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カテゴリ:trip photos( 138 )

シベニク

シベニクはトロギールの北西、直線距離で38kmほどに位置するダルマチア地方中央の政治、文化の中心都市で、クルカ川のアドリア海河口に築かれた町。トロギールから海岸沿いを車で走ると約60kmぐらいである。クロアチアのアドリア海沿岸では最も古い都市とされるシベニクだが、シベニクの地名が登場するのは11世紀中頃のクロアチア王のとき。それ以前の町の歴史はよく分からない。周辺諸都市に多く見られるギリシャやローマの支配下にあったことを示す遺跡や遺構が、シベニクでは見られないことから、ギリシャ・古代ローマ時代に、バルカン半島西部で勢力を誇ったイリュリア人が定住し発展したという説も頷ける。
12世紀初めからのハンガリー王国下を経、15世紀初頭~18世紀末までヴェネツィア共和国の領域となり、その後、他のダルマチア地方沿岸諸都市と同様の歴史を経てきた町である。
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上の写真2葉は、シベニクのシンボルで世界遺産にもなっている聖ヤコブ大聖堂。着工(1431)当初の後期ゴシック様式に始まり、ルネッサンス様式で完成(1535)した完全な石造建築で、1555年に献堂されたという。人物像はよく分からないが、フランチェスコ・ディ・ジャコモという建築家の設計を基に始まった工事は、10年後の1441年からダルマチア出身の建築家で彫刻家のユライ・ダルマティナッツ(イタリア名:ジョルジョ・ダ・セベニコ1410~1475)が設計・建設の指揮をとることとなり、生涯この聖堂建設に取り組み、その概念を構築。ダルマナティナッツの死後、建設はトスカーナの建築家ニッコロ・ディ・ジョバンニ・フィオレンティーノ(1418~1506)が引き継ぎ、天井のヴォールトと八角形のクーポラを完成させた。
フィオレンティーノ死後の工事は、ヴェネチアのビルダー、バルトロメオ・デル・メストラとその息子ジャコモが、フィオレンティーノの考えにそって完成させたとされている。
上の写真下は、自分の作品を眺めるダルマナティナッツの像越しに見る聖堂正面。

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左の写真は、15世紀後半に建てられた聖イヴァン教会。南壁面に取りつく外階段と、鐘楼の機械式大時計(18世紀)が珍しい。詳細は解らないのだが、ファサードを飾るヨハネ像の彫刻は、大聖堂の設計者の一人であるフィオレンティーノによって彫られたものと言われている。



下の写真は、大聖堂真横のレプブリカ広場に建つ旧市役所で、16世紀前半に建てられたルネッサンス様式の美しい建築。設計者は不明だが、建物両側の階段は、18世紀の建築家イヴァン・スコフ(Skok)によるものだそうである。
1943年連合軍の空爆で破壊されるが、建築家ハロルド・Bilinic(1894~1984クロアチアの建築家)の指示のもと復元された。現在1階にはレストランが入り、2階のホールは市のイベント会場等に使用されているようである。
(写真はいずれも旧ユーゴ時代の1988年撮影。)
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by toshinac | 2015-02-21 12:00 | trip photos

トロギール

スプリトから西に27kmほどにあるトロギールは、B.C.3世紀頃ギリシャの植民都市として、アドリア海に突き出た半島の先端に町が造られ、やがて港町として発展。ローマ時代には、他民族の侵入で首都サロナを逃れた市民の避難先にもなったという。さまざまな勢力の支配下に置かれたトロギールは、中世に入ると外敵の侵入を防ぐため水路を設けて本土と切り離し、市壁を廻らして防御を固める要塞状の島となる。
その後長きに亘ってヴェネチア共和国の支配が続くが、ヴェネチアの崩壊後はハプスブルク帝国の一部となり、一時的にフランス・イタリアの占領下を経て、ユーゴスラビア社会主義共和国に属し、1991年独立したクロアチアの町となる。古代ギリシャ、古代ローマ、ヴェネチア共和国などがもたらした、豊かな文化が詰った小さな島トロギールは、1997年に世界遺産に登録された。
写真はすべて旧ユーゴ時代の1988年撮影したもので、まだ観光地としての街の整備や、建物の修復が進んでいない時期のものだが、長い歴史の中の一瞬の時として眺めれば、それなりの意味はあるのではと思っている。下の写真は市壁南側にある南門(海の門)と、かつては税関として使われていたというロッジアを見る。
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上の写真左は、街の中心イヴァン・パヴァオ・ドゥルギ広場に建つ聖ロヴロ大聖堂。トロギールを代表する建築で、1200年頃から300年以上の時をかけて造り続けられたため、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンスの各様式が混在する教会である。右はその内部の新礼拝所で、初期ルネッサンス様式のイヴァン礼拝所。正面には二つの像に挟まれた初代トロギール司教の石棺が安置されている。未修復の堂内は長年の埃と汚れで薄暗く、長い時の流れを実感する。
下の写真はイヴァン・パヴァオ・ドゥルギ広場の聖セバスチャン教会(15世紀)の時計塔と、ギリシャ様式のオーダーが目立つロッジアを見る。
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by toshinac | 2015-02-08 18:10 | trip photos

