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ヤズド/四半世紀前のイラン

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イスファハーンの南東約280㎞に位置するヤズドは、カヴィール沙漠の南東部がそのままルート沙漠へと続く接点にあるオアシス都市で、ゾロアスター教(善と悪の二元論を特徴とする世界最古の一神教)文化の中心地。歴史は古代メディア王国の時代(B.C.715年~B.C.550年頃)まで遡るとされており、B.C.6世紀にアケメネス朝ペルシャが成立した時点では、ゾロアスター教はペルシャ人の多くが信奉する宗教となり、3世紀のサーサーン朝では国教になっている。しかしウマイヤ朝(イスラム史上最初の世襲イスラム王朝:661年~750年)に入りイスラム化が進むと、統治が及びにくい辺境のヤズドには、近隣各地のゾロアスター教徒が逃れてきたため、住民の大多数をゾロアスター教徒が占めることとなり、ヤズドでのイスラム教の浸透には非常に長い年月を要したという。
イラン高原が発祥とされるカナート(地下用水路)はヤズドにも多く、灌漑や生活用水の他住居の中庭に緑をもたらし、地下に導いてバード・ギール(Wind catcher)からの風を冷やす冷却水としても用いられている。沙漠の厳しい環境下で培われた伝統的な住居が最もよく残っている町ヤズドは、群青色の空を背景に土壁一色の屋並みが独特の表情を見せてくれる。
上の写真はヤズド近郊で見たカナート。彼方のシール山麓から町まで導かれる地下水路の途上に、地表から掘られた工事用の穴が等間隔で続く。
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e0116578_1127742.jpg上の写真は、伝統的な住居の屋上から見たヤズド旧市街。彼方のシール・クーフ山脈を背景に2本のミナレットが際立つ金曜モスクと、ヤズドの景観を特徴づけるバード・ギールが林立する旧市街を見はるかす。



左の写真は金曜モスク(マスジデ・ジャーメ)。12世紀の創建で1324年から1365年にかけて再建されたものとされ、ミナレットの高さ52mを誇るモスクは、14世紀の優れたイラン建築の一つに数えられている。







下の写真は、旧市街の密集する住居の屋上から眺めたバード・ギールとクーチェと呼ばれる街路。

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上の写真は様々な形態を見せる街路。トンネル状の狭い通りはダラン、オープンな通路をクーチェと呼ぶというが、明確に判別ができない街路も多く見る。
下の写真は、ヤズドの伝統的な住居の中庭。街路から玄関ホール、そして暗い通路抜けた先に水と緑の中庭が展開する仕掛けに、沙漠の民が求めた究極の楽園を垣間見る。写真はターラールの屋上からの眺めたもので、左側のアーチ部分の奥に玄関への通路がある。
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沈黙の塔
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e0116578_11411341.jpg沈黙の塔とは、ヤズド中心部から南西方向8kmほどの岩山にあるゾロアスター教の鳥葬の場ダフメ(墓地)で、“沈黙の塔”は西洋人が付けた呼び名だそうである。
ゾロアスター教の根本経典の中に「死体は山の頂上に葬れ」とあるそうで、遺体を山野の定めた場所に置き、肉食の猛禽類に喰わせ、残った骨を穴などに葬るというこの葬制は、かつてはチベットやインドの一部でも行われていた。
イランでは1930年代に禁止され、いまではイスラム教と同じ土葬になっているという。
上の写真は、2基のダフメがある“沈黙の塔”全景。


左の写真は、岩山の周りにある葬祭の関連施設跡越しに見た左側のダフメ。


下の写真は登る人が多い右側のダフメで、周りには通夜の場などに用いられた施設跡が点在する。
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by toshinac | 2016-04-27 11:45 | trip photos

