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カーシャーン/四半世紀前のイラン

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サファヴィー朝期に栄えた古都カーシャーンは、聖都ゴムから南下すること約120km、カヴィール砂漠(アルボルズ山脈南東部、イラン高原にある幅320km長さ800kmにも及ぶ広大な沙漠)の西端に位置している。Great Salt Desertと表記されるように、折出した塩の層が地表を覆う“塩砂漠”があるほどの乾燥地だが、イラン南西部を走るザグロス山脈系の雪解け水を利用したカナート(地下水路)等で、灌漑用水を確保することで発達し、陶器の生産と美術・学芸の都として名を馳せ、サファヴィー朝下では絹織物や絨毯などの産地として栄えたオアシス都市。前出(ゴム/四半世紀前のイラン)の吉田正春のペルシャの旅には「・・・北より来るもまた南より来るも、旅客は皆ここに来集す。市上の駱駝驢騎は貨物と共に輻湊し、恰(あたか)も沙漠の要口すなわち大海における港湾と相同じ。」と記されている。
この自然環境が薔薇の栽培に適したことで、近郊の農村では古くから薔薇水や薔薇油が生産され、近年は“カーシャーンの薔薇水”として広く世界に知られるところ。ちなみに薔薇の原産国はイランで、薔薇は国花でもある。上の写真は、バザールの屋根の上から眺めたザグロス山脈とカーシャーン旧市街。

バザール
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e0116578_11372816.jpg上の写真は、沙漠の砂埃や夏の暑さ、冬の寒さをしのぐ土塗りのドームが連続するバザールの屋根。


左の写真は、長いバザールの中程にある大ドームを頂いた広場で、周囲の部屋はかつてのキャラバンサライ(隊商宿)。ドーム頂部や側面の開口から降り注ぐ光が、“ムカルナス”と呼ばれる蜂の巣のような立体的な装飾(10世紀以降中東を中心に発達した装飾だそうで、時代を下るごとにその緻密さは増したという。)を効果的に浮かび上がらせる。







下の写真は、そのキャラバンサライの広場を覆う大ドームの外部。
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ボルージェルディー(Borujerdis)邸
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19世紀に造られたこの住宅は、カーシャーンの裕福な貿易商であったハジセイェド・ハッサン・Natanzi(ボルージェルディーは愛称)氏の私邸で、建築家アリ・マリアム・カーシャーニ(19世紀に活躍したイランの建築家)が設計し、完成(1857年)には18年の歳月を要したとされている。ペルシャの伝統的住宅建築の傑作と評され、現在は博物館として一般に開放されている。
上の写真は、緑と水で潤うボルージェルディー邸中庭を見る。正面は夏の暑さをしのぐ開放的な場所“ターラール”。屋根に突き出た2本のバード・ギール(Wind catcher)と呼ばれる採風塔が、外部に対して窓を持たない住宅に通風をもたらし、地下に導かれたカナートからの水が冷却水となって夏場の涼をとる場となっている。下の写真左は入口。扉に取り付けられた左右のドアノッカーはデザインが異なり、左の円環状は女性訪問者、右の棒状は男性訪問者用である。下の写真右上は玄関ホール上部見上げ。下の写真右下は、バード・ギールとターラールのドーム形態がユニークな屋上部分。さらに下の写真は、ボルージェルディー邸の屋上越しにザグロス山系の雪山を望む。
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アガー・ボゾルグ・モスク
カーシャーン旧市街中心部にある神学校を併設したこの歴史的なモスクは、建築家ハジ・Sa’ban・アリ(18世紀のイラン人建築家)によって、18世紀の後半に構築されたカジャール朝を代表する建築の一つとされている。このモスクの特徴は、砂漠性の気候を考慮したこの地域の他の建物と同じように、木々の緑が生い茂る中庭を設けていることだが、中庭は地下に造られ、その周りを神学校の学び舎が取り囲むという形態となっている。深さはないが中国の“下沈式窰洞住居”の構成だ。この建築には、弟子であったアリ・マリアム・カーシャーニ―(ボルージェルディー邸の設計者)も関わったといった説もあると聞くと、この地域の伝統的住宅の要素が見られるというのも納得してしまう。
下の写真2葉は、中庭を介して見たモスク(上)と反対側からの眺め(下)。
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フィン庭園
カーシャーンの南西に位置するフィン庭園は、16世紀のサファヴィー朝に造られたペルシャ式庭園(水路によって田の字型に分割された幾何学的な庭園で、四分庭園(チャハル・バーグ)ともいう)で、2012年にユネスコの世界遺産に登録されている。カナートで導かれた水が、地形の傾斜と管径を変えて水圧を調整する方法を用い、水路の中に小さな噴水を連続させているのが特徴的。
下の写真は、庭園中央のある4面開放のパヴィリオンから見た水路。訪れた当時はイランの国家遺産にはなっていたが、国内情勢もまだ戦後の復興時期、庭園の整備にはまだ時間を要するのでは?といった印象だった。
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# by toshinac | 2016-02-25 09:58