スプリト歴史地区

クロアチアのアドリア海沿岸地域一帯を占めるダルマチア地方最大の都市スプリトは、ドゥブロヴニクから車で北西に200kmほどの距離にあり、長さ300kmに及ぶダルマチア式海岸(地質構造の影響で形成された、海岸線に対して平行な細長い島の形状が特徴的なリアス式海岸)と呼ばれる複雑に入り組んだ沿岸のほぼ中央に位置している。
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スプリトは先史時代にさかのぼる古い町で、B.C.4~3世紀にギリシャ人の植民都市アスパラトスの建設が始まりとされている。ローマ時代に入ると市名もスパラトゥムと変更され、ダルマチア地域の首都に発展した近郊の都市サロナ(スプリトの北東約5km)出身の皇帝ディオクレティアヌスによって295年頃より大宮殿が造営された。南側180m、北側175m、東西側215mという若干不整形をなす宮殿は、周囲を角塔や八角塔を付けた厚さ2mの城壁が廻るというまさに要塞のような建築。

e0116578_100898.jpgその後スパラトゥムは東ローマ皇帝の支配下に置かれるが、首都サロナが他民族の略奪破壊で滅び、市民の大多数はダルマチア諸島などに逃れたが、やがて東ローマ支配が地域で復活すると人々は本土に戻り、荒れ果てた要塞状のディオクレティアヌス宮殿に移り住んだ。
都市壁として残された城壁内は住宅や商店や広場などが設けられ、遺跡を利用しながら市街地と化していき、現在のスプリト歴史地区の核となる。
上の写真はかつてのペリュスリウム(古代ローマ建築に見る列柱廊によって囲まれた中庭)の南面。奥に宮殿のヴェスティビュール(玄関ホール)があり、東側には7世紀末ごろ皇帝廟を転用した教会堂、ドムニウス大聖堂と鐘楼がある。左の写真は、違和感のない遺跡の中の暮らしぶり。

下の写真左上は宮殿海側のプロムナード。都市壁と化した城壁にも部屋が造られ住居となっている。左下は大聖堂の鐘楼を見上げる。右上は宮殿のヴェスティビュール見上げ。直径9mほどの青空天井が効果的。右下は宮殿の地下。現在は一部土産物店などが入り、賑いをみせているようである。
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上の写真は、宮殿の西側に発展した歴史地区にあるブラチェ・ラディッチ広場に建つパラッツオ・ミレシ。ダルマチアにおける美しいバロック建築の一つに数えられ、現在は国際会議や展示場などにも利用されているようである。広場には15世紀の文学者マルコ・マルリッチの像が立つ。
(写真はいずれも旧ユーゴ時代の1988年撮影)

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by toshinac | 2015-01-28 10:22 | trip photos

ドゥブロヴニク

e0116578_1543596.jpg “アドリア海の真珠”とも呼ばれる美しい街ドゥブロヴニク旧市街は、クロアチアの最南端に位置する市壁に囲まれた世界遺産の街。1991年のユーゴスラビア内戦で破壊され、一時は危機遺産リストに載せられたが、終戦と同時に市民は街の再建に立ち上り、多くの専門家や世界各国の支援も受けながら忠実な修復を続けてきた。
そして嘗ての美しさを取り戻したドゥブロヴニクは、近隣の沿岸諸都市とのフェリーによるアクセスも増し、大型のクルーズ船も数多く寄港するなどアドリア海沿岸屈指の観光地として復興している。
私が訪れたのは内戦前の1988年、ユーゴスラビア時代の社会主義体制下、現在の雰囲気とは多少違いがあるのだろうが、街並みや建築に著しい変化は無いものと思い、フィルム写真をデジタル化したついでに楽しかった旅を思い出してみた。

