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アテネのアクロポリス/ギリシア

アテネのアクロポリス/ギリシア_e0116578_10365651.jpg
アクロポリスとは、古代ギリシアのポリス(都市国家)の高所に造られた聖域で、域内には都市の守護神を祭る神殿や公共建築物が設置され、市政の重要な祭儀が執り行われたり、非常時の比護所となったりもした、“古代ギリシアの都市国家における宗教的・精神的な中心地”。ギリシア国内に幾つか残るアクロポリスの中でもアテネのアクロポリスは代表格。
上の写真はフィロパポスの丘より眺めたアテネのアクロポリス全景で、手前にローマ時代に造られたオデオンの音楽堂遺跡を見る。海抜150m、東西270m、南北156mの石灰岩の台地上に、パルテノン神殿をはじめ、ペリクレス(B.C.495?~429:古代ギリシア、アテネの政治家で、アテネの民主政治と帝国が最高の発展を見た時期の指導者。)の執政時期(B.C.444~429)を中心としたアテネの黄金時代に、ギリシア建築の傑作が建てられた。

パルテノン神殿
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上の写真はパルテノン神殿全景(B.C.447~432)。守護神アテナを祭る神殿はアクロポリスの中心にあり、正面8柱、側面17柱の周柱式神殿。基壇とエンタブラチュア(柱頭上部の水平に構築される部分で、モールディングや帯状装飾で飾られる。)にはむくりがつけられ、柱もごく僅かなエンタシス(膨らみ)をもっており、元来垂直であるはずの柱や壁も内側に傾斜し、隅の柱は対角線方向に傾けるなど、視覚上の補正が施された比例美はギリシア建築の極みといえる。

アテネのアクロポリス/ギリシア_e0116578_10402687.jpg
左の写真は、ドーリア式オーダーのエンタブラチュア部分。古代建築の重要な要素であるエンタブラチュアは、一般的にはアーキトレーブ(各円柱間や円柱と壁との間に渡された直上部分)、フリーズ(アーキトレーブの上にあり、装飾が有る場合と無い場合がある帯状の部分)、コーニス(エンタブラチュアの最上部に置かれる部材で、破風の下に張り出した部分)、の3部分から成り、かつては色鮮やかな彩色が施されていた。







下の写真は正面。古代ギリシアとローマの古典的神殿建築の、対称性や奥行、その価値観に基づく設計から派生したヨーロッパの建築様式、いわゆるパラディアン様式の根源ともいえるパルテノン神殿。
アテネのアクロポリス/ギリシア_e0116578_1044157.jpg

プロピライア
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上の写真は、アクロポリスの入口である西側の急斜面を上りきる所に造られた門“プロピライア”(B.C437~433:ラテン語とギリシア語から「前門としての建物」と言う意味)を見上げる。東西両面にドリス式の6本柱の門屋と、南北に張り出す翼屋から成り、北翼屋はピナコテカ(絵画館)と呼ばれている。また門屋の中央通路の両側には3本のイオニア式の柱が配されていることから、ドーリア式と、イオニア式の折衷的な効果が特徴となっている。
下の写真は、アクロポリスの入口を北西側から仰ぎ見る。手前にピナコテカ、入口階段を挟んで南翼屋とアテナ・ニケ神殿を見る。
アテネのアクロポリス/ギリシア_e0116578_1050161.jpg

アテナ・ニケ神殿
アテネのアクロポリス/ギリシア_e0116578_10515949.jpg
上の写真は、アクロポリス入口右手(南西)の稜堡上に建つアテナ・ニケの小神殿。B.C.6世紀に建設されたアテナ神殿が、B.C.480年にアケメネス朝ペルシャに破壊されたため、その廃墟の上にB.C.427年~424年頃に建設されたもの。だが神殿は1687年には取り壊されて砲台の部材にされていたのを、1835年に再発見され、1935年~1940に元の位置に再建された。基壇の前後それぞれに4本のイオニア式の柱が立ち、フリーズには神々の中央に座すアテナとアテネの戦士たちが刻まれている。しかしペディメントは失われたままである。

