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マスレー/四半世紀前のイラン

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イラン北部カスピ海近くの山岳地帯にあるマスレー村は、急峻な斜面に家屋が階段状に張り付き、各家屋の陸屋根がそのまま上のレベルの道路や広場として使われるという、極めて珍しい景観を見せてくれる小さな集落である。1990年4月、「ペルシャ建築・集落・都市視察団」の旅も終焉に近づいたシーラーズのホテルで、壁に貼られたマスレーの集落写真に魅せられ、シーラーズの視察を短縮してマスレー行を提案し、団員の賛同とイラン側担当者の快諾を得て、急遽日程を変更してのマスレー行となった。テヘランまでの飛行便の変更と、マスレーまでのバスとホテルの確保と、旅行社にはかなり無理なお願いを聞き入れて頂いたのを覚えている。
上の写真は、村の入口にあたる集落の一番下から上方を眺める。石と木と日干煉瓦で造られた家屋は、そのほとんどが土壁塗りの2~3階建て。遠見では、世界中どこでも見られる急峻な斜面に建つ集落景観との差異はさほど感じない。
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e0116578_1112633.jpg当時のマスレー村は、土産物を売るお店は数軒あったが、お茶が飲める店は集落入口近くの1軒のみ。観光客の姿もほとんど見られない静かで落ち着いた印象で、むしろ私達視察団を眺める村人の方が多いのでは?と思うほどであった。イランの旅から帰った2ヶ月後の1990年6月、イラン北部一帯を襲った大地震で、マスレー村も相当な被害を被ったという情報に接し、果して復興は叶うのだろうかと心配したものである。現在では特異な景観を呈する村として広く知られるところとなり、多くの観光客で賑わっているという。
上の写真はこれぞマスレー村の特異なところ。屋根の下に見る集落のメイン通りを、広場にできた裂け目の中に見るような不思議。左の写真はメイン通りを上層の広場から見る。下の写真は、下の通りを跨ぐ橋状の通路越しに上層の家屋を見る。いまでは多くの観光客が押し寄せていると聞くが、この状態は保たれているのだろうか?・・・気になるところ。さらに下の写真はGoogle Earthで見た現在のマスレー村。道路網がかなり整備されているとこらからも、観光地化が進んでいる様子がよくわかる。
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by toshinac | 2016-06-22 11:04 | trip photos

シーラーズ/四半世紀前のイラン

テヘランから南に直線距離で700km余りのザグロス山脈中に位置するシーラーズは、標高1500mほどの高原都市。北東約60kmの所にあるペルセポリスが、古代ペルシャ帝国アケメネス朝(B.C.550~330)の王宮だった頃には小さな村でしかなかったが、ウマイヤ朝(イスラム史上最初の世襲王朝:661~750)の7世紀末ごろ、イラク総督ハッジャージュ・ブン・ユースフの従兄弟、ムハンマド・ブン・カーシム将軍によって町が建設されたとされている。
10世紀にはブワイワ朝(932~1062)地方政権の首都となり、市壁や宮殿、病院や図書館などの整備がされたらしいが、その後セルジューク王朝(1038~1157)やホラズム王朝(1077~1231)の領地となり、さらにモンゴルやティムールの占領下になるなど目まぐるしい変遷を辿り、やがてサファヴィー朝(1501~1736)の支配下になると、都イスファハーンと同じくアッパース1世により街は整備され、シーラーズは発展のピークを向かえたという。
しかしサファヴィー朝が衰退すると再び混乱期となり、町の破壊は進んでしまうが、18世紀後半、カーリム・ハーン(1705~1779:ザンド朝の創始者で、イランの歴史上有数の統治者と評価され「大王」と称されている。)によってザンド朝の都と定められ、市壁や灌漑施設が整備され、建築物の改修・再建がなされてバザールも整えられ、シーラーズは繁栄を取り戻すが、カーリム・ハーンの没後は僅か15年で王朝は滅亡し、カジャール朝(1796~1925)の時代となり首都はテヘランに遷都。
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e0116578_13575944.jpgパフラヴィー朝(1925~1979)の時代には、シーラーズを「イランのパリ」にするというレザー・シャーの考えから大金が投じられ、イランの中でも特に近代的な都市となるが、1979年のイラン革命後は、パフラヴィー時代の退廃の象徴とみなされ、革命政府からは重要視されない都市となっていた。

