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カテゴリ:trip photos( 141 )

チットールガル城砦

中世に北西インドを席巻したイスラム軍に対し、頑なに抵抗したメーワール王国(ラージプート族の一氏族)の都であったチットールガルは、ジャイプルの南西250km程に位置する城塞都市。切り立つ崖に囲まれた細長い丘上には、複数の宮殿や寺院等が築かれ栄華を誇っていたが、14世紀以降3度に亘るイスラム軍の猛攻に遭い、1567年ついに陥落、都城は放棄された。ここは勇猛果敢に戦ったラージプート族の激戦の記憶をいまに留める城砦である。
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上の写真は、15世紀の王ラーナ・クンバが戦勝を記念して建てた9層、高さ37.19mの勝利の塔( ヴィジャイ・スタンバ:1448 )。
塔の内外全面にヒンドゥ教の神像が配され、中央の螺旋階段とその外側を廻る階段を交互に上り下りするという、二重螺旋とも違う不思議な構成の階段を持つインドでも珍しい塔建築である。
下の写真は、砦の西側中央付近からヒンドゥのカーリカー・マータ寺院( 8世紀頃の創建で1568年に再建されたものだそうである )越しに南を望む。さらに下の写真は、ヒンドゥ寺院に付属するナンディー堂(シヴァ神に仕える雄牛ナンディーを祀った祠堂)。
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下の写真は、砦の南にある遺構パドミニ宮殿の貯水池の中に建つ館。
平地から150mを超える高い丘上にある城砦だが、モンスーンの時期には大量の雨が降る地域ということもあり貯水池が非常に多く、その数はなんと84ヶ所に及ぶ。貴重な生活用水が確保される城砦内には、多い時で35000人もの人が住んでいたという。
北インドを支配していたハルジ―朝の第3代スルタン、アラー・ウッディーン・ハルジ (1296?~1316)は、1303年には西インドのヒンドゥ諸国を平定しているが、伝説では、ときのメーワール国王ラタン・シンの妻パドミニ王女への横恋慕が、チットールガル攻撃の原因という説がある。
1302年スルタン軍に攻め込まれ城砦が陥落すると、美しい王女パドミニ( インドの観光キャッチ・フレーズでは、ラージャスターン州のクレオパトラと言われている )と宮殿の女達は火中に身を投げ、自ら死を選んだという悲しい物語の舞台。
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by toshinac | 2015-08-29 10:18 | trip photos

チャンド・バオリ

チャンド・バオリ(9世紀)は、ラージャスターン州の州都ジャイプルから東に90km程に位置する町バンディクイの、南6kmにある小さな村アーバーネリーにある階段池(クンダ)。寺院の貯水槽という意味を持つクンダは、渇水期の水を確保する為の施設というだけでなく、水への信仰を持つインド文化の伝統が創りだす聖なる場所でもある。特に乾燥した西インド地方に多く見られ、その起源は紀元前の古代インドにおけるバラモン教の水神信仰に求めることができるという。
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e0116578_805126.jpg上と左の写真は、地下7層に及ぶクンダの、階段で構成された三方に対峙するもう一方の複数層にわたって配された部屋。
上層部のアーチを持つ部屋はムガル朝のものだが、下層の祠に見る装飾はヒンドゥのものである。










下の写真は最上階のホールでクンダ最上部に抜ける。
さらに下の写真はクンダ最上階を巡る回廊よりクンダを見る。
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下の写真はアーバーネリー村の衛星写真(Google Earth)。集落西側に約35m四方のクンダとそれを取巻く回廊屋根からなるチャンド・バオリを見る。その西側に見る矩形は、クンダとの関係があった9世紀のハルシャ・マーター寺院跡。
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by toshinac | 2015-08-20 08:07 | trip photos