イスファハーン(3)/四半世紀前のイラン

アバシ(アッバースィー)ホテル
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ホテルのもとの姿は、サファヴィー朝最後の王、シャー・スルタン・フサイン(在位1694~1722)が母のために建てたとされるモスク兼用のマドラサ(神学校)に、キャラバンサライやバザールが併設された複合施設マーダル・イ・シャー(1706~1714)で、チャハルバーグ(四分庭園)の中庭が美しく、サファヴィー朝の最後を飾る建築の一つとされている。ホテルはかつてのキャラバンサライを改修増築したもので、現在ではイスファハーンの最高級ホテルの一つになっているらしい。
上の写真は中庭からの眺め。下はマーダル・イ・シャーの平面図(日本建築学会編:東洋建築史図集より)。
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ハージュ橋
イスファハーンの街中を流れるザーヤンデ川に架かる石と煉瓦の2層構造のアーチ橋で、15世紀後半に基盤を持つ古い橋の遺構の上に、シャー・アッパース2世によって、1650年~1655年頃構築されたものとされている。全長132mのハージュ橋の上部は人道橋で、両側が壁で仕切られたバルコニー状の回廊になっており、アーチが連続する外観はマドラサやキャラバンサライを想わせる。下部は橋脚の間に21の流水路が設けられ、そこに堰板を嵌め込んで上流側の水位を調整し、灌漑や首都の水路網に水を供給するためのダムの役目も果たしている。ハージュ橋は、人が渡る機能に憩いの場を取り入れた治水建造物である。 
下の写真は、橋の上流側(上)と下流側(下)。橋の両端と中央には、かつて王侯貴族の憩いの場でもあったという望楼が付く。
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吉田正春の「回探検疆ペルシャの旅」では、楼閣ある長橋としての記述がある。「橋の長さは百間乃至百四・五十間もあらん。その構造は磚石にて畳み揚げ、円形に勾配をつけ、幅の広さは十二・三間もあらん、中には一条の通路なれど、その左右は廻廊を置き、半月形の窓牖(そうゆう)を設け、その外辺には彫欄を繞らし、これを飾れる瓦は青磁の如きまた金襴焼きの如き種々の彩色を染め出し、所々の金色の剥げ残りたるなど、昔を忍ぶ潤沢は画も及ばじと思うばかりなり。」と、その壮麗さを記しているが、一方で、「然れども年経しままに修理も加えねば、所々に欠陥の傷多く、塵埃に埋まり、心なき人は羊を駈り驢を馳せその上を踏みならす有様、そぞろに旅客をして空しく懐古の念を逞しゅうせしむ。」と、荒れた状態を憂えている。1873年に橋の修理が行われたらしいが、吉田正春が訪れた年は1880年、僅か7年で荒れてしまうような時世だったということか。
下の写真左上は、馬や荷車用と歩道が分離された中央部分で、両側の壁の向こうが回廊になっている。
左下は回廊部分。下の写真右は流水路に設けられたテラス。人々が思い思いの時を過ごすことができる場所となっている。
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ヴァーンク教会
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e0116578_14211415.jpgザーヤンデ川の南にあるジョルファ地区は、シャー・アッパース1世が新首都の発展をめざして優れたアルメニア人の職人や商人を北方から移住させた地域で、宗教の自由とアルメニア人コミュニティが現在でも認められている特別な地区。
地区内には13のアルメニア正教会があり、ヴァーンク教会はその中の一つで1605年に創建されているが、現在の教会は1655年に再建されたものだそうである。

上の写真は、ドームや壁のアーチなどペルシャの伝統様式との融合を図っているが、ドームの頂には十字架が付き、聖堂内部(左の写真)には聖書に登場する場面の描写など具象的な表現も多く見られる。









路地
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e0116578_14262535.jpgイマーム・モスクの裏にあたる市街地で、ダラン・タリックと呼ばれる地区を訪れた。
ダランは「通り」で、タリックは「暗い」を意味するそうである。中庭を持つ住居の外壁と外壁の間が通りになっていることが一般的で、雰囲気は路地に近く、各住居への長いアプローチとも考えられる。
通りには、そのつくられ方によってそれぞれ呼び名があり、覆われた狭い通路をダラン、覆われた広い通路をゴザール、上がオープンの通路をクーチェと呼ぶそうである。

上の写真はダランと呼ばれる路地。
左側上の写真は路地(クーチェ?)で憩う老人と周りに集まった子供達。
左側下の写真は路地に面した小さなお店の婦人と子供。

下の写真はモスク裏の路地。クーチェと呼ぶのかは確かめていない。
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by toshinac | 2016-04-13 14:31 | trip photos

イスファハーン(2)/四半世紀前のイラン

金曜モスク(マスジェデ・ジャーメ)
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イランにおけるモスク建築の歴史を体現していると言われる金曜モスクは、8世紀後半に他のモスクの説教壇がこの地に移送されたのが始まりとされるイスファハーン最古のモスク。
最も初期の形態は定かではなく、長年に渡って増築・改築・修復を繰り返してきたため、建物のどの部分がいつの時代のものかという特定が難しい複雑な歴史を持っている。だがその主要部分と基本的構成は11世紀~12世紀に造られており、セルジュク朝時代の代表的な建築であるとともに、各時代の様式が見られる博物館的な建築と言われている。
上の写真は、中央に礼拝者が身を清めるための泉水が設けられた約60m×70mの中庭で、東南側イワーン(左)と南西側イワーン(右)を望む。南西側イワーンの両側に建つミナレットは、1475年の修築時に付加されたものとされている。下の写真は東南側イワーンと回廊詳細。
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上の写真左は、南西側回廊内部。中庭を囲む回廊は列柱とドーミカル・ヴォールト(ドーム状ヴォールト)が連続する空間。煉瓦造の円形柱を方眼状に配し、それらの頂部を尖塔アーチで繋ぎ、区画毎に多様な形式やデザインの煉瓦化粧積みのドーミカル・ヴォールトが架かる。
上の写真右は西北側イワーンのミフラーブ。イルハン朝の第8代君主オルジェイトゥ・ハン(在位1304~1316)による建立とされ、精緻な文様が漆喰で造られている。