上の写真はシーラーズ市街。訪れた1990年当時は、パフラヴィー時代に着工されたと思われる、放置された未完の建築現場を数多く目にした。







左の写真は、カーリム・ハーンによって整備されたレンガ積アーチが特徴的なワキール・バザール。

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上の写真はエラム庭園。数々の美しい庭園がある都市として知られるシーラーズで、特に有名なエラム庭園は、イランを代表するペルシャ式庭園の一つとして2011年に世界遺産登録されている。歴史は古く、セルジューク朝の時代まで遡るとされているが、現在に見る庭や建物は、主にカジャール朝時代の造園と建築ということである。
下の写真は、庭園の中心的な18世紀の建物で、漆喰と色鮮やかなモザイクタイルの装飾が美しい。設計はハジ・モハマド・ハッサンという建築家。現在エラム庭園はシーラーズ大学が保有する博物館となっている。
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下の写真2葉はカヴァーム園。オレンジの木が多く植えられていることから、ナーレンジェスターン庭園とも呼ばれているカジャール朝の庭園と建築。もともとはカズヴィン(テヘランの北西150kmに位置するサファヴィー朝の都)の商人であったが交易で財を成し、ザンド朝、カジャール朝の時代には政府に影響を与えるほどの名家であったカヴァーム家の邸宅。
パフラヴィー朝の1966年にはシーラーズ大学に管理が委ねられ、アジア研究所として利用され、1999年にはシーラーズ大学建築・芸術学部に委ねられて一般公開されている。
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ペルセポリス
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古代ペルシャ帝国の都であるペルセポリスは、アケメネス朝ペルシャのダレイオス1世(ダリウス1世:B.C.522~B.C.486)が新しい首都としてB.C.520年頃建設を始め、その後歴代の王により増改築が継続した都。帝国の行政府としての中心であったもう一つの都スーサ(現在のフージスターン州シューシュにある都市遺跡)と違い、ペルセポリスは王の儀式や祭事を行う神聖な役割を持つ都、いわゆる聖都であった。通説では、B.C.330年古代マケドニア王国のアレクサンドロス大王によってペルシャ帝国は滅ぼされ、ペルセポリスも廃都と化したとされている。その遺構は、人類の歴史上重要な時代を例証するものとして、1979年に世界遺産登録されている。
上の写真は、ペルセポリス全景を背後の岩山クーフ・アッラフマト(慈悲の山)から眺めたもの。岩山の西北の麓を削平し、一部切石積の擁壁を設けた巨大なテラス(およそ300m×500m)を造り、その上に様々な宮殿が建設された。下の写真は、高さ2.65mの基壇の上に建つ謁見の間(アパダーナ)の柱群と、奥にダイオレス1世の冬の宮殿(タチャラ)を望む。
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上の写真は冬の宮殿。高さ2.41mの基壇上に、約40m×29mの建物が南面して建つ。ペルセポリスで最も古い建物の一つである。
下の写真の左上は、クセルクセス1世によって造られたクセルクセス門(万国の門)。門の東面には人面有翼獣神像が鎮座する。訪れた当時はかなり破損していたが、現在は像も復元され、梁も架け渡されている。左下は門柱の壁に刻まれた古代ペルシャの楔形文字。
下の写真の右上は、イラン航空のシンボルマークにもなっている双頭の鷲像。中央の水平部分に梁が架けられ、屋根を支える柱の柱頭飾りとされている。右下は謁見の間の基壇に刻まれたレリーフの一部。
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by toshinac | 2016-06-05 14:25 | trip photos

マルヴァスト/四半世紀前のイラン

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ヤズドからシーラーズに向かう途中で道に迷い、はからずも巡り合った村マルヴァストは、オアシス都市ヤズドから165kmほど南の沙漠の中にあるヤズド州の一農村。集落中央の小高い台地に、高さ4~5mの厚い土壁を、方100m程にめぐらした砦のような廃虚があり、その周囲にドームやヴォールト屋根の土の家屋が密集する。古くから地主(マーレキ)と小作人(ライーヤト)制のもとにあったイランでは、都市に住む地主(主に領主や豪商)が資本を投じて沙漠にカナート等の灌漑施設を設け、ガルエと呼ばれる村郭を築き、小作人を住まわせて農耕に従事させるという植民地的な村が広く分布した。特にイラン高原にはこの形態の村が数多く点在するという。
上の写真は、かつてのガルエを中心にスプロールしていく集落を、ガルエの周壁に設けられた銃眼から撮ったもの。下の写真は、ガルエ近くに多く見る土壁が傷んだ家屋。
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前出の吉田正春の「回疆探検・波斯之旅」には、マルヴァストの東100kmほどにあるデェビットという村付近の様子が次のように記述されている。「遊牧人民は処々に群居せり。多きは千余人、少なきは三、四百人、天幕を以て方形に市街状を作れり。・・・彼らの群居せる近傍には必ず一流の水に沿うて草の繁茂したるあり。その水を汲み尽くし、その草を飼い尽くすまではここに住すといえども、水草尽きればまた水草追うて移る。」・・・