左の写真は、市壁の上から眺めた旧市街の中心ともいえるプラツァ通り。
下の写真はプラツァ通りをスポンザ宮前から見る。
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e0116578_15485055.jpg友人達とドイツからオーストリアを抜けイタリアを車で南下、バーリからフェリーでドゥブロヴニクに入港したのは夏真っ盛りの7月下旬。社会主義国ということもあり多少緊張感のある入国であったが、入ってみれば雰囲気も食事もイタリア南部との違いはそれほど無く、カメラとレンズの盗難被害(自分の不注意に起因する)を除けば快適な旅だった。
現在のように容易に衛星写真が得られない当時、街や建築を俯瞰する術としてカイト・フォトグラフィーを習得し、旅や調査には凧とカメラを持参していたので、ドイツに戻るまでの残りの旅は、交換レンズのない凧用のカメラを利用した。言いわけがましいがどの写真もいま一つ覇気がないのはカメラを失った喪失感・・・かな?
左の写真は旧港と街を囲む市壁を見る。同行した友人のI氏(現大学教授で専門は西洋建築史)によれば、ほぼ15世紀頃に完成した市壁の工事に、ルネッサンス初期の建築家で、フィレンツェのパラツッオ・メディチの設計者とされるミケロッツォ・ディ・バルトロメオ(1396~1472)が、市壁強化(主に港湾部)の技術者として関わっていたという。そんな史実を知ると市壁を見る目も変わってくる。
下の写真は大聖堂近くのグンドゥリチェヴ広場の朝と昼。宿泊したホテルの窓から撮影。
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by toshinac | 2015-01-13 15:53 | trip photos

プエブロ / ニューメキシコ

アメリカ合衆国南西部には先住民であるインディアンの保留地が多く分布する。なかでも、古くから集住して農耕を主としてきた民族“プエブロ”(16世紀この地に入ってきたスペイン人が、そこに集住するインディアンを総称したスペイン語で、集落や町を意味する。)は、現在ニューメキシコ州に19の部族が政府によって公認され、相伝の領土を保留地として領有しているという。その中のいくつかのプエブロには、伝統的なアドベ(日干しレンガ)造りで段状の集合住居を形成し、古くからの暮らし守りながらのコミュニティを見ることができる。州の最北に位置する世界遺産のタオス・プエブロはその代表例で、ニューメキシコ州の観光名所の一つになっている。
また、現在のプエブロ集落に加えて、この地域には、プエブロの建築文化を築くに至ったアナサジ(有史以前の起源を持ち、現在のプエブロ人の祖先とも言われている)の居住地跡などの史跡も多く点在する。
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e0116578_1361619.jpg古代からの建築文化を重んずる姿勢は、州都サンタフェの歴史地区における建物の新築・改築時には、プエブロのアドベ様式や、スペイン植民地時代の様式を踏襲するという条例(1958)を定めるに至った。結果サンタフェは、アメリカの他の都市には見られない独特な景観を見せる街になっている。
上の写真は、1610年完成の旧スペイン総督の邸宅。現在は州立の歴史博物館。







左の写真は、1917年にプエブロ・リバイバル様式で建てられたニューメキシコ・アート・ミュージアム。設計はニューヨーク生まれの建築家アイザック・ラップ(1854~1933)。下記のアコマ・プエブロに建つ、サン・エステバン・デル・レイ教会などがデザインのベースとなっているらしい。



ラグーナ・プエブロ

ラグーナ・プエブロは、ニューメキシコ州最大の都市アルバカーキの中心部から、インターステート(州間高速道路)40号線(旧ルート66)で西に約75kmに位置している。保留地内にある湖(スペイン語でラグーナ)からその名が付けられたラグーナは6つの村で構成され、その中心がラグーナ村である。緩やかな傾斜地に展開するラグーナ村は、プエブロ特有の集合住居形式ではなく、アドベ造りにトタン屋根を乗せた家屋が、集落の一番上に建つ白亜の聖ヨセフ教会周りに点在する小さな村で、特にめずらしい建築や史跡があるわけではないが、ラグーナの自然や多くの住民が放射能に汚染するという、悲しい歴史を背負った場所として広く知られている。

e0116578_13495188.jpg第2次世界大戦後の冷戦期、アメリカにとっては最も必要であったウランの鉱脈が、6つの村の一つパグワテ村付近にあることが分かり、1950年代から大規模に、しかも露天掘りで採掘されたのである。当初は鉱山での仕事で潤ったラグーナも、やがて冷戦の終結や新たな鉱山の開発などの理由から閉山となり、ウラニウムの危険を知らされていなかった労働者の多くが後年癌を発症し、現在もたくさんの人が癌との戦いを続けているうえ、汚染された土地の農業や牧畜での使用は不可能だそうである。





