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テヘラン/四半世紀前のイラン

1990年の4月、日本建築学会アジア建築交流委員会による、ペルシャ建築・集落・都市視察団に加わり、イラン中央部の北から南に点在する歴史的な都市や集落を訪れた。世界を驚かせたイスラム革命(1979年2月)後に起こった、イラン・イラク戦争(1980~1988)が終結して間もない時期であっただけに、テヘランでは戦後の復興はまだこれからといった状態であった。市街の至るところで中断した工事現場が目に付き、イスラエルやアメリカを糾弾するプロパガンダ目立ち、イスラム革命防衛隊なる組織(軍隊)の監視の目を気にしながらの旅だったことを思い出す。おそらく現在のイランとは隔世の感があるとは感じているが、基本的なところでは四半世紀前の姿と大きくは変わってないのではと思い、フィルム写真をパソコンに取り込みながら、異文化の建築に触れた時の感動を想い起している。
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イラン(イラン・イスラム共和国)の首都テヘランは、イラン中北部に位置し、アルボルズ山脈(エルブルズ山脈)の南麓、標高約1200mの扇状地上築かれた都市。サファヴィー朝(1501~1736)の初めに周囲8kmほどの市壁が巡らされた都市が築かれたが、この時代は軍の駐屯地にすぎず、本格的な町の発展は、1786年カージャール朝(1796~1925)がここに首都を移してからのこと。人口の増加に伴い市街地が拡張され、1871年頃には周囲18㎞の新たな市壁が巡らされた都市になったようだが、その後は産業や社会構造に特段の変化も無く、中世的なイスラム都市に留まっていたという。クーデターによってパフラヴィ朝(1925~1979)を開いたレザー・シャー・パフラヴィは、イランの近代化政策を急速に推し進め、1934年テヘランの都市改造にも着手。第2次大戦後には100万都市の仲間入りを果たすが、あまりにも急速な近代化は“脱イスラム化”を国民に強要するかたちとなり、結果強い反発が生じて王政打倒運動へと発展し、1979年ついに国王の国外退去で王朝は終焉。

e0116578_1045484.jpg入れ替わりに国外に追放されていた宗教指導者ホメイニ師が15年ぶりに帰国し、イスラム共和国の設立を宣言する。その間にも首都テヘランの人口は増加を続け、やがて都市化現象がおおきな社会問題となってくる。

上の写真は、アルボルズ山脈(エルブルズ山脈)の南麓に広がるテヘラン新市街を望む。当時は山の頂まではっきり見渡せるほど空気は澄み渡っていたが、近年のテヘランの大気汚染は深刻。昨年の12月にはPM2.5の指数が大幅に増加し、3日連続で市内の学校の休校と、住民に屋内退避を勧告するほどの事態になっている。

左の写真は、宿泊したホテルから見た北東方向(上)と東南方向(下)の市街。現在はかなりの数の高層ビルが建っているようである。
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上の写真は、中心街にあるマスジェデ・モタハリ(旧セパサラール・モスク)。カージャール朝時代の1830年に建てられたもので、6本のミナレットとモザイクタイルが美しい。
下の写真は、市域南東部のバザールに程近い下町の通り。朝の穏やかな陽の中で、登校のバスを待つのかチャドルを纏った親娘?の姿が微笑ましい。
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# by toshinac | 2016-01-22 11:02 | trip photos

九族文化村

台湾中部の景勝地“日月潭”近くの広大な敷地に展開する九族文化村は、台湾先住民9種族の、百年余り前の伝統家屋や集落を再現し、生活用具の展示や伝統的な習俗なども公開される観光名所。1986年の設立当初は、台湾における先住民は9民族が認定されていたため「九族」となっているが、現在(2014年)では16民族が先住民族として認定されている。