e0116578_91762.jpg吉田正春が訪れた1880年頃のイラン高原には壮大に展開していた遊牧の民も、パフラヴィ朝(1925~1979)の創設期に遊牧民の定住化が推進されると、小作人となって農耕に転じた遊牧集団も少なくなかったようである。マルヴァストの住民がもとからの農民か、遊牧民の子孫か、あるいはその混在かは分からないのだが、いづれにしても都市を結ぶ交易路からは程遠く、灌漑施設が無ければ農耕にも放牧にも適さない場所にあるこの村も、その起源は地主によって造られた人工村ではないかと想われる。もちろん砦のような周壁は、野獣や侵入者から農民を守ったガルエの跡ということになる。
左の写真は、廃墟となっていたガルエの入口。マルヴァストの英語の地図表記にはMarvast castleとある。下の写真は、マルヴァスト中心部の衛星写真(Google Earth)。中央がガルエ(キャッスル)。
整備された道路や、土の家屋の中に銀色に光るアーチ屋根の建物などを見ると、沙漠の中の一農村も確実に近代化に向かっていることが窺える。
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さらに想像を逞しくすると、1962年の農地改革によって地主の搾取から解放された農民は、やがて狭いガルエを放棄して、その周囲に土の住居を造り次々と移り住む。時あたかもシャーの近代化政策による高度成長期、農民の兼業収入が増えると共に、公衆浴場や学校が造られ、モスクが建ち、現在のマルヴァストの骨格が出来上がったのではなかろうか。あくまでも想像である。
下の写真2葉は、ガルエから西に1.3kmほど離れた場所にある地方領主シェィク・アブドラの墓。かなり朽ち果てていたが現在はシェィク・アブドラ公園として整備されているようである。
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by toshinac | 2016-05-09 09:18 | trip photos

ヤズド/四半世紀前のイラン

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イスファハーンの南東約280㎞に位置するヤズドは、カヴィール沙漠の南東部がそのままルート沙漠へと続く接点にあるオアシス都市で、ゾロアスター教(善と悪の二元論を特徴とする世界最古の一神教)文化の中心地。歴史は古代メディア王国の時代(B.C.715年~B.C.550年頃)まで遡るとされており、B.C.6世紀にアケメネス朝ペルシャが成立した時点では、ゾロアスター教はペルシャ人の多くが信奉する宗教となり、3世紀のサーサーン朝では国教になっている。しかしウマイヤ朝(イスラム史上最初の世襲イスラム王朝:661年~750年)に入りイスラム化が進むと、統治が及びにくい辺境のヤズドには、近隣各地のゾロアスター教徒が逃れてきたため、住民の大多数をゾロアスター教徒が占めることとなり、ヤズドでのイスラム教の浸透には非常に長い年月を要したという。
イラン高原が発祥とされるカナート(地下用水路)はヤズドにも多く、灌漑や生活用水の他住居の中庭に緑をもたらし、地下に導いてバード・ギール(Wind catcher)からの風を冷やす冷却水としても用いられている。沙漠の厳しい環境下で培われた伝統的な住居が最もよく残っている町ヤズドは、群青色の空を背景に土壁一色の屋並みが独特の表情を見せてくれる。
上の写真はヤズド近郊で見たカナート。彼方のシール山麓から町まで導かれる地下水路の途上に、地表から掘られた工事用の穴が等間隔で続く。
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e0116578_1127742.jpg上の写真は、伝統的な住居の屋上から見たヤズド旧市街。彼方のシール・クーフ山脈を背景に2本のミナレットが際立つ金曜モスクと、ヤズドの景観を特徴づけるバード・ギールが林立する旧市街を見はるかす。



左の写真は金曜モスク(マスジデ・ジャーメ)。12世紀の創建で1324年から1365年にかけて再建されたものとされ、ミナレットの高さ52mを誇るモスクは、14世紀の優れたイラン建築の一つに数えられている。







下の写真は、旧市街の密集する住居の屋上から眺めたバード・ギールとクーチェと呼ばれる街路。

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上の写真は様々な形態を見せる街路。トンネル状の狭い通りはダラン、オープンな通路をクーチェと呼ぶというが、明確に判別ができない街路も多く見る。
下の写真は、ヤズドの伝統的な住居の中庭。街路から玄関ホール、そして暗い通路抜けた先に水と緑の中庭が展開する仕掛けに、沙漠の民が求めた究極の楽園を垣間見る。写真はターラールの屋上からの眺めたもので、左側のアーチ部分の奥に玄関への通路がある。
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沈黙の塔
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e0116578_11411341.jpg沈黙の塔とは、ヤズド中心部から南西方向8kmほどの岩山にあるゾロアスター教の鳥葬の場ダフメ(墓地)で、“沈黙の塔”は西洋人が付けた呼び名だそうである。
ゾロアスター教の根本経典の中に「死体は山の頂上に葬れ」とあるそうで、遺体を山野の定めた場所に置き、肉食の猛禽類に喰わせ、残った骨を穴などに葬るというこの葬制は、かつてはチベットやインドの一部でも行われていた。
イランでは1930年代に禁止され、いまではイスラム教と同じ土葬になっているという。
上の写真は、2基のダフメがある“沈黙の塔”全景。


左の写真は、岩山の周りにある葬祭の関連施設跡越しに見た左側のダフメ。


下の写真は登る人が多い右側のダフメで、周りには通夜の場などに用いられた施設跡が点在する。
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by toshinac | 2016-04-27 11:45 | trip photos