ゴム/四半世紀前のイラン

テヘランから南に車で約135kmにあるゴム州の州都ゴムは(かつて日本では「コム」と表記されていた)、イスラム共和制のもとで革命を主導してきた宗教保守派の牙城と言われている宗教都市。十二イマーム派(歴史上12人のイマーム(指導者)が現れたシーア派諸族の中で、最も信者数が多いとされる最大派)の第8代イマーム・レザー(765~818)の妹ハズラテ・マアスーメがこの地で客死したことで廟が造られると、シーア派の巡礼地として発達。廟に付属して設けられたホウゼ(聖職者を養成する宗教学校)はこの地域の十二イマーム派における教学の核となり、サファヴィー朝になって十二イマーム派が国教化されると、その保護のもと隆盛を極めたゴムは、シーア派の人々にとっての聖地の一つとなっていく。
18世紀頃、イラクのナジャフ(バグダットの南約160kmに位置し、シーア派の初代イマームであるアリーの墓廟がある)が聖地として重要な巡礼地になると、ゴムは相対的に目立たない存在になっていったらしいが、イラクの社会情勢の変化に伴いナジャフが衰退。代わって1921年にゴムに創設されたホウゼ・ウルミーエ・ゴム学院の活動によって、ゴムは十二イマーム派教学の中心地として復活し、いまでは教学を学ぶ多くの留学生が訪れる国際宗教都市となっている。この学院で学び、教鞭を執ったイラン・イスラム共和国の最高指導者であるホメイニ師は、革命後の一時期、国政をゴムから司っていた。
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e0116578_143597.jpg上の写真はハズラテ・マアスーメ・モスク前の広場。左の写真はモスク入口から覗いた、聖域ハズラテ・マアスーメ・モスク。現在は観光客も入れるようだが、当時は異教徒の立ち入り厳禁。街の雰囲気は、写真を撮るのも憚れるほどの緊張感を感じた時代。下の写真はテヘランから通じる道路上から遠望したゴムの街。イスラエルとアメリカを糾弾する看板はどこでも目に付いた。更に下の写真は、ゴムからカシャーンに向かう途中の荒漠たる風景。
1880年(明治13年)、外務省理事官としてペルシャ(1935年イラン国名改称)に派遣された吉田正春(土佐藩の参政吉田東洋の長男1851~1921)の見聞記「回疆探検・波斯之旅」には、当時のゴムの様子が次のように記述されている。
「コムは砂漠に突出せる一山脈西端にして、その城市の高所は鉄漿色(お歯黒色のこと)の岩石に囲繞せられ、低所は赭色(赤土)の瓦屋参差(不揃いの瓦屋根が入り混じっている様)として、四、五千の人口あり。・・・・・市城の小なるに比し寺院は極めて宏壮にして、城の外垣は全くこの寺院を囲い込むために設けたる如き観あり。」
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# by toshinac | 2016-02-04 14:12 | trip photos

テヘラン/四半世紀前のイラン

1990年の4月、日本建築学会アジア建築交流委員会による、ペルシャ建築・集落・都市視察団に加わり、イラン中央部の北から南に点在する歴史的な都市や集落を訪れた。世界を驚かせたイスラム革命(1979年2月)後に起こった、イラン・イラク戦争(1980~1988)が終結して間もない時期であっただけに、テヘランでは戦後の復興はまだこれからといった状態であった。市街の至るところで中断した工事現場が目に付き、イスラエルやアメリカを糾弾するプロパガンダ目立ち、イスラム革命防衛隊なる組織(軍隊)の監視の目を気にしながらの旅だったことを思い出す。おそらく現在のイランとは隔世の感があるとは感じているが、基本的なところでは四半世紀前の姿と大きくは変わってないのではと思い、フィルム写真をパソコンに取り込みながら、異文化の建築に触れた時の感動を想い起している。
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イラン(イラン・イスラム共和国)の首都テヘランは、イラン中北部に位置し、アルボルズ山脈(エルブルズ山脈)の南麓、標高約1200mの扇状地上築かれた都市。サファヴィー朝(1501~1736)の初めに周囲8kmほどの市壁が巡らされた都市が築かれたが、この時代は軍の駐屯地にすぎず、本格的な町の発展は、1786年カージャール朝(1796~1925)がここに首都を移してからのこと。人口の増加に伴い市街地が拡張され、1871年頃には周囲18㎞の新たな市壁が巡らされた都市になったようだが、その後は産業や社会構造に特段の変化も無く、中世的なイスラム都市に留まっていたという。クーデターによってパフラヴィ朝(1925~1979)を開いたレザー・シャー・パフラヴィは、イランの近代化政策を急速に推し進め、1934年テヘランの都市改造にも着手。第2次大戦後には100万都市の仲間入りを果たすが、あまりにも急速な近代化は“脱イスラム化”を国民に強要するかたちとなり、結果強い反発が生じて王政打倒運動へと発展し、1979年ついに国王の国外退去で王朝は終焉。

