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ブータン王国/ティンプー(1)

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ブータンの首都ティンプーは平均値で標高約2400mにある高原都市。ブータンでは国王の所在地をもって首都としてきたことが慣例で、冬季は温暖なプナカ(ティンプーの東約75kmで標高約1200mの古都)に首都機能が移っていた。1950年代に第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクがティンプーに宮殿を建設し、年間を通じて居住するようになったことで本格的な首都建設が始まり、1955年から恒久的な首都となっていたという。「照葉樹林文化論」の提唱者である植物学者の中尾佐助(1916~1993)が1958年にブータンを訪れたとき、ティンプーの王宮で国王に謁見したことが広く知れわたり、神秘の国ブータンの首都がティンプーに移転していたことが世界に明らかにされたと言われている。プナカからの遷都が完了した1961年、ティンプーがブータン王国の首都として宣言された。
上の写真は、朝雲たなびくティンプー市街の山の手。
下の写真は伝統的な家屋が軒を連ねる通り。
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上の写真は市内点景。左上は中心部のノルジン・ラム通り沿いにある時計塔広場。左下は市場。右上は裏通りの住宅街。右下は中心街の交差点。ブータンでは信号機はあえて設けず、警察官が手信号で車を捌く。下の写真は、店先にダルシンを立てて商売を営む市内の住宅。
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# by toshinac | 2017-06-17 08:08 | trip photos

ブータン王国/パロ(3)

タクツァン僧院
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ブータン随一の仏教聖地であるこの僧院は、パロ市街の北西約10kmに位置し、標高3000mを超える切り立つ断崖に建つ。8世紀後半に高僧グル・リンポチェ(パドマサンババ)が、チベットから虎の背に乗ってこの地にやって来たという伝説がブータンへの仏教伝来の話として信じられており、グル・リンポチェはこの地の洞窟で3ヶ月間瞑想を続け、その後パロに仏教を広めたと言われている。タクとは虎、ツァンは巣を意味するところから「虎の棲家」という、伝説に基づく名称が付いたタクツァン僧院は、14世紀にはお堂の一つが建っていたらしいが、現在の姿は17世紀末の創建とされている。
訪れた1996年当時、僧院には40名ほどの僧が修行に励んでいると聞かされただけで、僧院内の参観はできなかった。1998年の火事で建物は全焼してしまうが、2004年には完全に修復が終わり、元の姿を取り戻す。現在は内部参観も可能になっているという。
上の写真はタクツァン僧院近景。焼失前の1996年の撮影。

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上の写真左は、麓からの山道を1時間ほど登った所にある展望台から眺め。切り立つ崖の中腹に建つ僧院。右の写真は途中の民家。庭先に埋め込まれた木製の浴槽(ドツォ)で、水を張り、熱した石を入れてお湯にする。日本の風呂と同じように熱い湯に入る風習はアジアでもめずらしい。
下の写真は、さらに登った開けた場所にあるマニ車のお堂。傍らにはダルシン(長い棒に経文書いた布を取り付けた幟)がはためく。
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ドゥルックヤル・ゾン

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パロ市街から北西に約14km、パロ渓谷上部の尾根上に建つドゥルックヤル・ゾン(通称ドゥゲ・ゾン)は、1644年にチベットとモンゴルの合同軍を撃退したことを記念して造られたとされる城砦で、1646年~1649年頃に建てられたが、 1951年にバターランプの火により失火し廃墟となってしまう。
この地域の防衛上の重要拠点としての役目は僅かな期間ではあっが、ブータンの人々にとっては、国の主権の維持に貢献した出来事と結びつける重要な記念碑となっているという。
晴れた日には、ゾンの背後の山のさらにその奥に、万年雪を頂いた女神の山チョモラリ(7315m)が展望でき、ブータンで最も美しい城砦遺跡となる。
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# by toshinac | 2017-06-06 09:27 | trip photos

ブータン王国/パロ(2)