バザール
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e0116578_16135996.jpg中東におけるバザールの中で最大規模をほこるイスファハーンのバザールは、旧市街中心部にある金曜モスクとイマーム広場を結ぶ全長2kmにもおよぶ歴史ある市場。
セルジュク朝の11世紀~12世紀頃には、金曜モスク周辺にバザールは存在しており、サファヴィー朝のアッパース1世による新市街の建設後に規模は拡張し、交差する通りや並行する通りにも店舗や商人の住宅が増え、隣接して遠隔地交易のためのキャラバンサライ(宿泊施設)や倉庫やハマーム(公衆浴場)などが設けられ、大バザールを含む旧市街が形成されてきた。
上の写真は、金曜モスクに近い古いバザール(左)と、イマーム広場に近い比較的新しいバザール。薄暗い通りに降りそそぐ天窓からの光はまるでスポットライト。幻想的だが埃っぽいのも事実。
左の写真は、バザールの屋根に近い開口部から覗いた通り。
下の写真は、バザールに隣接して設けられたキャラバンサライ。最大時には100を超えるキャラバンサライがあったという。
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チェヘル・ソトゥーン宮殿
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イマーム広場の西側一帯はサファヴィー朝の王宮で占められていた地域で、アッパース1世の時代には既に宮殿や庭園が造られていたが、このチェヘル・ソトゥーン(40本の柱)はアッパース2世によって1647年に建てられたもの。
建物の後半分に煉瓦造の広間と小部屋を対称形に配し、前面には木造の広いターラール(ポーチ)が設けられた平面構成。特徴的なターラールは、木製の水平天井を細くて高い木柱が支え、柱頭に施された装飾と、繊細な幾何学模様の彩色で覆われた天井が美しく、宗教的建築には見られない瀟洒な雰囲気がある。柱は実際には20本しかないが、池に映ずる柱を加えての40本が宮殿の名となっている。
上の写真は、池越しのチェヘル・ソトゥーン宮殿。砂漠の民であるペルシャ人にとって、水と緑は最高の贅沢でまさに楽園=パラダイス。ちなみに “パラダイス“の語源はペルシャ語だそうである。
下の写真は宮殿正面。中央の光ったところは鏡貼りのイワーンで、ムカルナス装飾は黄金色と鏡を鏤めた壮麗な美しさ。さらに下の写真は、ターラールの柱の柱頭飾りと天井装飾。
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by toshinac | 2016-03-27 16:24 | trip photos

イスファハーン(1)/四半世紀前のイラン

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カーシャーンから南に約200km、標高1600mほどの高原にあるイスファハーンは、町の南部を貫流するザーヤンデ川の水に恵まれ、古くからオアシス農業の中心地として発展した都市である。
ササン朝ペルシア時代(226~651農耕を主とし、ゾロアスター教を国教とするイラン人の建国 )には既に主要都市となっていたらしいが、その後のイスラム教徒支配下時代に於いては、長きに亘って停滞と隆盛を繰り返した歴史がある。サファヴィー朝(1051~1736)の時代になり再び商業・文化・宗教の中心都市として発展すると、第5代君主アッバース1世(1571~1629)によって首都に定められた1598年以降、都市計画に基づいた王の広場を始めとする多くの寺院や宮殿などが建設され、「イスファハーンは世界の半分」と例えられるほどの繁栄を極めた。18世紀に入りサファヴィー朝が衰退すると、イスファハーンはアフガン人によって破壊され、マシュハド(マシャド:イスラム教シーア派の聖地の一つで、テヘランの東850kmに位置するイラン第2の都市)に遷都されて宮廷が消えると、新市街は荒廃しその多くが耕作地に変貌し、飢饉の影響もあって衰退の一途をたどったという。カジャール朝(1796~1925)の19世紀末頃から復興が始まり、20世紀にパフラヴィ朝(1925~1979)のレザー・シャーによる都市の近代化政策で、イスファハーンは近代産業と観光によって復興し、1979年に新市街の王のモスクと広場周辺が世界遺産に登録され、イラン革命後の現在も観光都市として世界にその名を馳せている。
上の写真は、イスラム革命後、イマーム広場と呼ばれるようになった王の広場とイマーム・モスク(王のモスク)を見る。