排湾族(パイワン族)
台湾南部の中央山脈や東南沿海地域を主な居住地としており、木彫や石彫に高い技術を持つ民族で、頭目、貴族、戦士、平民という4階級の階層制度の社会組織を成していたそうである。ただ両性の権利は平等で、男女の別は無く、長子であれば家を継ぐことができたという。下の写真2葉は排湾族の頭目住居内外。一枚石の天然スレート壁におどろき!
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上の写真は排湾族の集会所内外。居住地域によっては木や竹を材料とした家屋も多く見られる。

泰雅族(タイヤル族)
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e0116578_10504974.jpg居住地域は北部から中部にかけての山岳地帯。
祖先から伝わる禁忌と信仰の制度を持つとされ、男子は戦いに強く、女子は織物が上手であることを示すため、かつては成人式で顔に入れ墨を入れる習慣があったという。
上の写真は泰雅族住居の内外。丸太を重ねた壁が山の民を想わせる。

左の写真は見張り小屋の瞭望台。












魯凱族(ルカイ族)
主に台湾南部の高雄県、台東県、 屏東県、の中央山脈山地に居住し、排湾族に似た階層制度を有する父系社会で、独自の言語を持っていた。下の写真は魯凱族の貴族住居で、排湾族の住居に類似する。さらに下の写真は魯凱族の集会所内部。
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上の写真は魯凱族頭目住居の外部と内部。

布農族(ブヌン族)
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台湾中南部の山地、海抜1500m以上の高地に住む典型的な高山民族で、社会組織は長老制度による父系氏族の大家族社会で、各家族の長老達が集まって村の政策決定を行ってきたという。民族意識が強く、固有の言語を保っている数少ない先住民族。上の写真は石造りの住居。下の写真は、石や木や竹を併用した住居の内外。
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阿美族(アミ族)
先住民族の中で最も人口が多い阿美族は、そのほとんどが台湾東部の縦谷と海岸地域に暮らし、母系の氏族制と相続制度を持つとされ、歌と舞踊の豊かさで知られている。下の写真は阿美族の住居内外。
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卑南族(ブユマ族)
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e0116578_1313117.jpg主に台東県に居住する卑南族は、頭目制度と年齢による階層組織が混在した母系社会。男性は年齢階級によって組織されているそうで、上の写真の青少年集会所は年長者の教育訓練所の役目を負っている。左の写真はその内部。






賽夏族(サイシャット族)
西部の新竹県と苗栗県の境界地域を居住地とする民族で、台湾でも民族人口が少ないグループの一つ。2年に一度の伝統的な祭りが神秘的とか。下の写真は賽夏族の住居外観。建築材料として竹が重要な素材となっている。
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鄒族(ツォウ族)
阿里山山脈縦谷一帯を主な居住地としており、庫巴(グバ)と呼ばれる集会所を中心とした厳格な父系社会で、集落の重要な会議や祭事は全て集会所を中心として執り行われる。下の写真は狩猟で得た動物の骨を飾る獣骨架と呼ばれる小屋・・・・かな?
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邵族(サオ族)
文化村近くの日月潭湖畔に住む邵族は、台湾で最も少ない600人余りの人口数と言われる先住民族。かつては鄒族の支族とされていたが、2001年に独立した先住民族として認められている。

雅美族(ヤミ族)
台湾の東南部沖合にある蘭嶼島に住む海洋性民族。毎年の台風に対応した家屋の造りは、排水のある石積みの竪穴に沈めて建つという半地下住居。漁を基礎とした文化を持つ。

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# by toshinac | 2015-12-11 17:27 | trip photos