パロ・ゾン
ブータンは現在20の県(ゾンカク)に分かれていて、県庁には基本的にゾン(チベット文化圏多く見られる城砦建築)があり、行政庁舎と僧院を兼ねた聖俗両方の中心として機能していることが多い。パロ谷を見下ろす山腹に建つパロ・ゾン(正式名リンプン・ゾン)も、パロ県の県庁であり多くの僧が修行する寺院でもある城砦建築で、リンプン・ゾンとは宝石の山の城という意味だそうである。創建は15世紀とされているが、現在の姿は20世紀初頭の火事で焼失した後に再建されたものである。下の写真はパロ・ゾンの全景で、奥にかつての望楼であるタ・ゾンを見る。チベット・ラサのポタラ宮を彷彿させるが、一説には、ポタラ宮の増築時にパロ・ゾンも参考にされたという説もある。
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e0116578_1711398.jpg左の写真はパロ・ゾンへ通じる道に架かる橋の外観と内観。
架構方法が珍しく、山梨県大月市の桂川に架かる猿橋と同じ刎橋(はねばし:川の両岸にと呼ばれる角材を斜めに差し込んで中空に突出し、その上に重ねて同様の刎ね木を少し長く突出してこれをくり返し、対岸からの刎ね木と結合させたところで上部構造を組み上げるという、柱脚をつくらない架橋技術)で、現存する木造の屋根付き刎橋はめずらしい。
橋の上は一時の憩いの場にもなっている。
ちなみに、猿橋は鋼製の桁材に木材を貼り付けて、江戸時代の構造を復元したものである。





下の写真はパロ・ゾンの入口。
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上の写真は、パロ・ゾンの上に立つかつての望楼(タ・ゾン)で現在は国立博物館。めずらしい円形の建物で、山側上部のブリッジを渡って入り、展示物を見学しながら下りて行く。
下の写真は、チベット仏教には欠かせないマニ車が設えてある出口。
さらに下の写真は、博物館を出ると眼下広がる美しいパロ谷の風景とパロ・ゾン。
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# by toshinac | 2017-05-30 17:28 | trip photos

ブータン王国/パロ(1)

ヒマラヤ山脈の南東部にある小さな王国ブータンは、北は標高7000mの雪の山々でチベットと国境をなし、南は海抜100mほどの熱帯でインドに接するという、平地は極めて少ないヒマラヤ山脈の南斜面に位置する国。長く鎖国状態であった「神秘の王国」も1971年の国際連合加盟後、1974年から外国人観光客の受け入れを始め1983年には空路も開設。2008年に憲法が制定されて立憲君主国となる。国民の8割をチベット系が占めるという民族構成もあって、チベット仏教(ラマ教)が国教となっており、チベット仏教4大派の一つであるカギュ派の中のドゥルック派に属している。
そんな神秘の国ブータンを訪れたのは、20年以上前の1996年のことである。現在の状況とは違っていることも多いとは思うが、当時の長閑なブータンの風景を紹介したい。
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空の玄関口であるブータン国際空港は、標高2300mの谷間に水田が広がる小さな町パロにある。市街から6kmほど離れた空港は周囲を高い山々に囲まれているため、パイロットは離着陸に高度な技術が要求されるという。山の斜面をすれすれに飛び、それほど長くない滑走路をめがけて谷間に突き進むような感覚に若干緊張を覚えたものである。また有視界飛行となるため離着陸は天候次第、出発地でパロの天候回復を待つという事態に遭遇することも少なくない。
上の写真はパロ谷の中の滑走路をパロ川越しに見る。
下の写真は、バンコックから4時間ほどのフライトでパロ空港に着陸したドゥルック航空の機体と乗客。
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e0116578_9214587.jpg左の写真はパロ中心部の目抜き通り。伝統的な建築が連なる街並みはブータンの古都を彷彿させれるが、近年は近代的なホテルやアパート等の建設が進み、周縁部の景観も変わりつつあるという。