e0116578_1045484.jpg入れ替わりに国外に追放されていた宗教指導者ホメイニ師が15年ぶりに帰国し、イスラム共和国の設立を宣言する。その間にも首都テヘランの人口は増加を続け、やがて都市化現象がおおきな社会問題となってくる。

上の写真は、アルボルズ山脈(エルブルズ山脈)の南麓に広がるテヘラン新市街を望む。当時は山の頂まではっきり見渡せるほど空気は澄み渡っていたが、近年のテヘランの大気汚染は深刻。昨年の12月にはPM2.5の指数が大幅に増加し、3日連続で市内の学校の休校と、住民に屋内退避を勧告するほどの事態になっている。

左の写真は、宿泊したホテルから見た北東方向(上)と東南方向(下)の市街。現在はかなりの数の高層ビルが建っているようである。
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上の写真は、中心街にあるマスジェデ・モタハリ(旧セパサラール・モスク)。カージャール朝時代の1830年に建てられたもので、6本のミナレットとモザイクタイルが美しい。
下の写真は、市域南東部のバザールに程近い下町の通り。朝の穏やかな陽の中で、登校のバスを待つのかチャドルを纏った親娘?の姿が微笑ましい。
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# by toshinac | 2016-01-22 11:02 | trip photos

九族文化村

台湾中部の景勝地“日月潭”近くの広大な敷地に展開する九族文化村は、台湾先住民9種族の、百年余り前の伝統家屋や集落を再現し、生活用具の展示や伝統的な習俗なども公開される観光名所。1986年の設立当初は、台湾における先住民は9民族が認定されていたため「九族」となっているが、現在(2014年)では16民族が先住民族として認定されている。

排湾族(パイワン族)
台湾南部の中央山脈や東南沿海地域を主な居住地としており、木彫や石彫に高い技術を持つ民族で、頭目、貴族、戦士、平民という4階級の階層制度の社会組織を成していたそうである。ただ両性の権利は平等で、男女の別は無く、長子であれば家を継ぐことができたという。下の写真2葉は排湾族の頭目住居内外。一枚石の天然スレート壁におどろき!
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上の写真は排湾族の集会所内外。居住地域によっては木や竹を材料とした家屋も多く見られる。

泰雅族(タイヤル族)
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e0116578_10504974.jpg居住地域は北部から中部にかけての山岳地帯。
祖先から伝わる禁忌と信仰の制度を持つとされ、男子は戦いに強く、女子は織物が上手であることを示すため、かつては成人式で顔に入れ墨を入れる習慣があったという。
上の写真は泰雅族住居の内外。丸太を重ねた壁が山の民を想わせる。

左の写真は見張り小屋の瞭望台。












魯凱族(ルカイ族)
主に台湾南部の高雄県、台東県、 屏東県、の中央山脈山地に居住し、排湾族に似た階層制度を有する父系社会で、独自の言語を持っていた。下の写真は魯凱族の貴族住居で、排湾族の住居に類似する。さらに下の写真は魯凱族の集会所内部。
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上の写真は魯凱族頭目住居の外部と内部。