アンベール城

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アンベール城は、ジャイプルに遷都(1727年)される以前の、アンベール王国(ラージプート族のカチワーハ家の王国)の首都に築かれた城郭建築で、ジャイプルの北東11kmの山間にある。11世紀頃この地を支配するようになったカチワーハ家により拡張され始め、16世紀初頭から城郭としての大規模な建設が始まり、その後歴代の王による増改築なされ、17世紀のジャイ・シング1世の時代にほぼ現在の姿になったようである。ムガル帝国との同盟関係という背景もあり、宮殿はイスラムとラージプートの伝統様式で造られており、随所に施された精緻な装飾が華やかな王宮の生活を偲ばせる。かつてマハーラージャに限られていた象に乗っての入城が、いまでは観光客が象の背で、ゆらりゆらりとマハーラージャ気分。
上の写真は、ジャイプルに続く道アマー・ロードから、城の水の供給源であるマオタ湖(人造湖)越しに望むアンベール城。
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e0116578_9403788.jpg上の写真2葉の上は、宮殿入口のガネーシャ門がある宮殿前広場。右にガネーシャ門、左に公謁殿(ディワーニ・アーム)。上の下は公謁殿から眺めたガネーシャ門。華やかに彩られたイワーン奥の入口アーチの上部には、ヒンドゥーのガネーシャ神が描かれている。

左の写真上は、宮殿上階から眺めた山上のジャイガール城塞(11世紀)と長大な城壁。アンベール城が築かれるまでは、ジャイガール城塞がマハーラージャの居城であった。左の写真下はアンベール城の麓に展開するアメールの町。

下の写真は、ジャイ・シング1世によって1639年に建設されたマハーラージャの私邸(内殿)ジャイ・マンディル殿(勝利の間)と、ムガル様式の中庭アルマ・バーグ(歓喜の庭園)を見る。
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by toshinac | 2015-08-06 09:44 | trip photos

ジャイプル

デリーの南西約230kmに位置するラージャスターン州の州都ジャイプルは、ムガル帝国のマハーラージャ(地方領主)であったサワイ・ジャン・シング2世(在位1699~1743)によって築かれた計画都市。アウラングゼーブ帝(ムガル朝第6代皇帝)没後の帝国混乱を機に独立性を高め、これまでの居城であったアンベール城から、11km南西のこの地に都城を築いて遷都(1727年)し、自らの名をとってジャイプル(城壁に囲まれたジャイの町)と名づけた。周囲に城壁を廻らし、中央に王宮を置き、碁盤目状の街路で整然と区画割された街が現在のジャイプル旧市街である。旧市街の街路に面する建物が、城壁の赤砂岩の色に合わせてすべて淡紅色に塗られているため、別名ピンク・シティとも呼ばれている。いまでは城壁南西側に新市街が形成され、2006年に開かれた空路も、今年中には滑走路が延長され、大型機の発着も可能になるなど、インド最大州の州都として発展をみせている。下の写真は、淡紅色の建物が連なる旧市街。
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ハワ・マハル(風の宮殿)
ジャイプル観光の目玉の一つでもあるハワ・マハルは、ジャイプルの5代目マハーラージャであったサワイ・プラタプ・シンによって、1799年に建設された赤砂岩で彩られた後宮。大通りに面したファサードは、石の透かし彫りスクリーンの付いた張出し窓を全面に配した堂々たる構成だが、奥行が極めて浅く厚みのない特異な建築形態である。イスラムの習慣上、通りを歩くこともままならぬ宮廷の子女達が、外から姿を見られず通りを眺めるための、目隠し付きの涼み台のような場所で、宮殿とは細い通路で結ばれている。
下の写真は、通りをはさんで見るハワ・マハルの華麗なファサードと、建物の薄さが解る斜からの眺め。
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ジャンタル・マンタル(天文観側施設)
天文学にも造脂が深かったサワイ・ジャン・シング2世は、インド各地に天文観測施設を造ったが、その集大成がジャイプルの宮廷地区の一画にあるジャンタル・マンタルである。中世イスラム世界有数の天文台とされるサマルカンドのウルグ・ベグ天文台が原型とされ、日時計をはじめ、太陽や月の高度と角度や、惑星の位置や星座などを観測するための装置が、レンガやコンクリートなどで構築されている。その造形は一見すると現代的な野外彫刻展を想わせる。
下の写真左側上下は、高さ27mの巨大な日時計サムラート・ヤントラ。
右上は、12星座を見る観測装置ラーシ・ヴァラヤ・ヤントラの中の一つ。
右下は太陽や月の高度・角度などを観測する装置ラーム・ヤントラ。
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シティ・パレス
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サワイ・ジャン・シング2世がアンベール城から移り住んだ宮殿(1733年)は、別名チャンドラ・マハル(月の宮殿)とも呼ばれ旧市街の中心にある。大小の中庭を持つ建物群の連続で構成される宮殿には、現在もマハーラージャの子孫が住んでおり、その住居以外は宮殿博物館として一般に公開されている。
上の写真は、白大理石で造られた7階建宮殿の中庭側からの見上げ。
下の写真は宮殿の回廊から中庭を見る。
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ジャル・マハル(水の宮殿)
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旧市街から北東5kmほどにあるマン・サガール湖 (ジャル・マハル湖) の中央に建つジャル・マハル宮殿は、明確な建設時期は解っていないが、当初はマハーラージャの狩猟用の館という説があり、後にサワイ・ジャン・シング2世によって改修され、涼をもとめる夏の離宮として使用されてきた。雨季と乾季では湖の水位が極端に変化することもあり、最も水位が上がったときには、5階建ての宮殿の最上階のみ水面上に見ることもあるという。ジャイプルから、アンベール城に向かう道程で必ず目にする宮殿だが、残念ながら一般公開はされていない。上の写真は、3階まで水位があがった状態のジャル・マハル。