左の写真上は、アルバカーキからラグーナに向かうインターステート40号線。
下は40号線から望むラグーナ村。


下の写真は、ラグーナ村の人々の心の支えでもある聖ヨゼフ教会の全景。1700年頃の建立で、修道士の監督のもとラグーナの人々が建設に従事、日干しレンガや地元の石や木を使用して完成させている。その下の写真左は教会正面。青空に映える白い教会はギリシャの教会と見紛うばかり。右は内部。ラグーナの伝統的なアートや初期のスペイン絵画が堂内を飾る。
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アコマ・プエブロ(Sky city)

アコマ・プエブロは、ラグーナから40号線で西に10km、一般道で南西に約20kmのところにある。メサ(浸食によって形成されたテーブル状の台地)と呼ばれる砂岩の断崖上に築かれたアドベ造りの集合住居集落で、別名“スカイシティ”と呼ばれている。

e0116578_140913.jpg900年頃からここに住みついた人々は、長きに亘ってメサの下に作った畑での農耕と、他部族との交易や時々の狩りという穏やかな日常を送ってきた。
しかし1599年の俗にいう“アコマの戦い”(1598年のスペイン人調査隊による備蓄食糧の徴収に抵抗したアコマの人々は彼らを殺害、翌年報復を受け犠牲者は800人、生存者は奴隷または厳しい処罰を受け、村は廃墟と化した。)ではスペイン人に抵抗する要塞となった。
今の村はスペイン征服後の廃墟の上に順次再建されてきたものだが、不便なメサ・トップに留まるのは数家族、多くは近隣の村々に住み、伝統的な祭りのときに集まってくる。
近年、集落の南に建つサン・エステバン・デル・レイ教会(1641)共々、アメリカ国定歴史建造物の指定や史跡としての認定を受けて以降、観光が部族の大きな収入源となり、それに伴い定住する家族もかなり増えてきたという。

写真左は、大平原の中のメサ・トップに展開するアコマ・プエブロを遥に望む。
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上の写真はサン・エステバン・デル・レイ教会。1629年に着工され1641年に完成を見る。礎石となる石や膨大な量のアドベの土、それに柱や梁に使用する巨木を、50kmほど離れた山麓から運び、人の手と足で100mを超す断崖上に運び込み、10年を超す建設労働は過酷を極めたに違いない。
下の写真は石やアドベで造られている様子が分かるセットバック3階建の住居。さらに下の写真は集落内の点景。現在も電気や水道は無く、窪地の雨水を利用しながらの生活である。
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下の写真は3階建ての集合住居の北側に見る控え壁(左)。現在では広場に通じる道がつくられ、車も上がってくることができるが、かつては唯一メサ・トップに通じた階段状の道(右)。
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チャコ・キャニオンのプエブロ・ボニート
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e0116578_14325780.jpgニューメキシコ州の北西部に位置するチャコ・キャニオンは、9~12世紀にかけてプエブロ文化が最も栄えた地域で、チャコ文化国立歴史公園となっており、チャコ文化として世界遺産にもなっている。涸れた渓谷内に数多く点在するプエブロの祖先と言われる先住民(アナサジ)の集落跡は、複数のキヴァ(大地の精霊を祀る儀式用の空間。地下か半地下で、古くは矩形の形態もあるが円形が多い。)を核として構成された集合住居形式の集落がほとんどで、精霊崇拝を中心とした独特の文明が繁栄したことを物語る。なかでも渓谷の中央部に位置するプエブロ・ボニート(美しい村)は最大の遺跡で、直径150mのD型平面をした集合住居は、高さ10mの石積み段状テラスが広場を囲む砦となっている。
上の写真はプエブロ・ボニートに続く道。ラグーナから40号線を西に100km、ソロのインターを下りて371号線を北に46km、クラウンポイントの先でチャコ・キャニオン・ロードに入って60kmの渓谷にある。左の写真は70mの崖を背にした住居跡。下の写真は崖の上から俯瞰したプエブロ・ボニート。D型をした平面形やキヴァの配置がよく分かる。
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上の写真は住居跡内部。弧を描く外周は4階建て、一部5階を数える場所もあり、800室近い部屋数で1200人収容のコミュニティであったらしいが、近年の研究では、異常に多いキヴァの数から、ここは儀式中心の場で、住民はそれほど多くなく、部屋は儀式に参加する人のため客室が多いといった説もある。
何れにしても、かつて繁栄を極めたプエブロ・ボニートは、長年の森林伐採と、50年に亘る大旱魃で農耕も難しくなり、12世紀に見捨てられて廃墟となる。