布農族(ブヌン族)
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台湾中南部の山地、海抜1500m以上の高地に住む典型的な高山民族で、社会組織は長老制度による父系氏族の大家族社会で、各家族の長老達が集まって村の政策決定を行ってきたという。民族意識が強く、固有の言語を保っている数少ない先住民族。上の写真は石造りの住居。下の写真は、石や木や竹を併用した住居の内外。
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阿美族(アミ族)
先住民族の中で最も人口が多い阿美族は、そのほとんどが台湾東部の縦谷と海岸地域に暮らし、母系の氏族制と相続制度を持つとされ、歌と舞踊の豊かさで知られている。下の写真は阿美族の住居内外。
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卑南族(ブユマ族)
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e0116578_1313117.jpg主に台東県に居住する卑南族は、頭目制度と年齢による階層組織が混在した母系社会。男性は年齢階級によって組織されているそうで、上の写真の青少年集会所は年長者の教育訓練所の役目を負っている。左の写真はその内部。






賽夏族(サイシャット族)
西部の新竹県と苗栗県の境界地域を居住地とする民族で、台湾でも民族人口が少ないグループの一つ。2年に一度の伝統的な祭りが神秘的とか。下の写真は賽夏族の住居外観。建築材料として竹が重要な素材となっている。
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鄒族(ツォウ族)
阿里山山脈縦谷一帯を主な居住地としており、庫巴(グバ)と呼ばれる集会所を中心とした厳格な父系社会で、集落の重要な会議や祭事は全て集会所を中心として執り行われる。下の写真は狩猟で得た動物の骨を飾る獣骨架と呼ばれる小屋・・・・かな?
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邵族(サオ族)
文化村近くの日月潭湖畔に住む邵族は、台湾で最も少ない600人余りの人口数と言われる先住民族。かつては鄒族の支族とされていたが、2001年に独立した先住民族として認められている。

雅美族(ヤミ族)
台湾の東南部沖合にある蘭嶼島に住む海洋性民族。毎年の台風に対応した家屋の造りは、排水のある石積みの竪穴に沈めて建つという半地下住居。漁を基礎とした文化を持つ。

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# by toshinac | 2015-12-11 17:27 | trip photos

山岳寺院都市シャトルンジャヤ

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ジャイナ教最大の巡礼地であるシャトルンジャヤ山は、アーメダバードから南に約210kmに位置するパーリターナの町が登り口。標高600m程の二つの峰とその谷部に、900を超える堂塔が建ち並び、寺院の他は何もないという天空の“寺院都市”である。ヒンドゥー教寺院とよく似たジャイナ教寺院は、チャトルムカと呼ばれる四面に開かれた“四面堂”から、四方に展開するという空間力学が基本にあり、ジャイナ教の聖地と呼ばれる場所では、山間に何世紀にも亘って寺院が繰り返し造られ、山や谷が持つ場の力を、寺院建築を密集することで際立たせている。
上の写真は北の峰上に至る階段から、谷部のモティシャー寺院群越しに南の峰上に建つヴィマラヴァシー寺院群を望む。
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e0116578_15483322.jpg上の写真は片道2時間3500段の登山道。階段の一部が帯状に白く塗られているのは、素足の参拝者を想い、少しでも石の熱さを和らげるためと聞く。僧侶を含めて誰一人として滞在は許されないことから、人々は夜明けとともに登り日没前には下山するという。


左の写真は、南の峰上の寺院群内部の参拝路。
白衣を纏った敬虔なジャイナ教信者の参拝が目立つ。






下の写真は、南峰上のヴィマラヴァシー寺院に見る華麗な壁面彫刻。
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下の写真は、北の峰上のカラタラヴァシー寺院群。さらに下の写真は北の峰上の寺院の一部。
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# by toshinac | 2015-11-11 15:59 | trip photos

