大王」と称されている。)によってザンド朝の都と定められ、市壁や灌漑施設が整備され、建築物の改修・再建がなされてバザールも整えられ、シーラーズは繁栄を取り戻すが、カーリム・ハーンの没後は僅か15年で王朝は滅亡し、カジャール朝(1796~1925)の時代となり首都はテヘランに遷都。
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e0116578_13575944.jpgパフラヴィー朝(1925~1979)の時代には、シーラーズを「イランのパリ」にするというレザー・シャーの考えから大金が投じられ、イランの中でも特に近代的な都市となるが、1979年のイラン革命後は、パフラヴィー時代の退廃の象徴とみなされ、革命政府からは重要視されない都市となっていた。

上の写真はシーラーズ市街。訪れた1990年当時は、パフラヴィー時代に着工されたと思われる、放置された未完の建築現場を数多く目にした。







左の写真は、カーリム・ハーンによって整備されたレンガ積アーチが特徴的なワキール・バザール。

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上の写真はエラム庭園。数々の美しい庭園がある都市として知られるシーラーズで、特に有名なエラム庭園は、イランを代表するペルシャ式庭園の一つとして2011年に世界遺産登録されている。歴史は古く、セルジューク朝の時代まで遡るとされているが、現在に見る庭や建物は、主にカジャール朝時代の造園と建築ということである。
下の写真は、庭園の中心的な18世紀の建物で、漆喰と色鮮やかなモザイクタイルの装飾が美しい。設計はハジ・モハマド・ハッサンという建築家。現在エラム庭園はシーラーズ大学が保有する博物館となっている。
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下の写真2葉はカヴァーム園。オレンジの木が多く植えられていることから、ナーレンジェスターン庭園とも呼ばれているカジャール朝の庭園と建築。もともとはカズヴィン(テヘランの北西150kmに位置するサファヴィー朝の都)の商人であったが交易で財を成し、ザンド朝、カジャール朝の時代には政府に影響を与えるほどの名家であったカヴァーム家の邸宅。
パフラヴィー朝の1966年にはシーラーズ大学に管理が委ねられ、アジア研究所として利用され、1999年にはシーラーズ大学建築・芸術学部に委ねられて一般公開されている。
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ペルセポリス
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古代ペルシャ帝国の都であるペルセポリスは、アケメネス朝ペルシャのダレイオス1世(ダリウス1世:B.C.522~B.C.486)が新しい首都としてB.C.520年頃建設を始め、その後歴代の王により増改築が継続した都。帝国の行政府としての中心であったもう一つの都スーサ(現在のフージスターン州シューシュにある都市遺跡)と違い、ペルセポリスは王の儀式や祭事を行う神聖な役割を持つ都、いわゆる聖都であった。通説では、B.C.330年古代マケドニア王国のアレクサンドロス大王によってペルシャ帝国は滅ぼされ、ペルセポリスも廃都と化したとされている。その遺構は、人類の歴史上重要な時代を例証するものとして、1979年に世界遺産登録されている。
上の写真は、ペルセポリス全景を背後の岩山クーフ・アッラフマト(慈悲の山)から眺めたもの。岩山の西北の麓を削平し、一部切石積の擁壁を設けた巨大なテラス(およそ300m×500m)を造り、その上に様々な宮殿が建設された。下の写真は、高さ2.65mの基壇の上に建つ謁見の間(アパダーナ)の柱群と、奥にダイオレス1世の冬の宮殿(タチャラ)を望む。
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上の写真は冬の宮殿。高さ2.41mの基壇上に、約40m×29mの建物が南面して建つ。ペルセポリスで最も古い建物の一つである。
下の写真の左上は、クセルクセス1世によって造られたクセルクセス門(万国の門)。門の東面には人面有翼獣神像が鎮座する。訪れた当時はかなり破損していたが、現在は像も復元され、梁も架け渡されている。左下は門柱の壁に刻まれた古代ペルシャの楔形文字。
下の写真の右上は、イラン航空のシンボルマークにもなっている双頭の鷲像。中央の水平部分に梁が架けられ、屋根を支える柱の柱頭飾りとされている。右下は謁見の間の基壇に刻まれたレリーフの一部。
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by toshinac | 2016-06-05 14:25 | trip photos