山岳寺院都市シャトルンジャヤ

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ジャイナ教最大の巡礼地であるシャトルンジャヤ山は、アーメダバードから南に約210kmに位置するパーリターナの町が登り口。標高600m程の二つの峰とその谷部に、900を超える堂塔が建ち並び、寺院の他は何もないという天空の“寺院都市”である。ヒンドゥー教寺院とよく似たジャイナ教寺院は、チャトルムカと呼ばれる四面に開かれた“四面堂”から、四方に展開するという空間力学が基本にあり、ジャイナ教の聖地と呼ばれる場所では、山間に何世紀にも亘って寺院が繰り返し造られ、山や谷が持つ場の力を、寺院建築を密集することで際立たせている。
上の写真は北の峰上に至る階段から、谷部のモティシャー寺院群越しに南の峰上に建つヴィマラヴァシー寺院群を望む。
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e0116578_15483322.jpg上の写真は片道2時間3500段の登山道。階段の一部が帯状に白く塗られているのは、素足の参拝者を想い、少しでも石の熱さを和らげるためと聞く。僧侶を含めて誰一人として滞在は許されないことから、人々は夜明けとともに登り日没前には下山するという。


左の写真は、南の峰上の寺院群内部の参拝路。
白衣を纏った敬虔なジャイナ教信者の参拝が目立つ。






下の写真は、南峰上のヴィマラヴァシー寺院に見る華麗な壁面彫刻。
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下の写真は、北の峰上のカラタラヴァシー寺院群。さらに下の写真は北の峰上の寺院の一部。
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# by toshinac | 2015-11-11 15:59 | trip photos

アーメダバード

インド大陸の最も西に位置するグジャラート州の最大の都市アーメダバード(アフマダバード)は、この地域のスルタンであったアフマド・シャー1世によって1411年に建設され、その後イスラムの都市として発展する。16世紀中頃ムガル朝の支配下となるが、宝飾や絨毯などの手工業が盛り交易で繁栄、イギリスの植民地(1818年)下では綿織物工業が発展し、19世紀後半にはインドのマンチェスターと比喩されるほどだったという。また、インド独立の父と言われるマハトマ・ガンディーの、反英独立運動の拠点が置かれた街としても広く知られるところ。建築においても地域の伝統建築とイスラム建築が融合した建物が多く残され、独立後にはル・コルビュジエやルイス・カーンなどによる、モダンデザインの建築も多く建てられているということもあり、建築好きには一度は訪れてみたい魅力的な都市である。
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上の写真は、アフマド・シャーによって建設されたバドラ城域の東側の門“ティン・ダルワーザ”(1415)。新都市の中心として構築され、そこから東に向かう大通り“マニク・チョウク”を造り、通りの南側にジャーミー・マスジド(金曜モスク)、アフマド・シャー自身と王妃の墓廟を、西に向かう軸線上に並べて新都市の核としたとされている。
下の写真はジャーミー・マスジド(1424)礼拝室の中庭側正面で、イスラムのアーチの中に、西インドの伝統建築様式の柱・梁架構を見る。中央アーチの両サイドを飾るシャフトは、上部が失われたかつてのミナレット。さらに下の写真は、柱が林立する礼拝室内部。15のドームを支える柱は総数260本。
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階段井戸
大地の地下深くまで掘られた井戸の底に向かって、トレンチ状の深い溝を掘削し、長い階段を設けて地下水位まで降りる階段井戸は、地下建築としての形式と宗教的な意味を併せもつ聖なる場所であり、涼を求める市民が集う場所でもある。
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e0116578_16175550.jpg上の写真は、アーメダバードの北郊約20kmにあるアダーラジーの階段井戸(1502)。
階段井戸の殆んどは一直線状の平面形だが、ここは東・南・西の三方から階段が降りて踊り場で合流し、さらに北に向う階段で地底に至るという十字型の平面形。
土圧を支える柱・梁の架構が生み出す立体格子が、精緻な彫刻と相まって光と影の幻想空間を演出する。