toshinacHP
# by toshinac | 2018-06-01 01:00 | trip photos

マテーラ

“洞窟都市”として知られるマテーラは、プーリア州の西に接するバジリカータ州(イタリア半島を長靴に例えればちょうど土踏まずにあたる)にあり、イオニア海から70kmほど内陸に位置する世界遺産の町。
その起源は新石器時代に遡り、マテーラの大地に深く刻まれた巨大なグラヴィーナ渓谷の東向き斜面に始まる。軟らかな凝灰岩の地質は自然の浸食を受けやすく、渓谷の斜面には自然の洞窟が点在していたことから、人々はその洞窟に自然と住み着いた。時代が下った8世紀頃からは、イスラム勢力を逃れたギリシャからの修道僧が大挙して移り住み、自然の洞窟だけでなく、斜面を削った崖に横穴を規則的に掘り、入口や窓を設けた修道院や住居を崖の各層に構えていったという。その後15、16世紀頃までには石造りの地上の住居も加わり、現在に見られるセットバックしながら重なる高密度集落の景観を呈していったようである。
このような洞窟住居群をマテーラではサッシ(石や岩を意味するサッソの複数形)と呼び、渓谷の中央部に突き出た高台のチヴィタ地区南側に展開するサッソ・カヴェオーゾ地区と、北側のサッソ・バリサーノ地区という二つのサッシがある。
マテーラ_e0116578_9194353.jpg
上の写真は、グラヴィーナ渓谷の対岸から眺めたサッソ・カヴェオーゾ地区。二つのサッシの間にあるチヴィタ地区に建つドゥオモの鐘楼が、“洞窟都市”マテーラの景観をひときわ際立てる。
下の写真は、ドゥオモを中心とした高台のチヴィタ地区を望む。斜面には、洞窟の前面に壁や部屋を設けた混成型の住居と、完全に地上建てた石造りの住居が段状に混在し、すべてが同一の素材で構築されていることは、あたかも岩山を掘り刻んで造られた都市ではと想わせる景観である。
マテーラ_e0116578_9225780.jpg

マテーラ_e0116578_926143.jpg

マテーラ_e0116578_9271720.jpg上の写真は、サッソ・カヴェオーゾ地区の南のゾーンで、渓谷の下の方には自然の洞窟が点在し、その上には崖面を造ってそこに開口を設けただけの洞窟住居がならび、その上層には穴の前面に切石を積んで増築した住居が見られ、さらに一番上の地上には複数階の住棟群が建ち並ぶという、洞窟住居の生い立ちからその発展の軌跡を目の当たりにできる地区である。

左の写真は、チヴィタ地区の北側の渓谷に展開するもう一つのサッシ、サッソ・バリサーノ地区。




下の写真は、サッソ・カヴェオーゾの南ゾーンからチヴィタ地区を眺める。近代化から取り残され、住民不在による荒廃が進んだサッシの古い地区は、1993年の世界遺産登録以降、“洞窟都市マテーラ”として、現代の都市生活にも適合した再生を目指している。
マテーラ_e0116578_9301393.jpg