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by toshinac | 2015-07-24 13:12 | trip photos

ファテープル・シークリー

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アーグラの西約40kmにあるファテープル・シークリーは、ムガル朝の第3代皇帝アクバルが、王子(ジャハーンギール)の誕生を機に造らせた新しい都で、周長11kmにも及ぶ市壁を持つかなり大きな都市である。城は中心部の台地上に築かれ、居城となる宮廷地区と、祈りの場であるモスク地区に分けて建設された。赤砂岩の基盤上に建つ石造の建物配置は、かつて半遊牧生活を送っていたムガル人の伝統的な住まいである天幕の配置を参考にしたものと言われている。1574年にアーグラから遷都したものの水利が悪く、僅か14年で再び遷都することになるのだが、表舞台から外れたことが幸いしてその後の戦乱を免れ、主要な建物が往時の姿をいまに留める都市遺跡となっている。(上の写真はGoogle Earth)

宮廷地区
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e0116578_9264353.jpg上の写真は、宮廷地区にある皇帝の私的な謁見のための一室空間からなる建物“ディワーニー・カース”(内謁殿)。左の写真はその内部。
対角状に架けられたブリッジを支える特異な形状の柱頭上に皇帝アクバルが座し、謁見を賜る者を眼下に見るという、絶対的な権力を誇示する一方で、宮廷内の建築にはインドの伝統様式を取り入れ、アーチやドームといったイスラム特有の建築要素を使わず、ヒンドゥー文化との融合を積極的に図っている。






下の写真は、アクバル帝の母ミリアムマカニ(ハミーダ・バーヌベグム)の住まいとされるミリアムの館。
小さくシンプルな建築だが、かつては華麗な壁画で彩られていたという。
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モスク地区
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e0116578_9421514.jpg上の写真は、モスク地区のジャーミ・マスジット(金曜モスク:1571)にあるサリーム・チシュティー廟の内外。巨大モスクの周廊に囲まれた中庭北側の中央に建てられた、聖者サリーム・チシュティーの廟である。深い軒を支える白大理石の装飾的な柱とうねった方杖、それに緻密で美しい石の格子スクリーンなど、赤砂岩一色のなかで際立つ白大理石で構築された廟は、王子誕生を予言したサリーム・チシュティーに対するアクバル帝の信頼の深さを物語る。

左の写真は、メッカの方向である西側の礼拝堂に正対するバードシャーヒ門(Badshahi Darwaza)で、キングス・ゲートとかロイヤル・ゲートの呼び名もある。赤砂岩に埋め込まれた自然石の帯状のモザイクが門を彩る。

下の写真はサリーム・チシュティー廟の右に隣接するイスラム・ハーン廟。建物の屋上に整列するチャトリ(サンスクリット語で傘を意味し、4本の柱の上に屋根が乗っただけの東屋的建物。)が微笑ましい。
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by toshinac | 2015-07-03 09:46 | trip photos