イスファハーン(3)/四半世紀前のイラン

アバシ(アッバースィー)ホテル
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ホテルのもとの姿は、サファヴィー朝最後の王、シャー・スルタン・フサイン(在位1694~1722)が母のために建てたとされるモスク兼用のマドラサ(神学校)に、キャラバンサライやバザールが併設された複合施設マーダル・イ・シャー(1706~1714)で、チャハルバーグ(四分庭園)の中庭が美しく、サファヴィー朝の最後を飾る建築の一つとされている。ホテルはかつてのキャラバンサライを改修増築したもので、現在ではイスファハーンの最高級ホテルの一つになっているらしい。
上の写真は中庭からの眺め。下はマーダル・イ・シャーの平面図(日本建築学会編:東洋建築史図集より)。
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ハージュ橋
イスファハーンの街中を流れるザーヤンデ川に架かる石と煉瓦の2層構造のアーチ橋で、15世紀後半に基盤を持つ古い橋の遺構の上に、シャー・アッパース2世によって、1650年~1655年頃構築されたものとされている。全長132mのハージュ橋の上部は人道橋で、両側が壁で仕切られたバルコニー状の回廊になっており、アーチが連続する外観はマドラサやキャラバンサライを想わせる。下部は橋脚の間に21の流水路が設けられ、そこに堰板を嵌め込んで上流側の水位を調整し、灌漑や首都の水路網に水を供給するためのダムの役目も果たしている。ハージュ橋は、人が渡る機能に憩いの場を取り入れた治水建造物である。 
下の写真は、橋の上流側(上)と下流側(下)。橋の両端と中央には、かつて王侯貴族の憩いの場でもあったという望楼が付く。
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吉田正春の「回探検疆ペルシャの旅」では、楼閣ある長橋としての記述がある。「橋の長さは百間乃至百四・五十間もあらん。その構造は磚石にて畳み揚げ、円形に勾配をつけ、幅の広さは十二・三間もあらん、中には一条の通路なれど、その左右は廻廊を置き、半月形の窓牖(そうゆう)を設け、その外辺には彫欄を繞らし、これを飾れる瓦は青磁の如きまた金襴焼きの如き種々の彩色を染め出し、所々の金色の剥げ残りたるなど、昔を忍ぶ潤沢は画も及ばじと思うばかりなり。」と、その壮麗さを記しているが、一方で、「然れども年経しままに修理も加えねば、所々に欠陥の傷多く、塵埃に埋まり、心なき人は羊を駈り驢を馳せその上を踏みならす有様、そぞろに旅客をして空しく懐古の念を逞しゅうせしむ。」と、荒れた状態を憂えている。1873年に橋の修理が行われたらしいが、吉田正春が訪れた年は1880年、僅か7年で荒れてしまうような時世だったということか。
下の写真左上は、馬や荷車用と歩道が分離された中央部分で、両側の壁の向こうが回廊になっている。
左下は回廊部分。下の写真右は流水路に設けられたテラス。人々が思い思いの時を過ごすことができる場所となっている。
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ヴァーンク教会
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e0116578_14211415.jpgザーヤンデ川の南にあるジョルファ地区は、シャー・アッパース1世が新首都の発展をめざして優れたアルメニア人の職人や商人を北方から移住させた地域で、宗教の自由とアルメニア人コミュニティが現在でも認められている特別な地区。
地区内には13のアルメニア正教会があり、ヴァーンク教会はその中の一つで1605年に創建されているが、現在の教会は1655年に再建されたものだそうである。

上の写真は、ドームや壁のアーチなどペルシャの伝統様式との融合を図っているが、ドームの頂には十字架が付き、聖堂内部(左の写真)には聖書に登場する場面の描写など具象的な表現も多く見られる。









路地
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e0116578_14262535.jpgイマーム・モスクの裏にあたる市街地で、ダラン・タリックと呼ばれる地区を訪れた。
ダランは「通り」で、タリックは「暗い」を意味するそうである。中庭を持つ住居の外壁と外壁の間が通りになっていることが一般的で、雰囲気は路地に近く、各住居への長いアプローチとも考えられる。
通りには、そのつくられ方によってそれぞれ呼び名があり、覆われた狭い通路をダラン、覆われた広い通路をゴザール、上がオープンの通路をクーチェと呼ぶそうである。

上の写真はダランと呼ばれる路地。
左側上の写真は路地(クーチェ?)で憩う老人と周りに集まった子供達。
左側下の写真は路地に面した小さなお店の婦人と子供。

下の写真はモスク裏の路地。クーチェと呼ぶのかは確かめていない。
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by toshinac | 2016-04-13 14:31 | trip photos