バンデリア遺跡

遺跡のあるバンデリア国定公園は、サンタフェの北西を流れるリオ・グランデの支流であるフリホレス渓谷にあり、サンタフェから山間の道を車で1時間30分程の距離。近くには第2次大戦中ひそかに原爆開発が行われたロス・アラモス研究所がある。

e0116578_14423287.jpgフリホレス渓谷には、1万年前にはすでに人の往来はあったが、プエブロの祖先といわれるアナサジの人々が定住したのは12世紀半ばからで、以来400年ほどの間に築かれたとされる住居跡や集落跡が、渓谷沿いに数キロに亘って展開する。
フリホレスの水を利用して、断崖上の畑でトウモロコシや豆類などを収穫し、最大時は500人を超える人が住んでいたという。しかし長い旱魃や人口増加による資源の枯渇などで集落の維持は難しくなり、住民は16世紀中頃にリオ・グランデ近くの他のプエブロに移動したとされている。




左の写真は、渓谷の中程にあるチュオニィ(Tyuonyi)プエブロ遺跡。広場に設けられたキヴァを取り囲む1~3階建ての集合住居跡。
屋根を支えていた朽ちた木片の年輪年代測定から、14世紀末から15世紀中頃は、建築行為が行われていたとされている。
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上の写真は、切り立つ崖の足元に続く住居跡と、崖に穿たれた住居とその内部。
生活感が残る煤けた部屋は意外と広く、強い陽射しの反射で明るく湿気もなく、居心地は悪くない。
下の写真は崖のアルコーブに設けられたキヴァ。訪れた時期は夏であったが、標高が1000mを超えていることもあり涼しく、緑豊かな渓谷には穏やかな時が流れていた。
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by toshinac | 2014-12-08 14:50 | trip photos

オークパークのライトの住宅

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シカゴの西隣りに位置する閑静な住宅街オークパークには、巨匠フランク・ロイド・ライト(1867~1959)の初期の住宅作品が密集する。ルイス・サリバン(1856~1924)の事務所から独立(1893)して間もなく、オークパークの自邸(1889)にスタジオを増築し、ここを拠点に目覚ましい活動を開始。ここでの事務所を閉鎖する1909年までの間に、計画案を含め200件近い設計をこなしている。オークパークとリヴァ・フォレスト(隣接する町)だけでも30棟以上の住宅が建設され、ライトの住宅作品の代名詞ともいえる“プレーリースタイル”(建物の高さを抑えた水平線を強調した外観と、部屋の仕切りを極力無くして緩やかにつながった一室空間) はこの時期に確立されていく。だが、独立直後の作品はサリバンの事務所を離れる前の設計ということもあるのか、予備知識がないとなかなか周囲の住宅との見分けが付けにくいものもある。
同じ建築家が設計した住宅が、同じ地域にこれだけ集まって建っているのは世界的にもめずらしく、見学する方としては便利だが、通りから散見しているだけだと、巨匠に対して甚だ失礼なはなしだが、住宅展示場で品定めをしているような錯覚さえ覚え、住宅ごとに、これはライトライナ―とか、ライトオーバーのホームランとか、ウーン・これはライトゴロでアウトとかつぶやいていたのを思い出す。
上の写真はフランク・ロイド・ライト自邸兼スタジオ。
以下の写真は、オークパークに建つライト設計の住宅の全てではないが、散策しながら撮った写真を年代順に並べてみた。
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① Robert Parker House (1892)
② 手前の住宅はThomas Gale House (1892)・奥の住宅がWalter Gale House (1893)
③ Nathan Moore House (1895):1922の火災後1923年再建。
④ William Fricke House (1901)
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⑤ William Martin House (1902)
⑥ Arthur Heurtley House (1902)
⑦ Edwin Cheney House (1903)
⑧ Peter Beachy House (1906) : 改築
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⑨ Edward Hills House (1906) : 改築
⑩ William Copeland House (1908) : 改築
⑪ Mrs.Thomas Gale House (1909)
⑫ Unity Temple (1908) : 住宅ではないが、オークパークに於けるライトの代表的な作品の一つなので並べて入れてみた。落雷で焼失した木造の旧教会を、この教会の信者であったライトが設計。これまでの西洋建築の様式を一切 取り入れないという全く新しい形態の教会建築である。

