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カーシャーン/四半世紀前のイラン

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サファヴィー朝期に栄えた古都カーシャーンは、聖都ゴムから南下すること約120km、カヴィール砂漠(アルボルズ山脈南東部、イラン高原にある幅320km長さ800kmにも及ぶ広大な沙漠)の西端に位置している。Great Salt Desertと表記されるように、折出した塩の層が地表を覆う“塩砂漠”があるほどの乾燥地だが、イラン南西部を走るザグロス山脈系の雪解け水を利用したカナート(地下水路)等で、灌漑用水を確保することで発達し、陶器の生産と美術・学芸の都として名を馳せ、サファヴィー朝下では絹織物や絨毯などの産地として栄えたオアシス都市。前出(ゴム/四半世紀前のイラン)の吉田正春のペルシャの旅には「・・・北より来るもまた南より来るも、旅客は皆ここに来集す。市上の駱駝驢騎は貨物と共に輻湊し、恰(あたか)も沙漠の要口すなわち大海における港湾と相同じ。」と記されている。
この自然環境が薔薇の栽培に適したことで、近郊の農村では古くから薔薇水や薔薇油が生産され、近年は“カーシャーンの薔薇水”として広く世界に知られるところ。ちなみに薔薇の原産国はイランで、薔薇は国花でもある。上の写真は、バザールの屋根の上から眺めたザグロス山脈とカーシャーン旧市街。

バザール
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e0116578_11372816.jpg上の写真は、沙漠の砂埃や夏の暑さ、冬の寒さをしのぐ土塗りのドームが連続するバザールの屋根。


左の写真は、長いバザールの中程にある大ドームを頂いた広場で、周囲の部屋はかつてのキャラバンサライ(隊商宿)。ドーム頂部や側面の開口から降り注ぐ光が、“ムカルナス”と呼ばれる蜂の巣のような立体的な装飾(10世紀以降中東を中心に発達した装飾だそうで、時代を下るごとにその緻密さは増したという。)を効果的に浮かび上がらせる。







下の写真は、そのキャラバンサライの広場を覆う大ドームの外部。
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ボルージェルディー(Borujerdis)邸
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19世紀に造られたこの住宅は、カーシャーンの裕福な貿易商であったハジセイェド・ハッサン・Natanzi(ボルージェルディーは愛称)氏の私邸で、建築家アリ・マリアム・カーシャーニ(19世紀に活躍したイランの建築家)が設計し、完成(1857年)には18年の歳月を要したとされている。ペルシャの伝統的住宅建築の傑作と評され、現在は博物館として一般に開放されている。
上の写真は、緑と水で潤うボルージェルディー邸中庭を見る。正面は夏の暑さをしのぐ開放的な場所“ターラール”。屋根に突き出た2本のバード・ギール(Wind catcher)と呼ばれる採風塔が、外部に対して窓を持たない住宅に通風をもたらし、地下に導かれたカナートからの水が冷却水となって夏場の涼をとる場となっている。下の写真左は入口。扉に取り付けられた左右のドアノッカーはデザインが異なり、左の円環状は女性訪問者、右の棒状は男性訪問者用である。下の写真右上は玄関ホール上部見上げ。下の写真右下は、バード・ギールとターラールのドーム形態がユニークな屋上部分。さらに下の写真は、ボルージェルディー邸の屋上越しにザグロス山系の雪山を望む。
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アガー・ボゾルグ・モスク
カーシャーン旧市街中心部にある神学校を併設したこの歴史的なモスクは、建築家ハジ・Sa’ban・アリ(18世紀のイラン人建築家)によって、18世紀の後半に構築されたカジャール朝を代表する建築の一つとされている。このモスクの特徴は、砂漠性の気候を考慮したこの地域の他の建物と同じように、木々の緑が生い茂る中庭を設けていることだが、中庭は地下に造られ、その周りを神学校の学び舎が取り囲むという形態となっている。深さはないが中国の“下沈式窰洞住居”の構成だ。この建築には、弟子であったアリ・マリアム・カーシャーニ―(ボルージェルディー邸の設計者)も関わったといった説もあると聞くと、この地域の伝統的住宅の要素が見られるというのも納得してしまう。
下の写真2葉は、中庭を介して見たモスク(上)と反対側からの眺め(下)。
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フィン庭園
カーシャーンの南西に位置するフィン庭園は、16世紀のサファヴィー朝に造られたペルシャ式庭園(水路によって田の字型に分割された幾何学的な庭園で、四分庭園(チャハル・バーグ)ともいう)で、2012年にユネスコの世界遺産に登録されている。カナートで導かれた水が、地形の傾斜と管径を変えて水圧を調整する方法を用い、水路の中に小さな噴水を連続させているのが特徴的。
下の写真は、庭園中央のある4面開放のパヴィリオンから見た水路。訪れた当時はイランの国家遺産にはなっていたが、国内情勢もまだ戦後の復興時期、庭園の整備にはまだ時間を要するのでは?といった印象だった。
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by toshinac | 2016-02-25 09:58