イスファハーン(2)/四半世紀前のイラン

金曜モスク(マスジェデ・ジャーメ)
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イランにおけるモスク建築の歴史を体現していると言われる金曜モスクは、8世紀後半に他のモスクの説教壇がこの地に移送されたのが始まりとされるイスファハーン最古のモスク。
最も初期の形態は定かではなく、長年に渡って増築・改築・修復を繰り返してきたため、建物のどの部分がいつの時代のものかという特定が難しい複雑な歴史を持っている。だがその主要部分と基本的構成は11世紀~12世紀に造られており、セルジュク朝時代の代表的な建築であるとともに、各時代の様式が見られる博物館的な建築と言われている。
上の写真は、中央に礼拝者が身を清めるための泉水が設けられた約60m×70mの中庭で、東南側イワーン(左)と南西側イワーン(右)を望む。南西側イワーンの両側に建つミナレットは、1475年の修築時に付加されたものとされている。下の写真は東南側イワーンと回廊詳細。
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上の写真左は、南西側回廊内部。中庭を囲む回廊は列柱とドーミカル・ヴォールト(ドーム状ヴォールト)が連続する空間。煉瓦造の円形柱を方眼状に配し、それらの頂部を尖塔アーチで繋ぎ、区画毎に多様な形式やデザインの煉瓦化粧積みのドーミカル・ヴォールトが架かる。
上の写真右は西北側イワーンのミフラーブ。イルハン朝の第8代君主オルジェイトゥ・ハン(在位1304~1316)による建立とされ、精緻な文様が漆喰で造られている。

バザール
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e0116578_16135996.jpg中東におけるバザールの中で最大規模をほこるイスファハーンのバザールは、旧市街中心部にある金曜モスクとイマーム広場を結ぶ全長2kmにもおよぶ歴史ある市場。
セルジュク朝の11世紀~12世紀頃には、金曜モスク周辺にバザールは存在しており、サファヴィー朝のアッパース1世による新市街の建設後に規模は拡張し、交差する通りや並行する通りにも店舗や商人の住宅が増え、隣接して遠隔地交易のためのキャラバンサライ(宿泊施設)や倉庫やハマーム(公衆浴場)などが設けられ、大バザールを含む旧市街が形成されてきた。
上の写真は、金曜モスクに近い古いバザール(左)と、イマーム広場に近い比較的新しいバザール。薄暗い通りに降りそそぐ天窓からの光はまるでスポットライト。幻想的だが埃っぽいのも事実。
左の写真は、バザールの屋根に近い開口部から覗いた通り。
下の写真は、バザールに隣接して設けられたキャラバンサライ。最大時には100を超えるキャラバンサライがあったという。
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チェヘル・ソトゥーン宮殿
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イマーム広場の西側一帯はサファヴィー朝の王宮で占められていた地域で、アッパース1世の時代には既に宮殿や庭園が造られていたが、このチェヘル・ソトゥーン(40本の柱)はアッパース2世によって1647年に建てられたもの。
建物の後半分に煉瓦造の広間と小部屋を対称形に配し、前面には木造の広いターラール(ポーチ)が設けられた平面構成。特徴的なターラールは、木製の水平天井を細くて高い木柱が支え、柱頭に施された装飾と、繊細な幾何学模様の彩色で覆われた天井が美しく、宗教的建築には見られない瀟洒な雰囲気がある。柱は実際には20本しかないが、池に映ずる柱を加えての40本が宮殿の名となっている。
上の写真は、池越しのチェヘル・ソトゥーン宮殿。砂漠の民であるペルシャ人にとって、水と緑は最高の贅沢でまさに楽園=パラダイス。ちなみに “パラダイス“の語源はペルシャ語だそうである。
下の写真は宮殿正面。中央の光ったところは鏡貼りのイワーンで、ムカルナス装飾は黄金色と鏡を鏤めた壮麗な美しさ。さらに下の写真は、ターラールの柱の柱頭飾りと天井装飾。
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by toshinac | 2016-03-27 16:24 | trip photos

イスファハーン(1)/四半世紀前のイラン

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カーシャーンから南に約200km、標高1600mほどの高原にあるイスファハーンは、町の南部を貫流するザーヤンデ川の水に恵まれ、古くからオアシス農業の中心地として発展した都市である。
ササン朝ペルシア時代(226~651農耕を主とし、ゾロアスター教を国教とするイラン人の建国 )には既に主要都市となっていたらしいが、その後のイスラム教徒支配下時代に於いては、長きに亘って停滞と隆盛を繰り返した歴史がある。サファヴィー朝(1051~1736)の時代になり再び商業・文化・宗教の中心都市として発展すると、第5代君主アッバース1世(1571~1629)によって首都に定められた1598年以降、都市計画に基づいた王の広場を始めとする多くの寺院や宮殿などが建設され、「イスファハーンは世界の半分」と例えられるほどの繁栄を極めた。18世紀に入りサファヴィー朝が衰退すると、イスファハーンはアフガン人によって破壊され、マシュハド(マシャド:イスラム教シーア派の聖地の一つで、テヘランの東850kmに位置するイラン第2の都市)に遷都されて宮廷が消えると、新市街は荒廃しその多くが耕作地に変貌し、飢饉の影響もあって衰退の一途をたどったという。カジャール朝(1796~1925)の19世紀末頃から復興が始まり、20世紀にパフラヴィ朝(1925~1979)のレザー・シャーによる都市の近代化政策で、イスファハーンは近代産業と観光によって復興し、1979年に新市街の王のモスクと広場周辺が世界遺産に登録され、イラン革命後の現在も観光都市として世界にその名を馳せている。
上の写真は、イスラム革命後、イマーム広場と呼ばれるようになった王の広場とイマーム・モスク(王のモスク)を見る。