イマーム・モスク
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イマーム広場の南端に位置するイマーム・モスク(1612~1638)は、アッパース1世の治世下で建てられた建築物の中の代表格。モスクの主軸をメッカの方向にめけるため、広場の南北軸から45度に振れて配置されているが、広場側イワーンと中庭北側イワーンの間に三角形の空間を設けることで、広場から導かれる人々に不自然さを感じさせない巧みな設計や、スクィンチ(正方形平面の部屋に円形ドームを架けるための四隅に架け渡たされた部材で、規模が大きくなると扇状のアーチ構造“スクィンチ・アーチ”となる場合が多い)によって架けられた高さ47mの二重殻のドーム構造、モスク全体を覆う花模様やアラベスク文様の彩釉タイル装飾など、サファヴィー朝の建築技術や芸術性の高さを象徴する建築である。

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上の写真は、イマーム広場の池越しに見たイマーム・モスク。

左の写真は、モスクの入口にあたる広場に面したイワーン詳細。
ムカルナス装飾の美しさに目を奪われる。










下の写真は、モスクの主礼拝室の天井見上げ。緻密な彩釉タイル装飾で埋め尽くされた高さ30mを超える巨大なドーム空間は、吸い込まれそうな不思議な感覚を覚える小宇宙。
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シェイフ・ロトゥフォッラー・モスク
イマーム広場の東側に建つシェイフ・ロトゥフォッラー・モスク(1601~1628)は、アッパース1世が説教師ロトゥフォッラーのために建てた王室専用の小モスク。ドームを頂く正方形の礼拝室は、イマーム・モスクと同様に広場に対して45度振れている。そのため広場入口から礼拝室に至る導線は幾度か折れ曲がるが、結果的に高揚感を高める効果をもたらしている。
イマーム・モスクに比べれば規模は小さいが、ペルシャ建築としては珍しいとされる黄色い彩釉タイルなどを取り入れた装飾は極めて美しく、サファヴィー朝建築の傑作の一つされている。
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上の写真2葉は、シェイフ・ロトゥフォッラー・モスクの正面を、広場を挟んで建つアリ・カプ宮殿のベランダから眺めたもの。王室専用ということもあり、モスクには礼拝を呼びかけるためのミナレットも教徒が集う中庭も無く、かつて宮殿とモスクは地下通路で繋がっていたと言われている。
下の写真は、メッカの方向を示すミフラーブ側を見た礼拝室内部で、ミフラーブの両脇はドームを支えるスクィンチ・アーチ。透かし彫装飾が施された小窓からの薄明かりで、ドーム天井の華麗な文様を幻想的に現出する。
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アリ・カプ宮殿
イマーム広場の西側に建つ「アリの門」を意味するアリ・カプ宮殿は、かつては背後にあった広大な宮殿の門の役目を果たしていたという。15世紀のティムール朝にはその原型はあったらしいが、アッパース1世によって迎賓館として整備拡張され、以降歴代の王族によって増改築がなされてきた建築である。イマーム広場が一望できる優雅なベランダと、アッパース2世によって構築されたとされる音楽の間が特徴的。
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上の写真は、イマーム広場北側に面するカイサリーヤ門(大バザールへの入口)近くの回廊の屋根上から眺めたアリ・カプ宮殿。18本の柱が立つベランダは、かつて王族や来賓が列席し、広場で執り行われたパレードや観閲式など、様々な式典に臨んだ場。東西約160m、南北約510mの広場と背後に広がる旧市街の大パノラマを目の当たりにすれば、王様ならずとも誰しも気分は高揚する。
訪れた当時は駐車する車ばかりが目についた広場だが、現在は見違えるほど整備され、車の乗り入れも制限されているようである。
下の写真は、宮殿最上階にある音楽の間の装飾。壁や天井に花や植物など具象的な絵が描かれたイスラム建築はまれで、ボトルや花器や楽器のような形の穴をあけ、反響音を吸収することで音楽を美しく響かせるという装飾もまた珍しい。
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by toshinac | 2016-03-13 10:08 | trip photos