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by toshinac | 2014-11-09 15:20 | trip photos

シカゴの高層建築

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イリノイ州最大の都市シカゴは、アメリカの経済・金融の拠点の一つとして発展してきた世界的な都市で、摩天楼が聳え立つアメリカ型都市の発祥とも言われている。1871年の大火で市内の建物のほとんどが焼失したシカゴは、その後の再開発と産業復興を背景に空前の建築ブームが起ると、全米から多くの優れた建築家が集まったという。後にシカゴ派と呼ばれる彼らによって耐火建築の技術が進み、やがて鉄骨構造の高層事務所ビル構想が実現。それは20世紀の都市型建築の先駆けとなっていく。上の写真はシカゴ観光の目玉の一つでもある美しい夜景。

ジョン・ハンコック・センター
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1969年完成のジョン・ハンコック・センターは、建築史上からの評価も高い高層集合住宅とオフィスと商業施設から成る複合建築で、SOMの作品の中でも傑作の一つに数えられている。設計はブルース・J・グラハムと構造のファズラー・R・カーン。高さ343mの100階建て、完成時はシカゴ一の高さを誇っていた。
外周の柱とスパンドレルとブレースで構築された筒状のフレームと、建物中央に設けた耐力コアで全体を支えるチューブ構造である。建物4面に配されたこれらの構造体を露出させたデザインは、後に出現する構造表現主義的なハイテク建築の先駆けともいえる。
下層29フロアにオフィス・ホテル・ショップが入り、上層の49フロアがコンドミニアムで44階のスカイロビーには室内プールが設けられている。巨大なX型ブレースと先細りのデザインが特徴的なジョン・ハンコック・センターは、ミラーガラスで覆われたボストンのジョン・ハンコック・タワーとは対極をなす印象がある。
上の写真はミシガン湖を背景に聳え立つジョン・ハンコック・センター。手前にはマリーナ・シティのコーン・タワーと黒いIBMビルが見える(シアーズ・タワーの展望台より)。下は望遠写真と見上写真。
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ウィリス・タワー(旧シアーズ・タワー)

e0116578_9544079.jpgかつて世界最大の百貨店であったシアーズの本社ビルとして、1974年に完成したシアーズ・タワーは、109階建て442m(アンテナ含みで527m)の全米2番目の高さ(1番は1ワールドトレードセンター)を誇る超高層ビル。英国の保険大手ウィリス・グループ・ホールディングがビルの命名権を獲得したことで2009年よりウィリス・タワーに改称された。
設計はジョン・ハンコック・センターと同じブルース・J・グレアムと構造のファズラー・R・カーンによる。
1辺に4.5m間隔で柱が入る約23mの正方形チューブを9本束ねた形状で形成される平面は、階が上がるほど正方形チューブが削減していく「ステップ・バック」構造となっている。この構造計画の背景には、シアーズ本社としての大きなオフィス・フロアの必要性と共に、テナントのためのユニヴァーサルなフロア・サイズの要求があったそうである。

左の写真:完成時世界一の高さを誇ったウィリス・タワー(旧シアーズ・タワー)も現在は世界で10番目ぐらいとか。しかしその威容はシカゴのランドマークとして、広く市民や観光客から親しまれている。

下の写真はジョン・ハンコック・センターの94階展望室から眺めたシカゴの夕景。
高さが際立つウィリス・タワーとAonセンター(左の高層ビル)。アモコビルとも呼ばれたAonセンターは1972年完成のモダニズム建築で、設計者はエドワード・ダレル・ストーン(1902~1978)。鉄骨チューブ構造に白い花崗岩の外壁が特徴的。
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マリーナ・シティ
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シカゴの都心部を流れるシカゴ川沿いに位置するマリーナ・シティは、2.5ヘクタールの敷地に計画された5つの建物からなる複合施設で、若い一時期、バウハウスのミースのもとで学んだシカゴ生まれの建築家、バートランド・ゴールドバーグ(1913~1997)の設計で1964年に完成。
コンセプトは、住居、事務所、銀行、店舗それに劇場など、都市に於ける日常生活の全てを敷地内に盛り込むというものだが、当時のシカゴ市にもゾーニングという都市規制あったため、用途の違った複合建築の認可は得られないのだが、彼は実現に向け、都市に関する哲学的な議論を連邦政府にし続けたそうである。その結果、規制の修正があり建設の許可がおりたという。理由があっての事らしいが、日常生活の全てと言いながら、教育施設と医療施設は盛り込まれていない。ゴールドバーグはマリーナ・シティの完成後、なぜか病院や学校等の公共建築が多いと思うのは考えすぎかな? 
上の写真は高さ179mのマリーナ・シティのツインの住居棟。その特徴的なトウモロコシ状の形態からコーン・タワーとかコーン・コブの愛称がある。ふたつのタワーの足元にマリーナを設け、下層に900台収容の駐車場、上層は900世帯が入るアパートとして建設された。高層建築は鉄骨造のキュービックなデザインが主流であったこの時代、コンクリート造の円と曲線で構成された建築は人々を驚かせたに違いない。
ちなみに隣の黒いビルはミース設計のIBMビル(1971)。
下の写真は駐車場。スティーブ・マックウィーン主演の映画“ハンター”で、カーチェイスの末フェンスを突き破った車がシカゴ川に転落するシーンを思い出す。
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レイク・ポイント・タワー

