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インドの建築散見/デリー

インダス文明(BC.2500年頃)に遡る長い歴史の中で、この地域固有の建築形態が生まれた背景には、厳しい風土に適応するための、先住民族の長きに亘る工夫の積み重ねと、根底にあるインド文明独特の神話や宇宙観が建築に表現されることも起因する。
一方で、古来よりさまざまな民族がこの地に去来し、都城を築き、侵入者たちの伝統的な建築技術や建築様式を用いて生まれた外来の居住環境がある。それら両者が時代や地域で複雑に混在し、エキゾチシズム溢れる魅惑的な都市と建築を造りだし、広大なインド大陸に展開する。
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首都デリーは、12世紀以降イスラム勢力の侵入の拠点として、いくつかの王朝の都が置かれた地で、インドにおけるイスラム王朝の興亡の歴史が詰った都市である。現在オールド・デリーと呼ばれている旧市街は、ムガル王朝第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位1628~1658)によって築かれたもので、当時はシャージャハーナード(シャー・ジャハーンの町)と呼ばれていたという。やがてムガル朝の衰退が始まると、デリーは幾度となく戦火にまみれて荒廃し、ムガル朝の滅亡(1857)とともに、イスラムの都としての役目を終える。

e0116578_16333729.jpgしかしイギリス帝国の植民地支配下に置かれて9年後の1867年に、始めてデリーに鉄道が開通したことで繁栄を取り戻すと、長くイギリス領インド帝国の首都であった東部のコルタカ(カルカッタ)からの首都移転が決められ、1912年暫定的な首都となり、1931年からはニューデリーが正式な首都となる。
上の写真はニューデリーの官庁街。都市計画はイギリスの建築家エドウィン・ラッチェンス(1869~1944)によって1911年に始められ、建設は1931年に完了した。対称形の建築が向かい合う政府庁舎(設計ハーバート・ベイカー)の奥に大統領官邸(設計エドウィン・ラッチェンス)のドームを見る。
左の写真は、マムルーク・スルタン朝(奴隷王朝:1206~1290)の初代クトゥブ・ウッディン・アイバクによって創建された、インド最初のイスラム建築クッワト・アルイスラム・モスクの中に建つクトゥブ・ミナール(1200)。ヒンドゥ様式とイスラム様式が混在した形をみせるこのミナレットは、おそらく破壊されたヒンドゥ寺院等の石材を転用し、建設に携わった職人もヒンドゥ教徒であったのではと推測されている。高さはインドで一番の72.5mで、戦勝記念塔としての意味を併せもつ。
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上の写真左上は、ムガル朝第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1639年に着工した城塞。城壁や城門が赤砂岩で構築されたことに由来してラール・キラー(レッド・フォート)と呼ばれている。上の写真右上は、1656年シャー・ジャハーン帝によって建てられたジャミー・マスジド(金曜モスク)。インド最大を誇る。上の写真左下はインド門(1929)。第1次世界大戦で戦死したイギリス領インド帝国の兵士を追悼するための門型慰霊碑。設計はエドウィン・ラッチェンス。上の写真右下はマハトマ・ガンディー記念公園(ラージ・ガート)の奥にあるガンディーの慰霊碑。

フマユーン廟
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e0116578_16475637.jpgムガル朝の第2代皇帝フマユーンの墓廟(1565)で、チャール・バーグ (char-bagh : チャールは4、バーグは庭園の意味で、池を中央に配して十文字に水路で区切った庭園。4本の生命の川と神と人間の相合(あいあい)をシンボル化したもので、四分庭園とも訳されるペルシャ式庭園計画の基本形) の中の廟としてはムガル建築の最初の実例とされ、後に続くムガル朝の廟建築の原型を示すものとされている。上の写真は、水路で分割された巨大庭園の中央に建つ4面同じファサードのフマユーン廟。優雅な4芯アーチが連続する高さ7mの大きな基壇上に建つ墓廟は、イスラム建築を特徴づける大小のイワーンが配され、赤砂岩に白大理石の象眼装飾が施された壁が建物全体を彩り、中央八角形の広間上部に、高さ38mの白大理石で覆われたドーム屋根が載るという彫刻的な建築である。左の写真は白大理石の模棺(セノタフ)が中央に置かれた八角形の広間。フマユーンの遺体を納めた実際の棺は模棺の直下に安置されているという。


ラクシュミーナーラーヤン寺院
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ニューデリーのビジネス街コンノートプレイス西側の、マンディア通りに面して建つラクシュミーナーラーヤン寺院は、ヒンドゥ教三大神の中のヴィシュヌ神の化身ナーラーヤンと、ヴィシュヌ神の妻ラクシュミーを祀る“ナガラ”スタイル (インド中世の寺院建築における北方型の様式で、聖室の上部を形成するシカラ(塔状部)の垂直性が強調されている。) のヒンドゥ教寺院。創建は1622年とされているが、現在の姿に再建されたのは1938年。インド有数の財閥であるビルラー家の資金援助で建設されこともあり、また管理運営もビルラ―財団によってなされていることもあって、別名ビルラ―寺院という呼名もある。設計は「近代インド建築運動」の提唱者とされるチャンドラ・チャタジー(1873~1966)という建築家。民族主義の高まりで伝統的な価値観や文化回帰が求められた時代であっただけに、白大理石と伝統的な赤砂岩のシトカが林立する形態は、人々が受け入れやすいものであったに違いない。(写真上) 下の写真は中央の祭壇広間。祭壇奥にナーラーヤン(左)とラクシュミー(右)像が安置されている。
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by toshinac | 2015-05-15 17:01 | trip photos