ゴム/四半世紀前のイラン

テヘランから南に車で約135kmにあるゴム州の州都ゴムは(かつて日本では「コム」と表記されていた)、イスラム共和制のもとで革命を主導してきた宗教保守派の牙城と言われている宗教都市。十二イマーム派(歴史上12人のイマーム(指導者)が現れたシーア派諸族の中で、最も信者数が多いとされる最大派)の第8代イマーム・レザー(765~818)の妹ハズラテ・マアスーメがこの地で客死したことで廟が造られると、シーア派の巡礼地として発達。廟に付属して設けられたホウゼ(聖職者を養成する宗教学校)はこの地域の十二イマーム派における教学の核となり、サファヴィー朝になって十二イマーム派が国教化されると、その保護のもと隆盛を極めたゴムは、シーア派の人々にとっての聖地の一つとなっていく。
18世紀頃、イラクのナジャフ(バグダットの南約160kmに位置し、シーア派の初代イマームであるアリーの墓廟がある)が聖地として重要な巡礼地になると、ゴムは相対的に目立たない存在になっていったらしいが、イラクの社会情勢の変化に伴いナジャフが衰退。代わって1921年にゴムに創設されたホウゼ・ウルミーエ・ゴム学院の活動によって、ゴムは十二イマーム派教学の中心地として復活し、いまでは教学を学ぶ多くの留学生が訪れる国際宗教都市となっている。この学院で学び、教鞭を執ったイラン・イスラム共和国の最高指導者であるホメイニ師は、革命後の一時期、国政をゴムから司っていた。
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e0116578_143597.jpg上の写真はハズラテ・マアスーメ・モスク前の広場。左の写真はモスク入口から覗いた、聖域ハズラテ・マアスーメ・モスク。現在は観光客も入れるようだが、当時は異教徒の立ち入り厳禁。街の雰囲気は、写真を撮るのも憚れるほどの緊張感を感じた時代。下の写真はテヘランから通じる道路上から遠望したゴムの街。イスラエルとアメリカを糾弾する看板はどこでも目に付いた。更に下の写真は、ゴムからカシャーンに向かう途中の荒漠たる風景。
1880年(明治13年)、外務省理事官としてペルシャ(1935年イラン国名改称)に派遣された吉田正春(土佐藩の参政吉田東洋の長男1851~1921)の見聞記「回疆探検・波斯之旅」には、当時のゴムの様子が次のように記述されている。
「コムは砂漠に突出せる一山脈西端にして、その城市の高所は鉄漿色(お歯黒色のこと)の岩石に囲繞せられ、低所は赭色(赤土)の瓦屋参差(不揃いの瓦屋根が入り混じっている様)として、四、五千の人口あり。・・・・・市城の小なるに比し寺院は極めて宏壮にして、城の外垣は全くこの寺院を囲い込むために設けたる如き観あり。」
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by toshinac | 2016-02-04 14:12 | trip photos

テヘラン/四半世紀前のイラン

1990年の4月、日本建築学会アジア建築交流委員会による、ペルシャ建築・集落・都市視察団に加わり、イラン中央部の北から南に点在する歴史的な都市や集落を訪れた。世界を驚かせたイスラム革命(1979年2月)後に起こった、イラン・イラク戦争(1980~1988)が終結して間もない時期であっただけに、テヘランでは戦後の復興はまだこれからといった状態であった。市街の至るところで中断した工事現場が目に付き、イスラエルやアメリカを糾弾するプロパガンダ目立ち、イスラム革命防衛隊なる組織(軍隊)の監視の目を気にしながらの旅だったことを思い出す。おそらく現在のイランとは隔世の感があるとは感じているが、基本的なところでは四半世紀前の姿と大きくは変わってないのではと思い、フィルム写真をパソコンに取り込みながら、異文化の建築に触れた時の感動を想い起している。
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イラン(イラン・イスラム共和国)の首都テヘランは、イラン中北部に位置し、アルボルズ山脈(エルブルズ山脈)の南麓、標高約1200mの扇状地上築かれた都市。サファヴィー朝(1501~1736)の初めに周囲8kmほどの市壁が巡らされた都市が築かれたが、この時代は軍の駐屯地にすぎず、本格的な町の発展は、1786年カージャール朝(1796~1925)がここに首都を移してからのこと。人口の増加に伴い市街地が拡張され、1871年頃には周囲18㎞の新たな市壁が巡らされた都市になったようだが、その後は産業や社会構造に特段の変化も無く、中世的なイスラム都市に留まっていたという。クーデターによってパフラヴィ朝(1925~1979)を開いたレザー・シャー・パフラヴィは、イランの近代化政策を急速に推し進め、1934年テヘランの都市改造にも着手。第2次大戦後には100万都市の仲間入りを果たすが、あまりにも急速な近代化は“脱イスラム化”を国民に強要するかたちとなり、結果強い反発が生じて王政打倒運動へと発展し、1979年ついに国王の国外退去で王朝は終焉。

e0116578_1045484.jpg入れ替わりに国外に追放されていた宗教指導者ホメイニ師が15年ぶりに帰国し、イスラム共和国の設立を宣言する。その間にも首都テヘランの人口は増加を続け、やがて都市化現象がおおきな社会問題となってくる。