イマーム・モスク
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イマーム広場の南端に位置するイマーム・モスク(1612~1638)は、アッパース1世の治世下で建てられた建築物の中の代表格。モスクの主軸をメッカの方向にめけるため、広場の南北軸から45度に振れて配置されているが、広場側イワーンと中庭北側イワーンの間に三角形の空間を設けることで、広場から導かれる人々に不自然さを感じさせない巧みな設計や、スクィンチ(正方形平面の部屋に円形ドームを架けるための四隅に架け渡たされた部材で、規模が大きくなると扇状のアーチ構造“スクィンチ・アーチ”となる場合が多い)によって架けられた高さ47mの二重殻のドーム構造、モスク全体を覆う花模様やアラベスク文様の彩釉タイル装飾など、サファヴィー朝の建築技術や芸術性の高さを象徴する建築である。

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上の写真は、イマーム広場の池越しに見たイマーム・モスク。

左の写真は、モスクの入口にあたる広場に面したイワーン詳細。
ムカルナス装飾の美しさに目を奪われる。










下の写真は、モスクの主礼拝室の天井見上げ。緻密な彩釉タイル装飾で埋め尽くされた高さ30mを超える巨大なドーム空間は、吸い込まれそうな不思議な感覚を覚える小宇宙。
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シェイフ・ロトゥフォッラー・モスク
イマーム広場の東側に建つシェイフ・ロトゥフォッラー・モスク(1601~1628)は、アッパース1世が説教師ロトゥフォッラーのために建てた王室専用の小モスク。ドームを頂く正方形の礼拝室は、イマーム・モスクと同様に広場に対して45度振れている。そのため広場入口から礼拝室に至る導線は幾度か折れ曲がるが、結果的に高揚感を高める効果をもたらしている。
イマーム・モスクに比べれば規模は小さいが、ペルシャ建築としては珍しいとされる黄色い彩釉タイルなどを取り入れた装飾は極めて美しく、サファヴィー朝建築の傑作の一つされている。
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上の写真2葉は、シェイフ・ロトゥフォッラー・モスクの正面を、広場を挟んで建つアリ・カプ宮殿のベランダから眺めたもの。王室専用ということもあり、モスクには礼拝を呼びかけるためのミナレットも教徒が集う中庭も無く、かつて宮殿とモスクは地下通路で繋がっていたと言われている。
下の写真は、メッカの方向を示すミフラーブ側を見た礼拝室内部で、ミフラーブの両脇はドームを支えるスクィンチ・アーチ。透かし彫装飾が施された小窓からの薄明かりで、ドーム天井の華麗な文様を幻想的に現出する。
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アリ・カプ宮殿
イマーム広場の西側に建つ「アリの門」を意味するアリ・カプ宮殿は、かつては背後にあった広大な宮殿の門の役目を果たしていたという。15世紀のティムール朝にはその原型はあったらしいが、アッパース1世によって迎賓館として整備拡張され、以降歴代の王族によって増改築がなされてきた建築である。イマーム広場が一望できる優雅なベランダと、アッパース2世によって構築されたとされる音楽の間が特徴的。
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上の写真は、イマーム広場北側に面するカイサリーヤ門(大バザールへの入口)近くの回廊の屋根上から眺めたアリ・カプ宮殿。18本の柱が立つベランダは、かつて王族や来賓が列席し、広場で執り行われたパレードや観閲式など、様々な式典に臨んだ場。東西約160m、南北約510mの広場と背後に広がる旧市街の大パノラマを目の当たりにすれば、王様ならずとも誰しも気分は高揚する。
訪れた当時は駐車する車ばかりが目についた広場だが、現在は見違えるほど整備され、車の乗り入れも制限されているようである。
下の写真は、宮殿最上階にある音楽の間の装飾。壁や天井に花や植物など具象的な絵が描かれたイスラム建築はまれで、ボトルや花器や楽器のような形の穴をあけ、反響音を吸収することで音楽を美しく響かせるという装飾もまた珍しい。
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by toshinac | 2016-03-13 10:08 | trip photos