左の写真は、井戸のシャフト手前にある光を取込む吹き抜けホールで、底は階段状の水槽を設けた沐浴の場であったが、現在は水槽の上に金網が張られている。




下の写真は、アダーラジー階段井戸の地上部。
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下の写真は、アーマダバード市内にあるダーダ・ハリールの階段井戸(1499)で、人々を地下に導く階段通路とホールの見上げ。
その下の写真は地上部。アダーラジー、ターダ・ハリールのどちらも、ヒンドゥの階段井戸を手本にイスラム政権下で造られた階段井戸である。
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繊維業会館
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アーメダバードにあるコルビュジエ作品の一つで、アーメダバードの代表的産業であった繊維業界の会館(1956)である。旧市街の西を流れるサバルマティー川の対岸に建てられた会館は、南北面には開口部を設けず、川に面する東側と西側のみ開放し、奥行のあるブリーズ・ソレイユを設けて日差しを弱め、諸室は半ば外部ともいうべき空間の中に独立することで、建物全体の通風を図るというインドの気候条件を考慮した設計となっている。
上の写真は大通りに面した西側。角度の付いたブリーズ・ソレイユが創りだす陰影と、長い入口スロープが印象的。下の写真は吹放ちで開放感のある入口ホール。ブリーズ・ソレイユの足元に細い排水溝が設けられているが、モンスーンの時期にはホールの床が水浸しになることもあると聞く。
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# by toshinac | 2015-10-24 16:37 | trip photos

ジャイサルメール

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ジョードプルの西300km弱に位置するジャイサルメールは、1156年にバッティ・ラージプート(ラージプートの一氏族)のラワル・ジャイサル王によって築かれた城郭都市で、広大なタール砂漠(世界で8番目の広さ)の真ん中にあるかつての隊商(キャラバン)の中継地。以前は全て城壁に囲まれていたという旧市街の中には、城門をはじめ、交易により財を成した貴族や豪商のハヴェリー(邸宅)が建ちならび、往年のジャイサルメールを彷彿させる風景が広がり、南東側の三角形の台地上(トリクタの丘)には、更に堅固な城壁を回らした王宮が聳える(写真上:Google Earth)。 数世紀前までは東西交易路の拠点として栄えてきたが、英領時代になり、海洋貿易の発展に伴って隊商の交易路は衰退し、ジャイサルメールの栄華も衰え、さらにインド・パキスタンの分離独立(1947)によりルートは分断され、砂漠の中に取り残された辺境の町となる。
下の写真は、町の東側にあるジャイサルメール駅近くから見る城砦。町を見下ろす台地上に築かれた城砦は、砂漠の彼方からも視界に入るジャイサルメールのランドマーク。
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e0116578_11274173.jpg上の写真は城下町(旧市街)から仰ぎ見る城砦。高さの異なる二重の半円形稜堡が連続した城壁は印象的。とくに日没時には、黄土色砂岩で築かれた砦や街が金色に染まることからゴールデンシティの愛称をもつ。




左の写真は、城砦への入口となる城門の一つスーリヤ門。


下の写真は、城砦内の王宮広場に面する19世紀の宮殿“ラージ・マハル”の見上げ。
現在では宮殿博物館・ヘリテージセンターとして一般に開放されている。連続するアーチ状の庇と精緻な透かし彫りや彫刻で装飾された黄土色の外観は、強烈な太陽の光のもとでより一層の輝きを増す。

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上の写真4点は、人々の日常が垣間見える城砦内の風景。上の左右は、迷路のように入り組んだ路地を散策。左下は安宿前の空地で遊ぶ子供達。右下は、観光客目当ての物売りが集うジャイナ教寺院前。
下の写真は、旧市街にあるハヴェリーの中で最大で、最も美しいとされるパトウォンのハヴェリー(1885)。道路に面したファサード全面が、ラージプートの伝統的な意匠ともいえるジャロカーと呼ばれる装飾的な石造の出窓で構成され、その開口部のほとんどに、視線や陽射しを遮って風を通すジャーリ(石の格子細工)が嵌め込まれている。
さらに下の写真は、パトウォンのハヴェリー屋上から眺めた旧市街の民家。
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上の写真は、砂漠の都市ジャイサルメールの、かつて生活用水の供給源となっていたガディサル・タンク(人造湖)に建つパビリオン。トップのGoogle Earth写真に見る、旧市街外側の南に映る貯水池がそれである。下の写真は、ジャイサルメールから西ヘ40km、パキスタンとの国境までは60kmあまりのサム砂丘のサンセット。
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# by toshinac | 2015-10-13 11:50 | trip photos