下の写真は典型的なブータンの民家。比較的多く見られる3階建ての民家は土壁(版築)と木軸で構成されている。土壁の上に漆喰が施された外壁には、子孫繁栄を願った絵や魔除けの動物絵が描かれた民家を多く見る。
1階は物置や家畜小屋・飼料置場などが主で、2階に穀物倉庫や居室や納戸。3階に居間・食堂・寝室そして仏間が設けられているが、2階と3階が入れ代っている例も多く、言ってみれば2階以上が生活空間ということになる。
さらに吹放しの屋根裏スペースを設けて作業場や物干しの場として利用している。
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上の写真は見学させて頂いた民家。地元の大工さんの家でかなり大きな家だが、実際は2棟の住まいが中央の階段で仕切られた民家で、一つの屋根で覆われている。
下の写真の上左は、ブータンの住宅では一般的に設けられる仏間。年に数回、お坊さんを呼ぶ時のために使われる部屋だそうだが、他の部屋に比べ極めて豪華な造りになっている。上右は仕事部屋での機織り。左下の写真は寝室。右下は台所でのバター茶つくり。
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# by toshinac | 2017-05-16 09:32 | trip photos

アル・ケ・スナンの王立製塩所

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フランス東部フランシュ・コンテ地方の中心都市ブザンソンの、南西約30kmにあるアル・ケ・スナン王立製塩所は、フランス革命期の建築家クロード・ニコラ・ルドゥー(1736~1806)の設計。ルイ15世の治世下で製塩所の監視官という任にあり、徴税事務局の建築家であったルドゥーは、後に王立建築アカデミーの会員に推挙され“王室建築家”という立場となり、新しく建設が決定(1773年)されたアル・ケ・スナン製塩所の建築計画を委ねられ、ルイ16世の時代となって間もない1775年~1779年にかけて建設された。当初は製塩作業を合理的かつ組織的に行うため、製塩工場を中心とした円形の敷地内に、研究所や住宅や浴場等を備えた理想の産業都市が計画されていたが、経営難から工事は半円形の状態で中断し未完に終わるも、製塩所としての操業は1895年まで行われた。1982年世界遺産に登録され、現在は博物館や資料館として公開されている。
上の写真は資料館に展示されている製塩所の空撮写真。監督官(製塩所の所長)の建物を中心にして、半円形の円周に各棟が配置されることで、中心からの視線を否応なく感じさせることができるという、いわゆる「権力の視座」の構図を創りだしている。
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e0116578_10283036.jpg後期バロックの時代から新古典主義に続く時代背景の中で、建築を幾何学的形態で表現することを特徴としたルドゥーは、近代建築の黎明期に位置する建築家の一人と言われている。1789年のフランス革命で体制側の人間故に投獄され、建築家として実作の機会は失われるが、その後、思い描く理想を求めた計画やスケッチを数多く残してゆく。
アル・ケ・スナンの王立製塩所は、“幻視の建築家”として知られるルドゥーが実現した数少ない作品の一つなのである。

上の写真は製塩所の正面入口建屋。




左と下の写真は、半円形の中心に建つ監督官の建物。パラディアン様式の神殿のような建築は権力の象徴? さらに下の写真はその内部。
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上の写真は、中庭西側からの眺め。中央の監督官の建物の左右は作業棟。下の写真は西側作業棟の回廊部分。下の写真は半円の円周に沿って建つ労働者の住居棟などを、正面入口東側より西側を望む。
さらに下写真はGoogle Earthで見た製塩所。ルドゥーの当初の計画は、同じ半円形が反転した楕円形を核とした産業都市の構想であった。
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# by toshinac | 2017-01-29 10:41 | trip photos

サヴォワ邸/コルビュジエ

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コルビュジエの代表的作品でもあるサヴォワ邸は、パリ郊外ポワッシーのなだらかな丘上に建つ別荘建築で1931年の竣工。近代建築の5原則と言われるピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由なファサードが完成度高く具現化された建築で、その名は建築の歴史のなかで知らぬ人はいないのではと言われるほどであり、文化財として保存されている現在も見学者は後を絶たないという。かく言う私も1975年、1985年に訪れた。そして2016年の最新の写真を見ても、パリのラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸(1923年:コルビュジエ財団事務所)から続いたコルビュジエの“白の時代”を象徴する美しさは変わらない。上の写真は敷地の北東側から眺めたもの(1985年撮影)。
下の写真は東側ファサード(1975年撮影)。1階ピロティ奥のグリーンに塗られた部分はガレージの扉と、運転手の控室(建設時)の壁。2階左側は居間で中央と右はテラス部分。
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上の写真は南側ファサード(1975年撮影)。1階ピロティ奥正面が玄関ホール。2階は居間と厨房(左端)。屋上に日光浴のための空間(ソラリウム)を囲む壁が建ち上がる。
下の写真は玄関ホール(1975年撮影)。
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左の写真は、白の時代の始まりともいわれるパリのラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸(1975年撮影)で、内部の見学はかなわなかった。