toshinacHP
# by toshinac | 2018-05-05 09:31 | trip photos

ロコロトンド

プーリア州バーリ県のコムーネの一つであるロコロトンドは、州中部の「ムルジェ地方」と呼ばれる丘陵地域の南東部「ムルジェ・ディ・トゥルッリ」の高台にある都市で、町の南側には、「イトリアの谷」と呼ばれる葡萄畑やオリーブ畑が続くのどかな農村風景が広がり、地域名「ムルジェ・ディ・トゥルッリ」が示すとおりトゥルッリの農家が多く点在する。
その美しい谷を見晴らすことができるロコロトンドのチェントロ・ストリコ(歴史的街区)は、「クルメルセ」と呼ばれる急勾配の切妻屋根の建物が連なり、それが円形の輪郭を形成して市壁を兼ねるというめずらしい“円形都市”。古代ローマの殉教者サン・ジョルジョを祀った教会の周りに生まれた村落で、「カサーレ・サン・ジョルジョ」と呼ばれていたそうだが、12世紀の前半には円形状の集落が形成されて、「カサーレ・ロトンド」、後に「ルオーゴ・ロトンド」と呼ばれ、1834年に現在のロコロトンド(ロコ=場所・ロトンド=丸い)と呼ばれるようになったと言われている。ただ、これほどきれいな円形の都市がなぜできたのか、その形成過程は定かではない。
ロコロトンド_e0116578_951445.jpg
上の写真はロコロトンドの凧写真。現在ならばGoogle Earthやドローンで容易に俯瞰することが可能だが、当時(1988年)は凧にカメラを付けての風まかせ写真。現像するまでどのように映っているかも分からないという、そんな時代の写真である。
街のほぼ中央に建つ教会は、1825年完成のマドーレ・サン・ジョルジョ教会。もともとこの場所には、1195年に建てられたサン・ジョルジョ教会と、16世紀に建てられたマドーレ教会という2つの教会があったことから、その跡地に建てられたことで2つの教会名を合わせた名称になっている。下の写真は、イトリアの谷にそびえる丘上のチェントロ・ストリコを円形状に縁取る住宅「クルメルセ」。
ロコロトンド_e0116578_9533659.jpg
ロコロトンド_e0116578_1002418.jpg
上の写真は円形状の外周を廻っていて見つけた目と眉毛を持つクルメルセ。
下の写真はロコロトンドの街区内部。ムルジェ地方の他の小都市同様に、連続する家屋の白壁と迷路のような路地、そこに取付く階段や路地を跨ぐバットレスなど、歩みとともに移り変わる街路空間のシークエンスに胸躍る。さらに下の写真はロコロトンド近くのイトリアの谷で見かけたトゥリッリの農家。
ロコロトンド_e0116578_1034938.jpg
ロコロトンド_e0116578_1081442.jpg
下の写真はGoogle Earthで見たロコロトンドのチェントロ・ストリコ。円形状の輪郭の中に、マドーレ・サン・ジョルジョ教会を中心に切妻屋根のクルメルセが密集する。
俯瞰写真は、いまではドローンによる撮影がもっとも効果的と思えるが、現地で凧を組み立てて、風を読みながら撮影範囲を想定してシャッターをきる凧写真は、そのときの撮影行動も含めて鮮明に甦るので、それなりに貴重な写真となっている。
ロコロトンド_e0116578_1084270.jpg

toshinacHP
# by toshinac | 2018-04-16 10:17 | trip photos

アルベロベッロ

しばしば長靴の形で例えられるイタリア半島の、踵の部分にあたるプーリア州の小さなコムーネ(基礎自治体)の一つアルベロベッロは、白壁に石積のとんがり屋根という、この地方の伝統的な家屋であるトゥルッリ民家の集落で知られる世界遺産の小さな町。
アルベロベッロのあるムルジェ地方は、肥沃な表土のすぐ下に石灰岩の層があることから、良好な石材を容易に得ることができ、それを積上げて壁を造り、ドーム状の屋根を架けた建築が古くから造られてきた。その発展した形ともいえる円錐形ドームを持つトゥルッリは、素朴な農家の孤立した形式が本来の姿だが、それが集まって町のような景観を見せるのがアルベロベッロである。
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アルベロベッロ_e0116578_9241178.jpgイタリア建築史の研究者によれば、現在のアルベロベッロは、15世紀・16世紀頃には分散していたトゥルッリの小集落が、17世紀・18世紀の発展に伴って拡大し、結果トゥルッリの大集合体が形成されたという。「アルベロベッロのトゥルッリ」として世界遺産に登録されている地域は、町の東部高台のアイア・ピッコラ地区と、横長の谷状の底にあるジュゼッペ・マルテロッタ広場から、南に展開する北向き斜面のモンティ地区である。ユネスコによればアイア・ピッコラ地区には1030軒、モンティ地区には590軒のトゥルッリが現存しているそうである。
上の写真は、モンティ地区のトゥルッリ集落を、対面する高台からマルテロッタ広場越しに見晴るかす。

左の写真はマルテッロ広場から上る通りの昼下がり。坂の両側の民家の多くが土産物屋を営んでいるが、果樹園等の農業に従事している家も少なくないようである。
下の写真はモンティ地区の別の通り。緩やかな弧を描く坂道の両側に、壁を共有しながら整然と連なるトゥルッリの民家。
アルベロベッロ_e0116578_9332063.jpg

