人気ブログランキング |


works & trip photos     (c)Toshiaki Nakazawa all right reserved.


by toshinac

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

カテゴリ

全体
trip photos
works
未分類

検索

最新の記事

北京2/80~90年代の中国
at 2019-05-21 17:04
北京1/80~90年代の中国
at 2019-05-01 17:46
ルクソール2/エジプト
at 2019-04-08 11:38
ルクソール1/エジプト
at 2019-03-23 11:36
ナイル沿いの3つの神殿/エジプト
at 2019-03-01 09:00

以前の記事

2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

記事ランキング

画像一覧

北京2/80~90年代の中国

天壇(1981年夏の写真)
e0116578_16251724.jpg
天壇は北京市東城区にある史跡で、明・清時代の皇帝が天を祭り、五穀豊穣を祈願した場所。明代の1420年創建で、当時は天地壇と呼ばれていたが、1530年に現在の規模に拡張されるとともに、1534年に天壇と地壇に分離、以後天壇と呼ばれている。ただし、祈念門・皇乾殿を除けば清代の18世紀以降の建築だそうである。総面積280haという広大な敷地は、天と地を意味する古代の「円天地方」という宇宙観に基づき、北側両隅が円弧で、南側が方形という形になっている。かつては一般人が立ち入れない神聖な場所であったが、現在は天壇公園として開放され、庶民の憩いの場にもなっている。
上の写真は圜丘壇(皇帝が天を祭るための儀式の場)から北を見る。白石門の先に皇穹宇、その先の祈念殿へと、南北軸の直線上に並ぶ天壇の中心部。
e0116578_16264851.jpg
上の写真は天壇のシンボル的な建築で、毎年春の豊穣祈願をするための祈念殿。3層の大理石の基壇上に建ち、上にゆくに従って縮小する青瑠璃瓦の三重屋根は天とのつながりを表わしているという。祈念殿の前身は、1545年に建てられた大享殿で、三重の屋根は上中下をそれぞれ青、黄、緑の三色の瑠璃瓦で葺かれていたが、清代の1751年に修復した際、全て青色の瑠璃瓦に葺き替えられている。その後1889年に落雷で焼失し、1896年に再建された。下の写真は祈念殿の天井見上げ。
e0116578_16281767.jpg
e0116578_16291078.jpg
上の写真は、回音壁(壁に向かって話したり音をたてたりすると、100m近く離れた壁にいても聞こえるという、文字通り音が壁を回るという不思議な壁)と呼ばれる半円形の塀越しの皇穹宇。創建は明代の1530年で、清代の1752年に再建されて今の様式となる。もともと「皇天上帝」の神位を置く場所で、圜丘での祭事の時、壇の上に置かれる皇帝の位牌や神具等を収めておく所である。下の写真は皇穹宇の天井見上げ。
e0116578_16303515.jpg

頤和園
北京の中心部から北西に10kmほどの所にある頤和園は、元代以降風光明媚な地区として知られ、明代には富豪の庭園が築かれて西湖と呼ばれていた所。清の乾隆時代に湖を掘り、その土を東岸に積んで堤を築き、北部の山を万寿山、南の湖を昆明湖と改名し、かつて建てられていた圓静寺の跡に大報恩延寿寺を建て、そこに楼閣を造って清漪園(せいいえん)と名付けた。その後1860年、英仏連合軍が侵入した際、清漪園はその大部分を焼失したが、1888年(光緒14年)、慈禧皇太后(西太后)が8年の歳月を費やして再建し、頤和園と改名した。
e0116578_16315444.jpg

e0116578_1643927.jpg上の写真は昆明湖から眺めた万寿山(1981年)。昆明湖拡大のため掘り出された土で築かれた小山で、高さは約59m。中央に頤和園のシンボル的な建築である高さ41mの仏香閣を見る。

左の写真は、金水橋の先に排雲門、そして排雲殿(西太后が清国海軍の経費を流用して建設したとされている。)から仏香閣へとつづく建築群(1981年)。頤和園全体の主軸線を形成している。





下の写真は、仏香閣が建つ基壇上から昆明湖を見晴るかす(1984年)。
真下に排雲殿の屋根、排雲門、先に湖畔の鳥居型の門「雲輝玉宇」牌坊、そして昆明湖の中に十七孔橋で結ばれた南湖島を見る。
さらに下の写真は昆明湖畔に建つ雲輝玉宇牌坊(1981年)。
e0116578_16513310.jpg
e0116578_16521754.jpg

e0116578_16544241.jpg左の写真は、万寿山西麓の湖岸に建つ石造りの舟形建築「清晏舫」。石舫とも呼ばれる石船部分は、乾隆帝時代の1755年の建築で、沈むことのない船を、絶対に覆らない王朝の象徴として造られたようである。1860年の英仏連合軍侵略時に上部の中国風艙楼(建物部分)が焼失してしまい、西太后が再建するとき西洋式に変えられたそうである。
艙楼部分は木造で、表面は大理石風模様の塗装が施されている。ちなみに現在は内部には入れないようである。