ジョードプル

ジャイプールから西に約300km、タール砂漠の入口にあるジョードプルは、ラージプートのマールワール (ラージャスターン州中西部の地方名) 王国の首都として造られた町。ラージプート族ラートール家の王ラーオ・ジョーダが、1459年にマンドール (マールワール王国創建時の首都で、ジョードプルの北約10kmに位置する) から遷都。ラーオ・ジョーダによって築かれたことでジョード・プル (ジョーダの町) と呼ばれたこの町は、長さ10kmもの城壁に囲まれた城郭都市。隊商交易の要の町として栄えたジョードプルは、ムガル朝下でも自治権が認められ、大英帝国時代も藩王国として存続したこともあり、地域出身の商人がインド諸都市で活躍し、インド有数の幾つかの商業財団に成長したという。
ちなみにデリーのヒンドゥ―寺院“ラクシュミーナーラーヤン寺院”の財政支援等で知られるビルラー財閥も、マールワールの商人がルーツだそうである。
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上の写真2葉は、120mの岩山の上に、さらに幅24m高さ30mを超える城壁が廻るメヘランガル城。ラーオ・ジョーダによって新都の象徴として築かれた城は、その後増改築が繰り返されてはいるが、ラージャスターンの都市建築特有の力強い美しさは健在。城内には数多くの宮殿が中庭を介して連なり、その多くは博物館として公開されているが、城砦はいまでもマハーラージャが所有しているという。
下の写真は精緻なヒンドゥーの透し彫り装飾が施された宮殿(ジャーンキ・マハル?)の中庭と、王室の一つタハット・マハル。
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下の写真は、メヘランガル城から眺めたコバルトブルーの青が際立つ旧市街。建物の大半が青色に塗られているところから通称“ブルーシティ”とも呼ばれている。
青く塗られた経緯は定かではないが、バラモン階級の居住者が自ら階級色の青を塗ったことが始まりではという説があるが、熱対策とか害虫対策とか諸説紛々。
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e0116578_921667.jpg上の写真は、メヘランガル城の北東1km程の丘上にあるジャスワント・タダ廟(1899)。ジョードプル藩王国の君主として1873年から在位したジャスワント・シン2世 (1838~1895) の廟を遠望。
左の写真は白大理石仕上げの白亜の殿堂を側面から見る。
下の写真は、ジョードプルの新王宮として1944年に完成した、ウマイド・バワン宮殿の遠望と、さらにその下は庭から眺めた宮殿。メヘランガル城の南東5km程の小高い丘の上に建つ宮殿は、マハーラージャ・ウマイド・シン(1903~1947)による領民の貧困救済が目的であったとされている。1929年に着工され完成まで15年という歳月は、多くの雇用を生み出したことは確かだろう。
英国の建築家ヘンリー・ランチェスター (1863~1953:イギリスの都市計画家で、おもに英国統治の植民地で都市コンサルタントをつとめる) の設計で、部屋数が347室という大規模な建築は、現在は大半が宮殿ホテルとなっているが、一部はマハーラージャ一族の住まいとなっている。
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# by toshinac | 2015-09-27 09:14 | trip photos

ウダイプル

ムガル朝の攻撃を受けて、チットールガルを追われたメーワール(ラージプート族の中でも、とりわけ気位の高いシショディア氏族)の王ウダイ・シング(在位:1537~1572)は、チットールガルから西に約110km離れた、標高600mほどの山間の地に新しい都を築いた。川を堰き止めて2つの大きな人造湖を造り、水源の確保と町の防御を固めたとされる現在のウダイプルである。
ムガル帝国の強大な力に屈することなく抵抗し続け、後の英領下にあってもメーワール王国の首都として存続した町は、歴代の君主によって築かれた宮殿をはじめとする歴史的建造物も多く、乾燥したラージャスターンには珍しく、水際の景観が美しい町である。
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e0116578_9103784.jpg上の写真は、ピチョーラ湖に浮かぶ白亜のタージレイクパレス。18世紀、メーワールの君主ジャガト・シング2世(在位:1734~1751)によって建てられた夏の離宮が改装され、湖上の宮殿ホテル(1971年)として生まれ変わり、インドでも最上級ホテルの一つに数えられるほど。
ちなみに、オールドファンには懐かしい映画007シリーズ「オクトパシー」のロケ地でもある。