下の写真2葉はアイア・ピッコラ地区のトゥルッリの町並み。
モンティ地区に比べ少し古い地区だけに、さまざまな形のトゥルッリが不規則に連なるが、不思議と統一感のとれた美しい町並みが形成され、土産物屋が多いモンティ地区と違い観光客の数も少なく、落ち着いたたたずまいを見せている。
アルベロベッロ_e0116578_9361086.jpg
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下の写真はアイア・ピッコラ地区にあるトゥルッロ・ソヴラーノ。主権者のトゥルッロ(トゥルッリの単数形)と呼ばれているだけに、一般のトゥルッリに比べると規模も大きく、石積にモルタルを使用するなど、建築の技術にも変化が見られ、トゥルッリでは殆んど見られない2階のある造りとなっている。最も古い部分は17世紀初頭のもので、18世紀に拡張し現在の形が造られ、その後領主の館や地元司祭のための施設など、様々な役割をはたしてきたという。現在はトゥルッリ博物館になっている。
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上の写真は、プーリア州ムルジェ地方の通称オリーブ街道沿いに点在するトゥルッリ。左上はアルベロベッロと見紛うばかりのオストゥーニ近くのトゥルッリの集落。左下は、同じオストゥーニ近くで見たオリーブの木に囲まれたトゥルッリだが、石積みの壁に石灰が塗られていないことからか、素朴でいかにも農家という印象を受けたトゥルッリ。右上下は、州都バーリの北西約30kmの小さな港町モルフェッタから、さらに北西約20kmの港町トラーニに向かう途中のオリーブ畑の中に見た珍しい渦巻き状のトゥルッロ。壁から屋根に連続して石を積上げて空間を獲得するこのトゥルッロは、いまは農機具の置場や倉庫として使用されているようだが、元来トゥルッロは農夫が休憩したり、農繁期に宿泊したりする場所だったことを考えると、これはトゥルッリの祖形ではと思えてくる。
下の写真は折り紙建築のシフトカード「アルベロベッロ」。1枚の紙で作られており、折り重なった上下を摘まんで横に移動させると奥行感のあるカードとなることから、シフトカードと呼んでいる。(作:中沢圭子
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toshinacHP
# by toshinac | 2018-03-28 09:46 | trip photos

ヒヴァ (2)/ウズベキスタン

クフナ・アルク
ヒヴァ (2)/ウズベキスタン_e0116578_16173872.jpg
上の写真はクフナ・アルクの城門前広場。
イチャン・カラ(内城)の西門北側の一角にあるクフナ・アルク(古い宮殿)は、鋸歯状の高い土壁によって囲まれた17世紀のハーンの居城。中にはハーンの公邸をはじめ、モスクやハーレム、兵器庫や火薬工場、それに造幣所などもあったという要塞。城壁の最上部にあるアク・シェイフ・ババの見張り台は、イチャン・カラを一望できるベストポジションとなっている。
ヒヴァ (2)/ウズベキスタン_e0116578_16191567.jpg

ヒヴァ (2)/ウズベキスタン_e0116578_1620658.jpg上の写真はクフナ・アルク内のスナップショット。
左上は城壁。
右上は造幣所の中庭にある夏のモスク。アッラクリ・ハーン(アッラーフ・クリ・バハドゥール:在位1825~1842)の命により1838年に建設。
上の写真左下はハーンの接見の間であるクリヌッシュ・ハナのアイワン。17世紀に建てられたが、1740年のペルシャによる攻撃で破壊されてしまい、現在見るアイワンは19世紀の初めに再建されたもの。
右下は同じ中庭を囲むロッジア風の建物。2階のアイワンの屋根奥にアク・シェイブ・ババの見張り台を見る。
左の写真は、城壁最上部にある、14世紀の建造とされるアク・シェイブ・ババの見張り台。緻密な彫刻が施された風化した木柱が時の流れを想わせる。
下の写真はクフナ・アルクの城壁上から眺めたイチャン・カラ。
クフナ・アルクの城門越しに、ムハンマド・ラヒム・ハーン・マドラサやジュマ・モスクのミナレット、右奥にイスラム・フッジャのミナレットを望む。
ヒヴァ (2)/ウズベキスタン_e0116578_16232110.jpg