ゴム/四半世紀前のイラン

テヘランから南に車で約135kmにあるゴム州の州都ゴムは(かつて日本では「コム」と表記されていた)、イスラム共和制のもとで革命を主導してきた宗教保守派の牙城と言われている宗教都市。十二イマーム派(歴史上12人のイマーム(指導者)が現れたシーア派諸族の中で、最も信者数が多いとされる最大派)の第8代イマーム・レザー(765~818)の妹ハズラテ・マアスーメがこの地で客死したことで廟が造られると、シーア派の巡礼地として発達。廟に付属して設けられたホウゼ(聖職者を養成する宗教学校)はこの地域の十二イマーム派における教学の核となり、サファヴィー朝になって十二イマーム派が国教化されると、その保護のもと隆盛を極めたゴムは、シーア派の人々にとっての聖地の一つとなっていく。
18世紀頃、イラクのナジャフ(バグダットの南約160kmに位置し、シーア派の初代イマームであるアリーの墓廟がある)が聖地として重要な巡礼地になると、ゴムは相対的に目立たない存在になっていったらしいが、イラクの社会情勢の変化に伴いナジャフが衰退。代わって1921年にゴムに創設されたホウゼ・ウルミーエ・ゴム学院の活動によって、ゴムは十二イマーム派教学の中心地として復活し、いまでは教学を学ぶ多くの留学生が訪れる国際宗教都市となっている。この学院で学び、教鞭を執ったイラン・イスラム共和国の最高指導者であるホメイニ師は、革命後の一時期、国政をゴムから司っていた。
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e0116578_143597.jpg上の写真はハズラテ・マアスーメ・モスク前の広場。左の写真はモスク入口から覗いた、聖域ハズラテ・マアスーメ・モスク。現在は観光客も入れるようだが、当時は異教徒の立ち入り厳禁。街の雰囲気は、写真を撮るのも憚れるほどの緊張感を感じた時代。下の写真はテヘランから通じる道路上から遠望したゴムの街。イスラエルとアメリカを糾弾する看板はどこでも目に付いた。更に下の写真は、ゴムからカシャーンに向かう途中の荒漠たる風景。
1880年(明治13年)、外務省理事官としてペルシャ(1935年イラン国名改称)に派遣された吉田正春(土佐藩の参政吉田東洋の長男1851~1921)の見聞記「回疆探検・波斯之旅」には、当時のゴムの様子が次のように記述されている。
「コムは砂漠に突出せる一山脈西端にして、その城市の高所は鉄漿色(お歯黒色のこと)の岩石に囲繞せられ、低所は赭色(赤土)の瓦屋参差(不揃いの瓦屋根が入り混じっている様)として、四、五千の人口あり。・・・・・市城の小なるに比し寺院は極めて宏壮にして、城の外垣は全くこの寺院を囲い込むために設けたる如き観あり。」
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by toshinac | 2016-02-04 14:12 | trip photos

テヘラン/四半世紀前のイラン

1990年の4月、日本建築学会アジア建築交流委員会による、ペルシャ建築・集落・都市視察団に加わり、イラン中央部の北から南に点在する歴史的な都市や集落を訪れた。世界を驚かせたイスラム革命(1979年2月)後に起こった、イラン・イラク戦争(1980~1988)が終結して間もない時期であっただけに、テヘランでは戦後の復興はまだこれからといった状態であった。市街の至るところで中断した工事現場が目に付き、イスラエルやアメリカを糾弾するプロパガンダ目立ち、イスラム革命防衛隊なる組織(軍隊)の監視の目を気にしながらの旅だったことを思い出す。おそらく現在のイランとは隔世の感があるとは感じているが、基本的なところでは四半世紀前の姿と大きくは変わってないのではと思い、フィルム写真をパソコンに取り込みながら、異文化の建築に触れた時の感動を想い起している。
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イラン(イラン・イスラム共和国)の首都テヘランは、イラン中北部に位置し、アルボルズ山脈(エルブルズ山脈)の南麓、標高約1200mの扇状地上築かれた都市。サファヴィー朝(1501~1736)の初めに周囲8kmほどの市壁が巡らされた都市が築かれたが、この時代は軍の駐屯地にすぎず、本格的な町の発展は、1786年カージャール朝(1796~1925)がここに首都を移してからのこと。人口の増加に伴い市街地が拡張され、1871年頃には周囲18㎞の新たな市壁が巡らされた都市になったようだが、その後は産業や社会構造に特段の変化も無く、中世的なイスラム都市に留まっていたという。クーデターによってパフラヴィ朝(1925~1979)を開いたレザー・シャー・パフラヴィは、イランの近代化政策を急速に推し進め、1934年テヘランの都市改造にも着手。第2次大戦後には100万都市の仲間入りを果たすが、あまりにも急速な近代化は“脱イスラム化”を国民に強要するかたちとなり、結果強い反発が生じて王政打倒運動へと発展し、1979年ついに国王の国外退去で王朝は終焉。

e0116578_1045484.jpg入れ替わりに国外に追放されていた宗教指導者ホメイニ師が15年ぶりに帰国し、イスラム共和国の設立を宣言する。その間にも首都テヘランの人口は増加を続け、やがて都市化現象がおおきな社会問題となってくる。