上の写真は、アルボルズ山脈(エルブルズ山脈)の南麓に広がるテヘラン新市街を望む。当時は山の頂まではっきり見渡せるほど空気は澄み渡っていたが、近年のテヘランの大気汚染は深刻。昨年の12月にはPM2.5の指数が大幅に増加し、3日連続で市内の学校の休校と、住民に屋内退避を勧告するほどの事態になっている。

左の写真は、宿泊したホテルから見た北東方向(上)と東南方向(下)の市街。現在はかなりの数の高層ビルが建っているようである。
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上の写真は、中心街にあるマスジェデ・モタハリ(旧セパサラール・モスク)。カージャール朝時代の1830年に建てられたもので、6本のミナレットとモザイクタイルが美しい。
下の写真は、市域南東部のバザールに程近い下町の通り。朝の穏やかな陽の中で、登校のバスを待つのかチャドルを纏った親娘?の姿が微笑ましい。
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by toshinac | 2016-01-22 11:02 | trip photos

九族文化村

台湾中部の景勝地“日月潭”近くの広大な敷地に展開する九族文化村は、台湾先住民9種族の、百年余り前の伝統家屋や集落を再現し、生活用具の展示や伝統的な習俗なども公開される観光名所。1986年の設立当初は、台湾における先住民は9民族が認定されていたため「九族」となっているが、現在(2014年)では16民族が先住民族として認定されている。

排湾族(パイワン族)
台湾南部の中央山脈や東南沿海地域を主な居住地としており、木彫や石彫に高い技術を持つ民族で、頭目、貴族、戦士、平民という4階級の階層制度の社会組織を成していたそうである。ただ両性の権利は平等で、男女の別は無く、長子であれば家を継ぐことができたという。下の写真2葉は排湾族の頭目住居内外。一枚石の天然スレート壁におどろき!
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上の写真は排湾族の集会所内外。居住地域によっては木や竹を材料とした家屋も多く見られる。

泰雅族(タイヤル族)
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e0116578_10504974.jpg居住地域は北部から中部にかけての山岳地帯。
祖先から伝わる禁忌と信仰の制度を持つとされ、男子は戦いに強く、女子は織物が上手であることを示すため、かつては成人式で顔に入れ墨を入れる習慣があったという。
上の写真は泰雅族住居の内外。丸太を重ねた壁が山の民を想わせる。

左の写真は見張り小屋の瞭望台。












魯凱族(ルカイ族)
主に台湾南部の高雄県、台東県、 屏東県、の中央山脈山地に居住し、排湾族に似た階層制度を有する父系社会で、独自の言語を持っていた。下の写真は魯凱族の貴族住居で、排湾族の住居に類似する。さらに下の写真は魯凱族の集会所内部。
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上の写真は魯凱族頭目住居の外部と内部。

布農族(ブヌン族)
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台湾中南部の山地、海抜1500m以上の高地に住む典型的な高山民族で、社会組織は長老制度による父系氏族の大家族社会で、各家族の長老達が集まって村の政策決定を行ってきたという。民族意識が強く、固有の言語を保っている数少ない先住民族。上の写真は石造りの住居。下の写真は、石や木や竹を併用した住居の内外。
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阿美族(アミ族)
先住民族の中で最も人口が多い阿美族は、そのほとんどが台湾東部の縦谷と海岸地域に暮らし、母系の氏族制と相続制度を持つとされ、歌と舞踊の豊かさで知られている。下の写真は阿美族の住居内外。
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卑南族(ブユマ族)
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e0116578_1313117.jpg主に台東県に居住する卑南族は、頭目制度と年齢による階層組織が混在した母系社会。男性は年齢階級によって組織されているそうで、上の写真の青少年集会所は年長者の教育訓練所の役目を負っている。左の写真はその内部。






賽夏族(サイシャット族)
西部の新竹県と苗栗県の境界地域を居住地とする民族で、台湾でも民族人口が少ないグループの一つ。2年に一度の伝統的な祭りが神秘的とか。下の写真は賽夏族の住居外観。建築材料として竹が重要な素材となっている。
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鄒族(ツォウ族)
阿里山山脈縦谷一帯を主な居住地としており、庫巴(グバ)と呼ばれる集会所を中心とした厳格な父系社会で、集落の重要な会議や祭事は全て集会所を中心として執り行われる。下の写真は狩猟で得た動物の骨を飾る獣骨架と呼ばれる小屋・・・・かな?
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邵族(サオ族)
文化村近くの日月潭湖畔に住む邵族は、台湾で最も少ない600人余りの人口数と言われる先住民族。かつては鄒族の支族とされていたが、2001年に独立した先住民族として認められている。