タージ・マハル廟

アーグラ城から2kmほど下ったヤムナー川沿いに建つ、ムガル朝絶頂期の建築であるタージ・マハル廟(1654)は、建物全体を白大理石で覆い、随所に精巧な象嵌細工を施した巨大な宝石を想わせる建築で、世界一美しい墓廟とも称されている。第5代皇帝シャー・ジャハーンが、愛妃ムムターズの死を悼み永遠の記念として建てられた話が通説だが、建物の壁や天井に刻まれた文字の正確な解読ができたとされる近年の研究によると、ムガル皇帝の権勢と“インド宇宙”との遭遇を凝縮した形で示したものという新説もある。
何れにしても22年の歳月と莫大な費用をかけて建てられた白亜の廟は壮大にして優美。
廟がチャハルバーグ(四分庭園)の中心にあるデリーのフマユーン廟とは違い、庭園の北端に廟を建てて楼門からの距離をとることで視覚的効果を高め、泉水にその姿を映してさらなる美しさを演出。
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e0116578_8344277.jpg上の写真は庭園中央から見る廟正面。方95m高さ7mの基壇上の四隅には、高さ49mの円形断面のミナレットが建ち、基壇中央の玄室上部に、高さ65mのドームを戴く隅切方形平面の建物が建つ。デリーのフマユーン廟と同じく、中央八角形の墓室には模棺(セノタフ)が置かれている。

左の写真は、16分割庭園の中央にある泉水に姿を映すタージ・マハル廟。


下の写真は赤砂岩で造られた廟への入口となる高さ30mの大楼門。大小のイワーン(ペルシャが起源とされるイスラム建築要素の一つで、ファサードにアーチ状の開口を造り、三方は壁で天井は開口と同じ形状のアーチ型を持つ半屋外空間)で構成された楼門の入口アーチが、遥か300m先の廟のアーチに重なる。
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by toshinac | 2015-06-24 08:41 | trip photos

アーグラ城

e0116578_1661768.jpgデリーの南およそ200km、ガンジス川最大の支流ヤムナー川沿いに築かれた古都アーグラは、ムガル朝の首都としての繁栄するのは第3代皇帝アクバルの時代から。その礎となるアーグラ城は、アクバル帝が1565年から8年かけて築いた壮大な城郭である。城壁・城門が全て赤砂岩で造られていることから、デリー城と同じようにラール・キラー(ヒンディ語で赤い城)と呼ばれることもある。
アクバル帝後も2代に亘って皇帝の居城となり、ヒンドゥとイスラムが融合したムガル朝の宮殿建築が築造されたが、1648年、6代目のアウラングゼーブ帝がデリーに都を移したことで城郭としての発展も収束する。


左の写真は、城塞南のアマル・シング門から続く城内へのアプローチ。高い両壁が音を反響し敵の侵入を知らしめるとか。




下の写真は、アクバル帝が嫡子の名を冠したジャハーンギール宮殿の外観。赤砂岩の壁に白大理石の象嵌模様が映える。その下の写真は、柱梁構造がよく解る宮殿中庭。観光客とおもわれる女性達の色鮮やかなサリーが赤砂岩一色の空間に彩りを添える。
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上の写真は、アングリー庭園越しに見る5代目のシャー・ジャハーン帝の白大理石の寝殿(ハース・マハル)。左に八角形の塔(ムサンマン・ブルジュ:囚われの塔)を頂く居室がある。
下の写真は、床に噴水を設えるなど贅を尽くしたシャー・ジャハーン帝の居室。息子のアウラングゼーブ帝に王位を追われた後、晩年の7年間ここに幽閉され、およそ2km先の川沿いに建つ、愛妃ムムターズが眠るタージ・マハル廟を眺めながら過ごしたと言われている。
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by toshinac | 2015-06-14 16:19 | trip photos

チャンディーガル

デリーの北、約240kmに位置するチャンディーガルは、ル・コルビュジエの都市計画が実現した都市として知られるパンジャーブ州の州都。インドとパキスタンの分離独立(1947)後、インド側のパンジャーブ州に新州都の建設が決定され、インド政府の依頼を受けたコルビュジエが、CIAM(近代建築国際会議)の都市計画の原則に沿った形で設計し、工事は1952年から始まった。
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e0116578_14445221.jpgコルビュジエのゾーニングは、公共建築を集めたキャピタル区域のもと、商業区域、教育区域、住宅区域など、セクターと呼ばれる多くの区域が碁盤目状に区画され、緑地公園が都市の中央を貫き、広い道路とセクター内のゆとりある施設配置など、“輝く都市”の理念を求めたもの。インドの伝統的な都市とは異なる解放的で緑豊かな都市である。