ゴム/四半世紀前のイラン

テヘランから南に車で約135kmにあるゴム州の州都ゴムは(かつて日本では「コム」と表記されていた)、イスラム共和制のもとで革命を主導してきた宗教保守派の牙城と言われている宗教都市。十二イマーム派(歴史上12人のイマーム(指導者)が現れたシーア派諸族の中で、最も信者数が多いとされる最大派)の第8代イマーム・レザー(765~818)の妹ハズラテ・マアスーメがこの地で客死したことで廟が造られると、シーア派の巡礼地として発達。廟に付属して設けられたホウゼ(聖職者を養成する宗教学校)はこの地域の十二イマーム派における教学の核となり、サファヴィー朝になって十二イマーム派が国教化されると、その保護のもと隆盛を極めたゴムは、シーア派の人々にとっての聖地の一つとなっていく。
18世紀頃、イラクのナジャフ(バグダットの南約160kmに位置し、シーア派の初代イマームであるアリーの墓廟がある)が聖地として重要な巡礼地になると、ゴムは相対的に目立たない存在になっていったらしいが、イラクの社会情勢の変化に伴いナジャフが衰退。代わって1921年にゴムに創設されたホウゼ・ウルミーエ・ゴム学院の活動によって、ゴムは十二イマーム派教学の中心地として復活し、いまでは教学を学ぶ多くの留学生が訪れる国際宗教都市となっている。この学院で学び、教鞭を執ったイラン・イスラム共和国の最高指導者であるホメイニ師は、革命後の一時期、国政をゴムから司っていた。
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e0116578_143597.jpg上の写真はハズラテ・マアスーメ・モスク前の広場。左の写真はモスク入口から覗いた、聖域ハズラテ・マアスーメ・モスク。現在は観光客も入れるようだが、当時は異教徒の立ち入り厳禁。街の雰囲気は、写真を撮るのも憚れるほどの緊張感を感じた時代。下の写真はテヘランから通じる道路上から遠望したゴムの街。イスラエルとアメリカを糾弾する看板はどこでも目に付いた。更に下の写真は、ゴムからカシャーンに向かう途中の荒漠たる風景。
1880年(明治13年)、外務省理事官としてペルシャ(1935年イラン国名改称)に派遣された吉田正春(土佐藩の参政吉田東洋の長男1851~1921)の見聞記「回疆探検・波斯之旅」には、当時のゴムの様子が次のように記述されている。
「コムは砂漠に突出せる一山脈西端にして、その城市の高所は鉄漿色(お歯黒色のこと)の岩石に囲繞せられ、低所は赭色(赤土)の瓦屋参差(不揃いの瓦屋根が入り混じっている様)として、四、五千の人口あり。・・・・・市城の小なるに比し寺院は極めて宏壮にして、城の外垣は全くこの寺院を囲い込むために設けたる如き観あり。」
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by toshinac | 2016-02-04 14:12 | trip photos