雅美族(ヤミ族)
台湾の東南部沖合にある蘭嶼島に住む海洋性民族。毎年の台風に対応した家屋の造りは、排水のある石積みの竪穴に沈めて建つという半地下住居。漁を基礎とした文化を持つ。

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by toshinac | 2015-12-11 17:27 | trip photos

山岳寺院都市シャトルンジャヤ

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ジャイナ教最大の巡礼地であるシャトルンジャヤ山は、アーメダバードから南に約210kmに位置するパーリターナの町が登り口。標高600m程の二つの峰とその谷部に、900を超える堂塔が建ち並び、寺院の他は何もないという天空の“寺院都市”である。ヒンドゥー教寺院とよく似たジャイナ教寺院は、チャトルムカと呼ばれる四面に開かれた“四面堂”から、四方に展開するという空間力学が基本にあり、ジャイナ教の聖地と呼ばれる場所では、山間に何世紀にも亘って寺院が繰り返し造られ、山や谷が持つ場の力を、寺院建築を密集することで際立たせている。
上の写真は北の峰上に至る階段から、谷部のモティシャー寺院群越しに南の峰上に建つヴィマラヴァシー寺院群を望む。
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e0116578_15483322.jpg上の写真は片道2時間3500段の登山道。階段の一部が帯状に白く塗られているのは、素足の参拝者を想い、少しでも石の熱さを和らげるためと聞く。僧侶を含めて誰一人として滞在は許されないことから、人々は夜明けとともに登り日没前には下山するという。


左の写真は、南の峰上の寺院群内部の参拝路。
白衣を纏った敬虔なジャイナ教信者の参拝が目立つ。






下の写真は、南峰上のヴィマラヴァシー寺院に見る華麗な壁面彫刻。
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下の写真は、北の峰上のカラタラヴァシー寺院群。さらに下の写真は北の峰上の寺院の一部。
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by toshinac | 2015-11-11 15:59 | trip photos

アーメダバード

インド大陸の最も西に位置するグジャラート州の最大の都市アーメダバード(アフマダバード)は、この地域のスルタンであったアフマド・シャー1世によって1411年に建設され、その後イスラムの都市として発展する。16世紀中頃ムガル朝の支配下となるが、宝飾や絨毯などの手工業が盛り交易で繁栄、イギリスの植民地(1818年)下では綿織物工業が発展し、19世紀後半にはインドのマンチェスターと比喩されるほどだったという。また、インド独立の父と言われるマハトマ・ガンディーの、反英独立運動の拠点が置かれた街としても広く知られるところ。建築においても地域の伝統建築とイスラム建築が融合した建物が多く残され、独立後にはル・コルビュジエやルイス・カーンなどによる、モダンデザインの建築も多く建てられているということもあり、建築好きには一度は訪れてみたい魅力的な都市である。
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上の写真は、アフマド・シャーによって建設されたバドラ城域の東側の門“ティン・ダルワーザ”(1415)。新都市の中心として構築され、そこから東に向かう大通り“マニク・チョウク”を造り、通りの南側にジャーミー・マスジド(金曜モスク)、アフマド・シャー自身と王妃の墓廟を、西に向かう軸線上に並べて新都市の核としたとされている。
下の写真はジャーミー・マスジド(1424)礼拝室の中庭側正面で、イスラムのアーチの中に、西インドの伝統建築様式の柱・梁架構を見る。中央アーチの両サイドを飾るシャフトは、上部が失われたかつてのミナレット。さらに下の写真は、柱が林立する礼拝室内部。15のドームを支える柱は総数260本。
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階段井戸
大地の地下深くまで掘られた井戸の底に向かって、トレンチ状の深い溝を掘削し、長い階段を設けて地下水位まで降りる階段井戸は、地下建築としての形式と宗教的な意味を併せもつ聖なる場所であり、涼を求める市民が集う場所でもある。
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e0116578_16175550.jpg上の写真は、アーメダバードの北郊約20kmにあるアダーラジーの階段井戸(1502)。
階段井戸の殆んどは一直線状の平面形だが、ここは東・南・西の三方から階段が降りて踊り場で合流し、さらに北に向う階段で地底に至るという十字型の平面形。
土圧を支える柱・梁の架構が生み出す立体格子が、精緻な彫刻と相まって光と影の幻想空間を演出する。