左の写真は、シティ・パレスの飾り窓から眺めた湖上の離宮。




下の写真は、対岸のシティ・パレスをレイクパレスの船着き場近くから眺めたもの。
おとずれた時は湖の水位が上がり、船着き場に近いホテルのテラスが冠水状態。

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e0116578_9373769.jpg上の写真は、ピチョーラ湖畔に雄大な姿を見せるシティ・パレス。
ウダイ・シング王によって16世紀から始まった宮殿の造営は、その後も歴代の王による増築が重ねられたことで、壮大な宮殿建築の複合体が造りだされた。宮殿は二つのホテルと一部博物館として開放されているが、現在も立ち入ることが許されないマハーラージャの居住部分がある。



左の写真は博物館エリアの中庭。







下の写真はシティ・パレスのフロントサイドと、更に下の写真は宮殿上階から旧市街を見る。
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下の写真は、牛も店番に加わっているような、いかにもインドらしい旧市街の一角。神聖視されるインドの牛だが、近年は街中で見ることは徐々に少なくなっているらしい。
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# by toshinac | 2015-09-08 09:44 | trip photos

チットールガル城砦

中世に北西インドを席巻したイスラム軍に対し、頑なに抵抗したメーワール王国(ラージプート族の一氏族)の都であったチットールガルは、ジャイプルの南西250km程に位置する城塞都市。切り立つ崖に囲まれた細長い丘上には、複数の宮殿や寺院等が築かれ栄華を誇っていたが、14世紀以降3度に亘るイスラム軍の猛攻に遭い、1567年ついに陥落、都城は放棄された。ここは勇猛果敢に戦ったラージプート族の激戦の記憶をいまに留める城砦である。
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上の写真は、15世紀の王ラーナ・クンバが戦勝を記念して建てた9層、高さ37.19mの勝利の塔( ヴィジャイ・スタンバ:1448 )。
塔の内外全面にヒンドゥ教の神像が配され、中央の螺旋階段とその外側を廻る階段を交互に上り下りするという、二重螺旋とも違う不思議な構成の階段を持つインドでも珍しい塔建築である。
下の写真は、砦の西側中央付近からヒンドゥのカーリカー・マータ寺院( 8世紀頃の創建で1568年に再建されたものだそうである )越しに南を望む。さらに下の写真は、ヒンドゥ寺院に付属するナンディー堂(シヴァ神に仕える雄牛ナンディーを祀った祠堂)。
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下の写真は、砦の南にある遺構パドミニ宮殿の貯水池の中に建つ館。
平地から150mを超える高い丘上にある城砦だが、モンスーンの時期には大量の雨が降る地域ということもあり貯水池が非常に多く、その数はなんと84ヶ所に及ぶ。貴重な生活用水が確保される城砦内には、多い時で35000人もの人が住んでいたという。
北インドを支配していたハルジ―朝の第3代スルタン、アラー・ウッディーン・ハルジ (1296?~1316)は、1303年には西インドのヒンドゥ諸国を平定しているが、伝説では、ときのメーワール国王ラタン・シンの妻パドミニ王女への横恋慕が、チットールガル攻撃の原因という説がある。
1302年スルタン軍に攻め込まれ城砦が陥落すると、美しい王女パドミニ( インドの観光キャッチ・フレーズでは、ラージャスターン州のクレオパトラと言われている )と宮殿の女達は火中に身を投げ、自ら死を選んだという悲しい物語の舞台。
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# by toshinac | 2015-08-29 10:18 | trip photos