上の写真はキャピタル区域で最初に完成(1955)した高等裁判所。正面の赤・黄・緑に塗られた巨大なコンクリート壁柱が特徴的。強い陽射しと豪雨に対処するための巨大な傘のような大屋根は、スパン毎に設けられたジャイアント・オーダーに支えられ、裁判所本体にあたる部分の外壁は深いブリーズ・ソレイユ(日除け)で覆われる。

左の写真は背面側。




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上の写真は、長さが254mという巨大建築の州庁舎(1958)の東南面。打ち放しコンクリートとブリーズ・ソレイユ、屋上庭園とそこに造られた施設のユニークな形態など、ユニテ・ダビタシオンで実施済みの建築要素を随所に見る。下の写真は州庁舎北西面の巨大なスロープの内外。
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e0116578_14545859.jpg上の写真は州庁舎屋上から見た議事堂(1964)。クーリング・タワーにヒントを得たとされる議事堂の形態は、ジャイプールの天文台など、インドの伝統的建築の形態を引用した建築で、チャンディーガルで手掛けた建築では最も地域性を考慮した建築言語が用いられているという。双曲線型の塔は議場の採光・換気・音響機能の役目も果たしている。
左の写真は、コルビュジエの描いた象徴的なモチーフをモニュメントとした“開いた手”の記念碑。調和の象徴としてチャンディーガル計画の当初から設置を考えていたが、実際は没後21年の1986年に完成。風を受けてゆらゆらと動く。

下の写真は、チャンディーガル美術館(1968)。キャピタル区域外の第10セクターに建つ美術館は、上野の西洋美術館やアーメダバードのサンスカル・ケンドラ美術館と同様の、「無限に成長する美術館」の構想に基づいた設計となっている。
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by toshinac | 2015-06-03 15:05 | trip photos

インドの建築散見/デリー

インダス文明(BC.2500年頃)に遡る長い歴史の中で、この地域固有の建築形態が生まれた背景には、厳しい風土に適応するための、先住民族の長きに亘る工夫の積み重ねと、根底にあるインド文明独特の神話や宇宙観が建築に表現されることも起因する。
一方で、古来よりさまざまな民族がこの地に去来し、都城を築き、侵入者たちの伝統的な建築技術や建築様式を用いて生まれた外来の居住環境がある。それら両者が時代や地域で複雑に混在し、エキゾチシズム溢れる魅惑的な都市と建築を造りだし、広大なインド大陸に展開する。
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首都デリーは、12世紀以降イスラム勢力の侵入の拠点として、いくつかの王朝の都が置かれた地で、インドにおけるイスラム王朝の興亡の歴史が詰った都市である。現在オールド・デリーと呼ばれている旧市街は、ムガル王朝第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位1628~1658)によって築かれたもので、当時はシャージャハーナード(シャー・ジャハーンの町)と呼ばれていたという。やがてムガル朝の衰退が始まると、デリーは幾度となく戦火にまみれて荒廃し、ムガル朝の滅亡(1857)とともに、イスラムの都としての役目を終える。

e0116578_16333729.jpgしかしイギリス帝国の植民地支配下に置かれて9年後の1867年に、始めてデリーに鉄道が開通したことで繁栄を取り戻すと、長くイギリス領インド帝国の首都であった東部のコルタカ(カルカッタ)からの首都移転が決められ、1912年暫定的な首都となり、1931年からはニューデリーが正式な首都となる。
上の写真はニューデリーの官庁街。都市計画はイギリスの建築家エドウィン・ラッチェンス(1869~1944)によって1911年に始められ、建設は1931年に完了した。対称形の建築が向かい合う政府庁舎(設計ハーバート・ベイカー)の奥に大統領官邸(設計エドウィン・ラッチェンス)のドームを見る。
左の写真は、マムルーク・スルタン朝(奴隷王朝:1206~1290)の初代クトゥブ・ウッディン・アイバクによって創建された、インド最初のイスラム建築クッワト・アルイスラム・モスクの中に建つクトゥブ・ミナール(1200)。ヒンドゥ様式とイスラム様式が混在した形をみせるこのミナレットは、おそらく破壊されたヒンドゥ寺院等の石材を転用し、建設に携わった職人もヒンドゥ教徒であったのではと推測されている。高さはインドで一番の72.5mで、戦勝記念塔としての意味を併せもつ。
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上の写真左上は、ムガル朝第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1639年に着工した城塞。城壁や城門が赤砂岩で構築されたことに由来してラール・キラー(レッド・フォート)と呼ばれている。上の写真右上は、1656年シャー・ジャハーン帝によって建てられたジャミー・マスジド(金曜モスク)。インド最大を誇る。上の写真左下はインド門(1929)。第1次世界大戦で戦死したイギリス領インド帝国の兵士を追悼するための門型慰霊碑。設計はエドウィン・ラッチェンス。上の写真右下はマハトマ・ガンディー記念公園(ラージ・ガート)の奥にあるガンディーの慰霊碑。