ムハンマド・アミン・ハーン・マドラサとカルタ・ミナル
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西門を入ってすぐ右にあるムハンマド・アミン・ハーン(在位:1846~1855)のマドラサは、1852年の完成。中央アジアで最も大きな規模の神学校で、イスラムの最高裁判所の事務局も置かれた処。1977年よりホテルとして利用されている。

ヒヴァ (2)/ウズベキスタン_e0116578_16263779.jpgムハンマド・アミン・ハーン・マドラサに沿って建つカルタ・ミナルは、1852年に着工されるが、アミン・ハーンがペルシャとの戦いで亡くなったことで工事が中断され、“未完のミナレット”として現在に至っている。中央アジア一の高さを目指したという規模の大きさと、青の彩釉タイルで覆われた美しさから、イチャン・カラのシンボルとなっている。
上の写真は、クフナ・アルクの城壁上から見たムハンマド・アミン・ハーン・マドラサとカルタ・ミナル。奥にイスラム・フッジャのミナレットを望む。

左の写真は、マドラサとカルタ・ミナルに架けられたブリッジ。


下の写真は、朝日を浴びるカルタ・ミナルと観光用の駱駝。手前のドームはラヒム・ハーン・マドラサの施設であったが、現在は “Bir Gunbaz Tea House”というカフェになっている。右奥にアク・シェイブ・ババの見張り台が見える。
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タシュ・ハウリ宮殿
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ハーンの公邸であるクフナ・アルクに対し、ハーンの私邸であるタシュ・ハウリ宮殿は、1830年から1838年にかけてアッラクリ・ハーンによって建てられた。163の部屋と3つの大きな中庭、5つの小さな中庭からなる邸宅で、建物配置としては簡素な構成の建築だが、広い壁面を利用した彩釉タイルの装飾や、木柱の複雑な彫刻の美しさが高く評価されている。
上の写真はハーレムのある北側の中庭。北向きのアイワンが5つ連続する棟には4人の正妻が住み、中庭を囲む2階建ての小さなアイワンのある部屋はハーレムの女性達の部屋で、ハーンは中庭に建てたユルタに居ることを好んだそうである。下の写真は、アイワンの壁と天井を彩るタイル装飾と木柱。
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ジュマ・モスク
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中央アジアでも有名な多柱式建築として知られるジュマ・モスクは、10世紀頃の創建以来、幾度かの修復工事を重ね、現在の形になったのは1788年から1789年にかけてのことだそうである。
広さ約55m×46m、何の装飾もない焼成煉瓦の分厚い壁に囲まれた陸屋根の建築で、窓もなく、明かりは天井に設けられた2ケ所の開口部、いわゆる“光の井戸”のみ。暗いモスク内には陸屋根を支える212本の木柱が約3mの間隔で林立し、光の井戸から差込む明かりが神秘的な空間を創出する。彫刻が施された木柱は同じデザインのものは無く、古いものでは10世紀~11世紀のものもあるという。
クフナ・アルクやタシュ・ハウリ宮殿のアイワンでも見られるように、緻密な彫刻が施されたヒヴァに見る木柱は、辣韮(らっきょう)のような形状をした根元部分に特徴があり、独立した基礎との間に、鉄パイプ状の接合部材を設けている。それは接地面の腐食防止ということだけでなく、もともと遊牧の民であった彼らの建築空間である“天幕”を支える柱が様式化されたものではと、岡野忠幸氏は自著「シルクロード建築考」で述べている。確かに細く絞られた根本をみると、組立解体に容易な天幕の柱が象徴化されているのかな?と想像できなくもない。

パフラヴァン・マフムド廟
ヒヴァ (2)/ウズベキスタン_e0116578_16421199.jpg
ジュマ・モスクの真裏に位置するパフラヴァン・マフムド廟は、1664年に創建、1810年に現在の煉瓦造りに改築され、ドーム屋根の完成は1835年だそうである。ヒヴァの守護者として尊敬されていたパフラヴァン・マフムド(1247~1326)の墓を中心に、ムハンマド・ラヒム・ハーン(在位:1807~1826)やその親族などの墓もある合同の廟となっている。
偉人の傍に葬られると天国に行けるという俗信か、廟の周囲には多くの墓が造られている。

toshinacHP
# by toshinac | 2018-03-01 01:00 | trip photos