アーメダバード

インド大陸の最も西に位置するグジャラート州の最大の都市アーメダバード(アフマダバード)は、この地域のスルタンであったアフマド・シャー1世によって1411年に建設され、その後イスラムの都市として発展する。16世紀中頃ムガル朝の支配下となるが、宝飾や絨毯などの手工業が盛り交易で繁栄、イギリスの植民地(1818年)下では綿織物工業が発展し、19世紀後半にはインドのマンチェスターと比喩されるほどだったという。また、インド独立の父と言われるマハトマ・ガンディーの、反英独立運動の拠点が置かれた街としても広く知られるところ。建築においても地域の伝統建築とイスラム建築が融合した建物が多く残され、独立後にはル・コルビュジエやルイス・カーンなどによる、モダンデザインの建築も多く建てられているということもあり、建築好きには一度は訪れてみたい魅力的な都市である。
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上の写真は、アフマド・シャーによって建設されたバドラ城域の東側の門“ティン・ダルワーザ”(1415)。新都市の中心として構築され、そこから東に向かう大通り“マニク・チョウク”を造り、通りの南側にジャーミー・マスジド(金曜モスク)、アフマド・シャー自身と王妃の墓廟を、西に向かう軸線上に並べて新都市の核としたとされている。
下の写真はジャーミー・マスジド(1424)礼拝室の中庭側正面で、イスラムのアーチの中に、西インドの伝統建築様式の柱・梁架構を見る。中央アーチの両サイドを飾るシャフトは、上部が失われたかつてのミナレット。さらに下の写真は、柱が林立する礼拝室内部。15のドームを支える柱は総数260本。
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階段井戸
大地の地下深くまで掘られた井戸の底に向かって、トレンチ状の深い溝を掘削し、長い階段を設けて地下水位まで降りる階段井戸は、地下建築としての形式と宗教的な意味を併せもつ聖なる場所であり、涼を求める市民が集う場所でもある。
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e0116578_16175550.jpg上の写真は、アーメダバードの北郊約20kmにあるアダーラジーの階段井戸(1502)。
階段井戸の殆んどは一直線状の平面形だが、ここは東・南・西の三方から階段が降りて踊り場で合流し、さらに北に向う階段で地底に至るという十字型の平面形。
土圧を支える柱・梁の架構が生み出す立体格子が、精緻な彫刻と相まって光と影の幻想空間を演出する。

左の写真は、井戸のシャフト手前にある光を取込む吹き抜けホールで、底は階段状の水槽を設けた沐浴の場であったが、現在は水槽の上に金網が張られている。




下の写真は、アダーラジー階段井戸の地上部。
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下の写真は、アーマダバード市内にあるダーダ・ハリールの階段井戸(1499)で、人々を地下に導く階段通路とホールの見上げ。
その下の写真は地上部。アダーラジー、ターダ・ハリールのどちらも、ヒンドゥの階段井戸を手本にイスラム政権下で造られた階段井戸である。
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繊維業会館
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アーメダバードにあるコルビュジエ作品の一つで、アーメダバードの代表的産業であった繊維業界の会館(1956)である。旧市街の西を流れるサバルマティー川の対岸に建てられた会館は、南北面には開口部を設けず、川に面する東側と西側のみ開放し、奥行のあるブリーズ・ソレイユを設けて日差しを弱め、諸室は半ば外部ともいうべき空間の中に独立することで、建物全体の通風を図るというインドの気候条件を考慮した設計となっている。
上の写真は大通りに面した西側。角度の付いたブリーズ・ソレイユが創りだす陰影と、長い入口スロープが印象的。下の写真は吹放ちで開放感のある入口ホール。ブリーズ・ソレイユの足元に細い排水溝が設けられているが、モンスーンの時期にはホールの床が水浸しになることもあると聞く。
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# by toshinac | 2015-10-24 16:37 | trip photos

ジャイサルメール

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ジョードプルの西300km弱に位置するジャイサルメールは、1156年にバッティ・ラージプート(ラージプートの一氏族)のラワル・ジャイサル王によって築かれた城郭都市で、広大なタール砂漠(世界で8番目の広さ)の真ん中にあるかつての隊商(キャラバン)の中継地。以前は全て城壁に囲まれていたという旧市街の中には、城門をはじめ、交易により財を成した貴族や豪商のハヴェリー(邸宅)が建ちならび、往年のジャイサルメールを彷彿させる風景が広がり、南東側の三角形の台地上(トリクタの丘)には、更に堅固な城壁を回らした王宮が聳える(写真上:Google Earth)。 数世紀前までは東西交易路の拠点として栄えてきたが、英領時代になり、海洋貿易の発展に伴って隊商の交易路は衰退し、ジャイサルメールの栄華も衰え、さらにインド・パキスタンの分離独立(1947)によりルートは分断され、砂漠の中に取り残された辺境の町となる。
下の写真は、町の東側にあるジャイサルメール駅近くから見る城砦。町を見下ろす台地上に築かれた城砦は、砂漠の彼方からも視界に入るジャイサルメールのランドマーク。
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e0116578_11274173.jpg上の写真は城下町(旧市街)から仰ぎ見る城砦。高さの異なる二重の半円形稜堡が連続した城壁は印象的。とくに日没時には、黄土色砂岩で築かれた砦や街が金色に染まることからゴールデンシティの愛称をもつ。




左の写真は、城砦への入口となる城門の一つスーリヤ門。


下の写真は、城砦内の王宮広場に面する19世紀の宮殿“ラージ・マハル”の見上げ。
現在では宮殿博物館・ヘリテージセンターとして一般に開放されている。連続するアーチ状の庇と精緻な透かし彫りや彫刻で装飾された黄土色の外観は、強烈な太陽の光のもとでより一層の輝きを増す。