下の写真は全て2016年撮影のもので、ものつくり大学教授八代克彦氏から拝借したものである。
下の上左はゲートからのアプローチが取りつく北側ファサード。上右は2階の居間。下の下左は2階厨房。下右は居間からテラスを見る。
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# by toshinac | 2016-12-16 11:51 | trip photos

ナンジェセール・エ・コリ通りのアパート

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パリ市南西部に位置するブローニュ・ビヤンクール地区の、ナンジェセール・エ・コリ通りとラ・トゥレル通りの二つの通りに面して建つこの建物は、最上階の8階と屋上ペントハウスが、コルビュジエ自身の住居とアトリエになっていた1934年竣工の集合住宅である。
クライアントが開発業者であったことによる複雑な契約条件や、地域特有の法的規制や資金難から、必ずしも設計当初の構想通りには進まなかったということもあってか、外観は見過ごしてしまうほど街並みにとけ込んでいる建築。 クライアントとの契約であったかは分からないが、コルビジュエは最上階を購入し、屋上にペントハウスを設けてゲストルームとするなど自費を投じて工事をし、そこから31年間の生涯を通じた住居としたのである。
上の写真は、8階のコルビュジエの自宅で、アトリエ側より見たリビング・ダイニング。ダイニングの左にキッチン、右に寝室がある。中央の赤と白に塗り分けられた部分はエレベータシャフトとP.S.部分を利用した小さな棚。下の写真は、ペントハウスへの廻り階段とアトリエと住居を仕切る大きな間仕切り扉を見る。
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e0116578_16361353.jpg左の写真は1975年に訪れた時のもの。外観を見る限りでは、直前に竣工したコルビジュエの代表的作品であるサヴォワ邸とは、個人住宅と集合住宅、郊外と街中といった用途や諸条件の違いもあって類似性は感じられない。どちらかと言えばガラスブロックつながりで、ピエール・シャロウ(1883~1950)設計のダルザス邸(1932通称:ガラスの家)との類似性を強く感じる。現に、コルビュジエはダルダス邸の工事現場に度々訪れてスケッチをしていたという話もあることから、少なからず影響は受けていたのかもしれない。
またコルビュジエとシャロウは、テオ・ファン・ドゥースブルフ (1883~1931 建築家で画家・美術家:新しい造形運動を広めるため “ピエト・モンドリアン”と雑誌「デ・ステイル」を1917年に創刊。抽象表現を追求し、絵画はもとより建築やデザインの分野にも大きな変革をもたらし、後のバウハウスへも大きな影響を与える。) 設計の自邸を見学し、必要に応じて部屋を仕切る大きな回転扉に魅せられたという。ちなみにシャロウ設計のガラスの家にも巨大な間仕切り扉が設けられている。
下の写真左はアトリエ部分を見る。右は寝室内のシャワーブース。
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# by toshinac | 2016-11-02 16:54 | trip photos