左の写真は、井戸のシャフト手前にある光を取込む吹き抜けホールで、底は階段状の水槽を設けた沐浴の場であったが、現在は水槽の上に金網が張られている。




下の写真は、アダーラジー階段井戸の地上部。
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下の写真は、アーマダバード市内にあるダーダ・ハリールの階段井戸(1499)で、人々を地下に導く階段通路とホールの見上げ。
その下の写真は地上部。アダーラジー、ターダ・ハリールのどちらも、ヒンドゥの階段井戸を手本にイスラム政権下で造られた階段井戸である。
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繊維業会館
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アーメダバードにあるコルビュジエ作品の一つで、アーメダバードの代表的産業であった繊維業界の会館(1956)である。旧市街の西を流れるサバルマティー川の対岸に建てられた会館は、南北面には開口部を設けず、川に面する東側と西側のみ開放し、奥行のあるブリーズ・ソレイユを設けて日差しを弱め、諸室は半ば外部ともいうべき空間の中に独立することで、建物全体の通風を図るというインドの気候条件を考慮した設計となっている。
上の写真は大通りに面した西側。角度の付いたブリーズ・ソレイユが創りだす陰影と、長い入口スロープが印象的。下の写真は吹放ちで開放感のある入口ホール。ブリーズ・ソレイユの足元に細い排水溝が設けられているが、モンスーンの時期にはホールの床が水浸しになることもあると聞く。
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by toshinac | 2015-10-24 16:37 | trip photos

ジャイサルメール

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ジョードプルの西300km弱に位置するジャイサルメールは、1156年にバッティ・ラージプート(ラージプートの一氏族)のラワル・ジャイサル王によって築かれた城郭都市で、広大なタール砂漠(世界で8番目の広さ)の真ん中にあるかつての隊商(キャラバン)の中継地。以前は全て城壁に囲まれていたという旧市街の中には、城門をはじめ、交易により財を成した貴族や豪商のハヴェリー(邸宅)が建ちならび、往年のジャイサルメールを彷彿させる風景が広がり、南東側の三角形の台地上(トリクタの丘)には、更に堅固な城壁を回らした王宮が聳える(写真上:Google Earth)。 数世紀前までは東西交易路の拠点として栄えてきたが、英領時代になり、海洋貿易の発展に伴って隊商の交易路は衰退し、ジャイサルメールの栄華も衰え、さらにインド・パキスタンの分離独立(1947)によりルートは分断され、砂漠の中に取り残された辺境の町となる。
下の写真は、町の東側にあるジャイサルメール駅近くから見る城砦。町を見下ろす台地上に築かれた城砦は、砂漠の彼方からも視界に入るジャイサルメールのランドマーク。
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e0116578_11274173.jpg上の写真は城下町(旧市街)から仰ぎ見る城砦。高さの異なる二重の半円形稜堡が連続した城壁は印象的。とくに日没時には、黄土色砂岩で築かれた砦や街が金色に染まることからゴールデンシティの愛称をもつ。




左の写真は、城砦への入口となる城門の一つスーリヤ門。


下の写真は、城砦内の王宮広場に面する19世紀の宮殿“ラージ・マハル”の見上げ。
現在では宮殿博物館・ヘリテージセンターとして一般に開放されている。連続するアーチ状の庇と精緻な透かし彫りや彫刻で装飾された黄土色の外観は、強烈な太陽の光のもとでより一層の輝きを増す。

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上の写真4点は、人々の日常が垣間見える城砦内の風景。上の左右は、迷路のように入り組んだ路地を散策。左下は安宿前の空地で遊ぶ子供達。右下は、観光客目当ての物売りが集うジャイナ教寺院前。
下の写真は、旧市街にあるハヴェリーの中で最大で、最も美しいとされるパトウォンのハヴェリー(1885)。道路に面したファサード全面が、ラージプートの伝統的な意匠ともいえるジャロカーと呼ばれる装飾的な石造の出窓で構成され、その開口部のほとんどに、視線や陽射しを遮って風を通すジャーリ(石の格子細工)が嵌め込まれている。
さらに下の写真は、パトウォンのハヴェリー屋上から眺めた旧市街の民家。
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上の写真は、砂漠の都市ジャイサルメールの、かつて生活用水の供給源となっていたガディサル・タンク(人造湖)に建つパビリオン。トップのGoogle Earth写真に見る、旧市街外側の南に映る貯水池がそれである。下の写真は、ジャイサルメールから西ヘ40km、パキスタンとの国境までは60kmあまりのサム砂丘のサンセット。
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by toshinac | 2015-10-13 11:50 | trip photos