上の写真は、アルボルズ山脈(エルブルズ山脈)の南麓に広がるテヘラン新市街を望む。当時は山の頂まではっきり見渡せるほど空気は澄み渡っていたが、近年のテヘランの大気汚染は深刻。昨年の12月にはPM2.5の指数が大幅に増加し、3日連続で市内の学校の休校と、住民に屋内退避を勧告するほどの事態になっている。

左の写真は、宿泊したホテルから見た北東方向(上)と東南方向(下)の市街。現在はかなりの数の高層ビルが建っているようである。
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上の写真は、中心街にあるマスジェデ・モタハリ(旧セパサラール・モスク)。カージャール朝時代の1830年に建てられたもので、6本のミナレットとモザイクタイルが美しい。
下の写真は、市域南東部のバザールに程近い下町の通り。朝の穏やかな陽の中で、登校のバスを待つのかチャドルを纏った親娘?の姿が微笑ましい。
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by toshinac | 2016-01-22 11:02 | trip photos

九族文化村

台湾中部の景勝地“日月潭”近くの広大な敷地に展開する九族文化村は、台湾先住民9種族の、百年余り前の伝統家屋や集落を再現し、生活用具の展示や伝統的な習俗なども公開される観光名所。1986年の設立当初は、台湾における先住民は9民族が認定されていたため「九族」となっているが、現在(2014年)では16民族が先住民族として認定されている。

排湾族(パイワン族)
台湾南部の中央山脈や東南沿海地域を主な居住地としており、木彫や石彫に高い技術を持つ民族で、頭目、貴族、戦士、平民という4階級の階層制度の社会組織を成していたそうである。ただ両性の権利は平等で、男女の別は無く、長子であれば家を継ぐことができたという。下の写真2葉は排湾族の頭目住居内外。一枚石の天然スレート壁におどろき!
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上の写真は排湾族の集会所内外。居住地域によっては木や竹を材料とした家屋も多く見られる。

泰雅族(タイヤル族)
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e0116578_10504974.jpg居住地域は北部から中部にかけての山岳地帯。
祖先から伝わる禁忌と信仰の制度を持つとされ、男子は戦いに強く、女子は織物が上手であることを示すため、かつては成人式で顔に入れ墨を入れる習慣があったという。
上の写真は泰雅族住居の内外。丸太を重ねた壁が山の民を想わせる。

左の写真は見張り小屋の瞭望台。












魯凱族(ルカイ族)
主に台湾南部の高雄県、台東県、 屏東県、の中央山脈山地に居住し、排湾族に似た階層制度を有する父系社会で、独自の言語を持っていた。下の写真は魯凱族の貴族住居で、排湾族の住居に類似する。さらに下の写真は魯凱族の集会所内部。
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上の写真は魯凱族頭目住居の外部と内部。

布農族(ブヌン族)
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台湾中南部の山地、海抜1500m以上の高地に住む典型的な高山民族で、社会組織は長老制度による父系氏族の大家族社会で、各家族の長老達が集まって村の政策決定を行ってきたという。民族意識が強く、固有の言語を保っている数少ない先住民族。上の写真は石造りの住居。下の写真は、石や木や竹を併用した住居の内外。
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阿美族(アミ族)
先住民族の中で最も人口が多い阿美族は、そのほとんどが台湾東部の縦谷と海岸地域に暮らし、母系の氏族制と相続制度を持つとされ、歌と舞踊の豊かさで知られている。下の写真は阿美族の住居内外。
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卑南族(ブユマ族)
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e0116578_1313117.jpg主に台東県に居住する卑南族は、頭目制度と年齢による階層組織が混在した母系社会。男性は年齢階級によって組織されているそうで、上の写真の青少年集会所は年長者の教育訓練所の役目を負っている。左の写真はその内部。






賽夏族(サイシャット族)
西部の新竹県と苗栗県の境界地域を居住地とする民族で、台湾でも民族人口が少ないグループの一つ。2年に一度の伝統的な祭りが神秘的とか。下の写真は賽夏族の住居外観。建築材料として竹が重要な素材となっている。
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鄒族(ツォウ族)
阿里山山脈縦谷一帯を主な居住地としており、庫巴(グバ)と呼ばれる集会所を中心とした厳格な父系社会で、集落の重要な会議や祭事は全て集会所を中心として執り行われる。下の写真は狩猟で得た動物の骨を飾る獣骨架と呼ばれる小屋・・・・かな?
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邵族(サオ族)
文化村近くの日月潭湖畔に住む邵族は、台湾で最も少ない600人余りの人口数と言われる先住民族。かつては鄒族の支族とされていたが、2001年に独立した先住民族として認められている。

雅美族(ヤミ族)
台湾の東南部沖合にある蘭嶼島に住む海洋性民族。毎年の台風に対応した家屋の造りは、排水のある石積みの竪穴に沈めて建つという半地下住居。漁を基礎とした文化を持つ。

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by toshinac | 2015-12-11 17:27 | trip photos