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上の写真4点は、人々の日常が垣間見える城砦内の風景。上の左右は、迷路のように入り組んだ路地を散策。左下は安宿前の空地で遊ぶ子供達。右下は、観光客目当ての物売りが集うジャイナ教寺院前。
下の写真は、旧市街にあるハヴェリーの中で最大で、最も美しいとされるパトウォンのハヴェリー(1885)。道路に面したファサード全面が、ラージプートの伝統的な意匠ともいえるジャロカーと呼ばれる装飾的な石造の出窓で構成され、その開口部のほとんどに、視線や陽射しを遮って風を通すジャーリ(石の格子細工)が嵌め込まれている。
さらに下の写真は、パトウォンのハヴェリー屋上から眺めた旧市街の民家。
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上の写真は、砂漠の都市ジャイサルメールの、かつて生活用水の供給源となっていたガディサル・タンク(人造湖)に建つパビリオン。トップのGoogle Earth写真に見る、旧市街外側の南に映る貯水池がそれである。下の写真は、ジャイサルメールから西ヘ40km、パキスタンとの国境までは60kmあまりのサム砂丘のサンセット。
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# by toshinac | 2015-10-13 11:50 | trip photos

ジョードプル

ジャイプールから西に約300km、タール砂漠の入口にあるジョードプルは、ラージプートのマールワール (ラージャスターン州中西部の地方名) 王国の首都として造られた町。ラージプート族ラートール家の王ラーオ・ジョーダが、1459年にマンドール (マールワール王国創建時の首都で、ジョードプルの北約10kmに位置する) から遷都。ラーオ・ジョーダによって築かれたことでジョード・プル (ジョーダの町) と呼ばれたこの町は、長さ10kmもの城壁に囲まれた城郭都市。隊商交易の要の町として栄えたジョードプルは、ムガル朝下でも自治権が認められ、大英帝国時代も藩王国として存続したこともあり、地域出身の商人がインド諸都市で活躍し、インド有数の幾つかの商業財団に成長したという。
ちなみにデリーのヒンドゥ―寺院“ラクシュミーナーラーヤン寺院”の財政支援等で知られるビルラー財閥も、マールワールの商人がルーツだそうである。
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上の写真2葉は、120mの岩山の上に、さらに幅24m高さ30mを超える城壁が廻るメヘランガル城。ラーオ・ジョーダによって新都の象徴として築かれた城は、その後増改築が繰り返されてはいるが、ラージャスターンの都市建築特有の力強い美しさは健在。城内には数多くの宮殿が中庭を介して連なり、その多くは博物館として公開されているが、城砦はいまでもマハーラージャが所有しているという。
下の写真は精緻なヒンドゥーの透し彫り装飾が施された宮殿(ジャーンキ・マハル?)の中庭と、王室の一つタハット・マハル。
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下の写真は、メヘランガル城から眺めたコバルトブルーの青が際立つ旧市街。建物の大半が青色に塗られているところから通称“ブルーシティ”とも呼ばれている。
青く塗られた経緯は定かではないが、バラモン階級の居住者が自ら階級色の青を塗ったことが始まりではという説があるが、熱対策とか害虫対策とか諸説紛々。
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e0116578_921667.jpg上の写真は、メヘランガル城の北東1km程の丘上にあるジャスワント・タダ廟(1899)。ジョードプル藩王国の君主として1873年から在位したジャスワント・シン2世 (1838~1895) の廟を遠望。
左の写真は白大理石仕上げの白亜の殿堂を側面から見る。
下の写真は、ジョードプルの新王宮として1944年に完成した、ウマイド・バワン宮殿の遠望と、さらにその下は庭から眺めた宮殿。メヘランガル城の南東5km程の小高い丘の上に建つ宮殿は、マハーラージャ・ウマイド・シン(1903~1947)による領民の貧困救済が目的であったとされている。1929年に着工され完成まで15年という歳月は、多くの雇用を生み出したことは確かだろう。
英国の建築家ヘンリー・ランチェスター (1863~1953:イギリスの都市計画家で、おもに英国統治の植民地で都市コンサルタントをつとめる) の設計で、部屋数が347室という大規模な建築は、現在は大半が宮殿ホテルとなっているが、一部はマハーラージャ一族の住まいとなっている。
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# by toshinac | 2015-09-27 09:14 | trip photos