e0116578_10162047.jpgミシガン湖畔に建つレイク・ポイント・タワーは、1968年に完成した高さ196m70階建ての高層集合住宅。設計はジョージ・シッポーレイット&ジョン・ハインリッヒ・アソシエツ。
この建築は、IITで彼らの教授であったミース・ファン・デル・ローエが、ベルリン在住時に発表した“ガラスの摩天楼Glass Skyscraper”案(1921年・1922年)を基に具現化されたものという話だが、設計者のシッポーレイットは完成時若干29歳、師匠であるミースはその1年後に亡くなっている。設計や施工時に、師匠から何らかのサゼッションがあったのか否か、個人的には気になるところ。
鉄筋コンクリート構造で、中央の巨大な三角形のコア・シャフトが建物の鉛直荷重の大半を支持することで、3方向に突き出たスラブを支える柱をできるだけ細く見せ、曲線を描く外周をアルミとガラスのカーテンウォールがしなやかに包み込んでいる。
建築の本質的なところを追求し、無駄な装飾を廃したシンプルなデザインは、ミース・ファン・デル・ローエの建築の概念を、若い彼らが結実させた傑作。(写真左)




レイク・ショア・ドライブ・アパートメント

e0116578_10243395.jpgミシガン湖沿いの自動車道路レイク・ショア・ドライブに面して建つこの建築は、ミース・ファン・デル・ローエのシカゴにおける代表作品の一つである。鉄骨構造の26階建て高さ82mの高層アパートで1951年の完成。鉄とガラスのカーテンウォールの外観は、集合住宅というよりはオフィス・ビルの印象だが(写真左)、ミースの建築はその用途とは関係なく、ほとんどが鉄とガラスで構築されているため、基本的には同じようなデザイン構成となる。
それは空間の用途を限定せず、空間を使う人が用途を決めるという、ミースの空間概念からくる必然性のなせるわざ。
当然のことながら、この建築のコンセプトも、ベルリン時代の“Glass Skyscraper”案が根底にあることは言うまでもない。




下の写真はエントランス廻りのオープンスペース。

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ここで取上げた高層建築は、1984年に訪れた時の写真であるため、1960年代・1970年代に建設されたものばかり。SOM設計のトランプ・インターナショナル・ホテル&タワー(2009年)や、女性建築家ジニー・ガング設計のアクア・タワー(2010年)など、新たな高層建築が次々と誕生するシカゴも、世界の大都市と同様にそのスカイラインを刻々と変化させていく。

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by toshinac | 2014-10-29 10:32 | trip photos

IITクラウン・ホール

イリノイ州を代表する大学の一つIIT(イリノイ工科大学)にあるクラウン・ホールは、バウハウスの3代目校長であったミース・ファン・デル・ローエ設計の建築・都市計画学部の建物。バウハウスの閉鎖(1933年)後シカゴに移住し、アーマー工科大学(後のイリノイ工科大学)建築学科の主任教授となったミースは、1939年から同大学の新キャンパス計画に着手。鉱物・金属研究棟やIITの同窓会館など、1958年にIITを去る間に20棟を超える建物を手掛けているが、1956年完成のクラウン・ホールは、ミースのアメリカにおける代表的作品の一つに数えられる建築となる。下の写真は正面階段が付く南側を見る。段板の一部にトラバーチンの劣化が見られたが、シャープなデティールは健在。
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地上1.8mに設けられた床版と、H鋼柱に支持された4本のリブ付きプレート梁から吊られた屋根版との間は、高さ6mのスチールサッシのガラス・スクリーンが廻るのみ。仕切りのない、長さ66m奥行36mの柱・梁が見えない大空間は、基本的には製図室だが、展示やコンサートなど多目的な利用を可能とする所謂ユニヴァーサル・スペース。一つの空間の中で、先生も学生も誰もが自由に行き交い、互いに影響し合って学ぶという、ミースの教育理念の実践の場であった・・・らしい。
上の写真は南西側からの全景。36mのスパンを支える梁の高さは約190cm。下の写真は地階のホール。訪れたときは学生たちの作品講評の場となっていた。
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by toshinac | 2014-10-10 09:35 | trip photos