フマユーン廟
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e0116578_16475637.jpgムガル朝の第2代皇帝フマユーンの墓廟(1565)で、チャール・バーグ (char-bagh : チャールは4、バーグは庭園の意味で、池を中央に配して十文字に水路で区切った庭園。4本の生命の川と神と人間の相合(あいあい)をシンボル化したもので、四分庭園とも訳されるペルシャ式庭園計画の基本形) の中の廟としてはムガル建築の最初の実例とされ、後に続くムガル朝の廟建築の原型を示すものとされている。上の写真は、水路で分割された巨大庭園の中央に建つ4面同じファサードのフマユーン廟。優雅な4芯アーチが連続する高さ7mの大きな基壇上に建つ墓廟は、イスラム建築を特徴づける大小のイワーンが配され、赤砂岩に白大理石の象眼装飾が施された壁が建物全体を彩り、中央八角形の広間上部に、高さ38mの白大理石で覆われたドーム屋根が載るという彫刻的な建築である。左の写真は白大理石の模棺(セノタフ)が中央に置かれた八角形の広間。フマユーンの遺体を納めた実際の棺は模棺の直下に安置されているという。


ラクシュミーナーラーヤン寺院
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ニューデリーのビジネス街コンノートプレイス西側の、マンディア通りに面して建つラクシュミーナーラーヤン寺院は、ヒンドゥ教三大神の中のヴィシュヌ神の化身ナーラーヤンと、ヴィシュヌ神の妻ラクシュミーを祀る“ナガラ”スタイル (インド中世の寺院建築における北方型の様式で、聖室の上部を形成するシカラ(塔状部)の垂直性が強調されている。) のヒンドゥ教寺院。創建は1622年とされているが、現在の姿に再建されたのは1938年。インド有数の財閥であるビルラー家の資金援助で建設されこともあり、また管理運営もビルラ―財団によってなされていることもあって、別名ビルラ―寺院という呼名もある。設計は「近代インド建築運動」の提唱者とされるチャンドラ・チャタジー(1873~1966)という建築家。民族主義の高まりで伝統的な価値観や文化回帰が求められた時代であっただけに、白大理石と伝統的な赤砂岩のシトカが林立する形態は、人々が受け入れやすいものであったに違いない。(写真上) 下の写真は中央の祭壇広間。祭壇奥にナーラーヤン(左)とラクシュミー(右)像が安置されている。
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by toshinac | 2015-05-15 17:01 | trip photos

大運河沿いのパラディオの教会堂/ヴェネツィア

ヴェネツィア本島の南にある幅400m近いサン・マルコ運河とジュデッカ運河(運河というより海峡といった感じ)の対岸の島、サン・ジョルジョ・マジョーレ島とジュデッカ島に、ルネッサンスの大建築家アンドレア・パラディオ(1508~1580)晩年の作である教会が3堂?ある。何れも正面を運河に面して建てられており、その威風は運河を挟んだ本島からも望むことができ、建築家の名声もあってか多くの観光客が足を運ぶ。
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1789年の9月から10月にかけて、ヴェネツィアに滞在した“文豪ゲーテ”は、パラディオ著の「建築四書」の序文にある「古代建造物の復元図は、単なる古代研究のためというより、むしろ寺院建築のための参考資料であり、範例のないデティール集である。・・・それらの知識を適材適所に用いれば、・・・芸術の法則に反することなく応用が実現したとき、それは称賛に値し、いかに快適なことかを示すだろう。・・・」を確認するべく現実のパラディオ建築を巡り、その印象や評価を、後に自著イタリア紀行で記している。
上の写真はサン・マルコ寺院の鐘楼から眺めたサン・ジョルジョ・マッジョーレ島。ヴェネツィア滞在中のゲーテも、サン・マルコの鐘楼に2度昇り、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島とその先のリド島(ヴェネツィアの潟とアドリア海を隔てる全長12kmの細長い島)を眺め、また実際に船を出し、リド島における防潮堤工事を視察し、干満の差が島々に及ぼす作用やヴェネツィアの行く末を論じている。

サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会
ジュデッカ運河がサン・マルコ運河と交わるところにあるサン・ジョルジョ・マッジョーレ島は、ヴェネツィア共和国時代にベネディクト会に与えられた島であったこともあり、現在でも島全体が教会とその関連施設がほとんどである。現在のサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会は1566年に着工されるが、パラディオの死後は、高弟スカモッツィが引き継ぎ、1610年に完成させている。大小二重のオーダーと二重のペデメィント(三角破風)が際立つ白亜の神殿風ファサードは、伝統的なバシリカ式教会堂の正面に、ローマ神殿風の正面を矛盾なく取り付けるというパラディオ流の応用と、中央の高い身廊部分と、横に広がる側廊部分の内部空間を、二つの立面を重ねることで内外の空間的一致を図ったとされている。
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e0116578_16194675.jpg上の写真は水際に建つ姿が美しいサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。ただ教会前の船着き場から眺める正面はあまりにも近すぎて、美しさではなく威圧感が勝ってしまう。中央4本の大オーダーが巨大なペデスタル(柱礎)の上にのる違和感と、両端の小さなオーダーが支えるペデメィントのコーニス(蛇腹)が、大オーダーの柱間を貫くという不自然さを指摘する建築史学者もいる。建築や芸術に鋭い眼力を持つゲーテもまた、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会堂の美しさを認めてはいるが、何かがおろそかにされていると感じたことを述べている。
左の写真は教会の身廊空間。柱の近くによると、ここでもペデスタルの高さが気になるところで、椅子にかけたときの目線より上から建ち上がる柱に不自然さを感じてしまう。
下の写真は教会に隣接した元修道院の中庭。現在は島の復興と修復および文化的事業を目的として設立されたジョルジョ・チーニ財団本部が置かれ、図書館や文書館や美術館などが充実、一部は一般にも開放されている。ちなみに1987年のG7(先進国首脳会議)の会場となっている。
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イル・レデントーレ教会
東西に長いジュデッカ島の中程に建つレデントーレ教会は、ヴェネツィアに猛威を振るったペストの終焉を神に感謝し、市民の救済を祈願する共和国の誓願教会として1577年着工し1592年(1599年という説もある)には完成している。国営工事ということもあるが、この種の建築工事期間としては異例なほど短い工期での完成である。数年とはいえパラディオ自身が工事を監督する期間もあったとされるこの教会堂は、彼の教会堂建築の理想を最もよく示す作品と言われている。
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e0116578_16305413.jpg上と左の写真はサン・マルコ側から近づく過程で見る教会堂。正面近くからは見えない身廊奥のドーム屋根が見え隠れする。
下の写真は船着き場正面から見るイル・レデントーレ教会堂。大小二重のペデメィントが重なる神殿風正面はサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会堂と同じだが、あの威圧感のある巨大なペデスタルを廃し、建物全体を基壇に載せて前面に階段を設け、より古代神殿の外観に近づけている。
また正面のペデメィントが身廊の高さにあるサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会と違い、4本の大オーダーが支える正面ペデメィントの位置が、身廊の高さより低く抑えられている。そのことで生じた身廊からの葺き下し屋根の難しい取合いを、古代建築パンテオンのペデメィント奥に付く屋階部分に類似した、コーニスの付いた長方形の屋階風の壁(アッティカ?)を設けて処理している。
“イル・レデントーレ教会は、パラディオの建てた美しく偉大な建築であり、その正面はサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会より遥かに賞讃すべきものである”・・・ゲーテ評である。
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ジテッレ教会(サンタ・マリア・デッラ・プレゼンタツィオーネ)
ジュデッカ島の東の端に位置し、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会とイル・レデントーレ教会の間に建っているジテッレ教会は、貧しい女性を収容するための救貧院の教会堂として、パラディオの設計をもとに、ヤコポ・ボッツェット(Jacopo Bozzetto:1521~1583)という建築家が1586年に完成したという説もある。しかしパラディオが関わったという確証はなく、建設時期もあいまいで学術的な裏付もいまは無く、残念ながらゲーテのイタリア紀行にも記述はない。下の写真はゴンドラの向こうに望むジテッレ教会堂。
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by toshinac | 2015-04-20 16:39 | trip photos