カップ・マルタンの休暇小屋/コルビュジエ

南仏のイタリア国境に近い地中海に面した小さな村ロクブリュヌのカップ・マルタン (カップ岬) は、モナコ公国に隣接するコート・ダジュールのリゾート地。コルビュジエ自身と妻イヴォンヌのための休暇小屋は、海岸沿いの岩場の崖上に建つ軽食堂「ひとで軒」の増築というかたちで1952年に建てられた。方3.66m(内法)の居住空間に幅70㎝ほどの通路状入口と便所が付いただけで、食事と入浴のための機能は無く、まさしく小屋:キャバノン(cabanon)である。
下の写真は木立に覆われた丸太小屋風の休暇小屋。木軸の壁に、丸太の布挽きで出る一番外側の丸身材を張り付けている。
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すでに社会的にも経済的にも成功を収めた世界的な建築家の別荘となれば、大方の人は大規模で瀟洒な意匠を凝らした建築を想像するに違いない。それがトイレとベッドと洗面器、それに棚と机が設けられた僅か8畳ほどの住まいは、流布されているような愛妻への誕生日プレゼントと言うよりも、パリという都会での美術・建築に携わる日常から距離を置くため、紺碧の海を見晴らすこの地で生活するに足る究極の住まいで、精神の安らぎと思索を深める場を求めたように思えてくる。
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e0116578_995960.jpgCIAM (近代建築国際会議1928) の発足メンバーでもあるジークフリート・ギーディオン (1888~1968:スイス出身の都市史家で、建築・美術の評論家であり研究者。ハーバード大学客員教授時代の講義録とゼミ録をまとめた著書「時間・空間・建築」は代表作) に宛てた1954年の手紙には、「私はそこで幸せな修道僧のように生活をしている」とあったという。ここでのコルビジュエの簡素な生活や考え方は、「方丈記」の作者である鴨長明の方丈庵 (一丈3.03m四方の一室空間の住まい。京都の下賀茂神社摂社である河合神社内に復元されている) での暮らしぶりとよく比較され、人生を達観した芸術家の終の住まいとして語られることもある。
上の写真は部屋の北東側に設けられたトイレとベッドで、赤いカーテンで仕切られている。
左の写真は入口通路。絵が描かれた壁に付くドアは「ひとで軒」への通用口で、食事とシャワーは「ひとで軒」で済ませていたという。
下の写真は南東側に開く窓と机と洗面器。全体はコルビュジエが考案したモデュロール(人体寸法と黄金比の基本寸法)をもとに設計されている。
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現地の休暇小屋見学ツアー資料などによれば、コルビュジエがここにキャバノンを建てた経緯は、アイリーン・グレイ (1878~1976:アイルランド生まれの家具・インテリアデザイナーで建築家) の別荘「E1027」が、ジャン・パドヴィッチ (1893~1956:ルーマニア出身の建築家・評論家で建築雑誌の編集者) の協力のもと、1929年カップ・マルタンに完成したことに始まる。
地中海を望む白いモダニズムの家「E1027」は、建築家として最初に手掛けた住宅にして彼女の代表作となり、またその時デザインした家具の一つ「E1027サイドテーブル」は後に名品となっていく。その才能にはコルビジュエも嫉妬したという話もある。「E1027」を称賛していたコルビュジエは、1937年パリ万博での共同展示を行っており、この頃には毎年のようにカップ・マルタンの「E1027」に訪れ、1938年の滞在時には壁にフレスコ画を描いている。(コルビュジエが勝手に描き、アイリーンを激怒させたという話もある)1948年「E1027」のすぐ近くに軽食堂「ひとで軒」がオープンし、オーナーのトマ・ルビュタトとコルビュジエの付合いが始まり、1951年にはルビュタトにキャバノンのスケッチを渡し、交渉の末「ひとで軒」東側の土地を借り受け、プロジェクトがスタートして1952年に完成。その返礼として、1954年「ひとで軒」の拡張計画である宿泊施設ユニテ・ド・キャンピングの設計図を完成させ、1957年に完成を見るが予算不足で5室のみ。ちなみに、修復中であったE1027は今年の8月から一般公開が始まったようである。
下の写真は、休暇小屋に関連する建物の位置関係をGoogle Earthで見る。
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上の写真は、埼玉県行田市にある「ものつくり大学」内に作られた「カップ・マルタン休暇小屋」の原寸レプリカである。これまでにも国内外のコルビュジエ展で、休暇小屋の原寸レプリカが展示されることはあったが、そのほとんどはインテリアで、外壁の丸太の丸身材の割付まで数えて作られた例は初めてのことだろう。
下の写真2葉は室内。家具・照明器具・洗面器など、細部にわたって精巧に複製されている。
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# by toshinac | 2016-10-09 09:31 | trip photos