クリスチャン・サイエンス・チャーチ・センター

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I・M・ペイ&パートナーズの設計で1973年に竣工したクリスチャン・サイエンス・チャーチ・センターは、1894年に完成したクリスチャン・サイエンス (1879年にマサチューセッツ州ボストンに創設されたキリスト教系の新宗教で、“科学者キリスト教会”とか“キリスト教科学”と称され、世界各地に数多くの支教会がある) のマザー・チャーチを中心とする地区の再開発で、ハンチントンとマサチューセッツという二つのアベニューに跨る巨大な空間に展開する。
古い教会と新しく建設される建築を一体化するための仕掛け、“リフレクティング・プール”と呼ばれる地下駐車場の上に設けられたプールが、この再開発事業における核となる部分。矩形のプールを取り囲むように設けられた日曜学校、コロネード、管理棟などの建物と、センターのマザー・チャーチを水面に映して視覚的、空間的な統合を図っている。新築された建物は全て打放しのコンクリートで、マザー・チャーチの石灰岩の色に調和するよう、質感や色の配慮がされているらしいが、それぞれの建築形態だけ見てみると、コロネード以外の建築からI・M・ペイの作品という印象はあまり感じられない。
上の写真は、鏡のような水面にその姿を映すマザー・チャーチとコロネード。「水というものは、現実を映し出し、その意味を高める力をもった存在である。然るにクリスチャン信仰の一部分として象徴的な役割を担うところまで展開していった」。設計者の設計趣旨の中の一文である。
下の写真左上は、プールの端に建つ1/4平面の日曜学校。左下は日曜学校側からマザー・チャーチとコロネードを望む。下右は、プールを挟んで建つコロネードと高層の管理棟を日曜学校側から見る。
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by toshinac | 2014-09-19 16:09 | trip photos

M.I.T.チャペル

全米屈指の大学の一つであるM.I.T.(マサチューセッツ工科大学)キャンパス内に建つこのチャペルは、エーロ・サーリネン (1910~1961 父であるフィンランドの建築家エリエル・サーリネンとともに13歳の時アメリカに移住。イェール大学で建築学の学位を取得後、父と共同の設計事務所を設立。代表作にはTWAターミナルビルやセントルイスのゲートウェイ・アーチ(西部への門)などがあり、20世紀のアメリカを代表する巨匠の一人) 設計の無宗派の礼拝堂。人種や宗教や専門分野などの相違を区別せず、誰もが自分の思いを深めて瞑想し、精神世界へ没入できる場を設けることが設立の目的であったという。既成の宗教建築との差別化を図る表現は難題とも思えるが、建築家にとっては挑戦しがいのある設計といえる。
サーリネンをイメージする建築といえば、シェル構造の流れるような曲面を用いた表現主義的なスタイル。M.I.T.チャペルの外観にその傾向を想わせるところはない。作品ごとに作風が変わると評されたサーリネンの真骨頂か。

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左の写真は、キャンパス内の他の建物や喧騒等の影響を遠ざけるかのように緑の木立に囲まれるチャペル。直径およそ17m高さ9mのシンプルな円筒形。その足元部分の連なるアーチで支持された粗面の煉瓦壁に窓は無く、建物周囲に廻らした幅3mほどの池と共に結界を創りだす。







下の写真は内観。波打つようにうねる円形の煉瓦壁に窓は無く、堂内には祭壇上部に設けられた直径4mの天窓から降り注ぐ自然光と、壁際のスリットから外周部の水面に反射した光が壁面を照らすのみ。祭壇背後に吊るされたハリー・ベルトイア(1915~1978)の金属彫刻に反射する光が、静寂でほの暗い堂内に神秘的な光景を創出する。
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by toshinac | 2014-09-04 09:45 | trip photos