下の写真は、湖の北畔に沿って東西に延びる長さ728mの長廊。乾隆帝の母親のために雨の日でも湖の散策が楽しめるよう造ったものらしいが、英仏連合軍の侵入時に破壊され、後に西太后によって再建された。長廊の梁や桁には一万四千余りの絵色彩豊かに描かれている。文化大革命時には破壊する命令があったらしいが、当時の管理者が絵の上に白い粉を塗って難を逃れたという話もある。写真は、1977年の文革終結宣言が出されて間もない1981年のものである。
e0116578_1722845.jpg

toshinacHP
# by toshinac | 2019-05-21 17:04 | trip photos

北京1/80~90年代の中国

1978年の日中平和友好条約から3年後の1981年、広大な黄土高原に分布する地下住居“窰洞”(ヤオトン)集落調査の考察団として初めての北京入り。以来、窰洞考察団として7次に亘る訪中時に各地に足をのばし、北京に於ける生土建築学術会議(1985)と日中伝統民家・集落シンポジウム(1992)の他、3度の個人的な中国旅で撮りためた写真を見直してみた。
1999年以降の中国は実見してないが、メディアを通して知る限り大都市はどこも超高層ビルが建ち並び、高速鉄道網が敷かれ、ハイテク産業も世界を席巻する勢いで、名所旧跡を除けば隔世の感である。
GDP世界第2位の経済大国を僅か数十年で築いた中国はもはや「眠れる獅子」ではないが、目を覚ましつつあった80年~90年代の、中華人民共和国の都市や史跡や建築、そして美しい自然や特異な住居・集落の写真を集めてみた。

故宮(紫禁城)
e0116578_17211491.jpg
e0116578_17221117.jpg
北京市の中心に位置する明・清時代の皇宮であった故宮は、数多くの宮殿や楼閣から成る世界最大級の木造建築群。南北961m、東西753m、敷地面積は約72万㎡で、周囲を高さ10m超の厚い城壁が囲み、さらに幅52mの堀がめぐり、その中に9000間以上の建物があり、その建築面積は約15万㎡にも及ぶ。
1925年に故宮博物院として一般公開され、1987年世界遺産に認定されている。
上の写真の上は、故宮の北にある景山(北海公園の湖と、紫禁城の堀を造った際に出た残土で造られた人工の山)から見た朝靄に霞む故宮(1982年冬)。上の写真の下は景山から真北方向を見る(1982年冬)。真っ直ぐのびる地安門外大街の先に鼓楼(創建は1272年で、現在のものは1539年に再建されたもの)を見る。天安門で始まり、景山で終わる紫禁城は、北京古城の南北中軸線上にあることがよく分かる。
下の写真は天安門(1982年冬)。
e0116578_17261414.jpg

e0116578_17273811.jpg
上の写真は大和門から見た大和殿(1981年夏)。
1406年に建築が開始され、1420年に完成の奉天殿(大和殿)は、幅95m、奥行48mという規模であったらしいが、その後数度に亘って焼失、再建が繰り返される。清代になって大和殿と改称され、1669年に大規模改修が行われたが、1679年、御膳房からの出火で大和殿も延焼し、1695年から1697年にかけて再建工事が行われ、この時に建物は幅64m、奥行37m、という現在の大きさになる。
下の写真は大和門から見た紫禁城の南門にあたる午門(1981年夏)。
e0116578_17293497.jpg

e0116578_1738559.jpg
上の写真は九龍壁(1982年冬)。紫禁城の北東部にある寧寿宮にあり、中国3大九龍壁の一つで、長さ29.4m、高さ3.5mの瑠璃装飾の壁。1772年に製作されている。
下の写真は紫禁城内の西1長街(1982年冬)。映画「ラストエンペラー」の中で、皇帝溥儀が自転車に乗るシーンの撮影場所。さらに下の写真は1999年撮影の大和殿。
e0116578_17432156.jpg
e0116578_17422126.jpg

toshinacHP
# by toshinac | 2019-05-01 17:46 | trip photos

ルクソール2/エジプト

e0116578_1122664.jpg
ルクソールのナイル川には橋は無く、ネクロポリスのある西岸にはフェリーで渡る(写真上)。川沿いの緑地帯の奥には荒涼たる砂漠と岩山が広がり、生命の存在を感じさせないような乾いた大地がいやが上にも死の無情感をつのらせる。
船着き場から車で数分のところに2体の巨大な座像が現れる(写真下)。メムノンの巨像と呼ばれるアメンヘプテ3世の像で、かつてはアメンヘプテ3世葬祭殿の入口に置かれていたが、葬祭殿は第19王朝最後の王によって破壊され、いまでは劣化が激しい高さ21mの2体の巨像が残るのみだが、背後の岩山に展開するネクロポリスの守護神のようにも見えてくる。
e0116578_1125920.jpg

ハトシェプスト女王葬祭殿
e0116578_11271517.jpg
古代エジプト史で確認される唯一の女王ハトシェプスト(第18王朝のトトメス1世の娘)が築いた葬祭殿で、新王国時代の王たちの墓が集中する王家の谷と山一つ隔てた窪地に建ち、隣に建つメントゥヘテプ2世の葬祭殿と合わせてデル・エル・バハリ(キリスト教普及の初期、この地に修道院があったことが起因か、アラビア語で北の修道院という意味)とも呼ばれている。
上の写真は、ハトシェプスト女王葬祭殿(右)とメントゥヘテプ2世葬祭殿(左)を南側から見る。当初メントゥヘテプ2世の神殿と同じ形式で計画されたらしいが、実現したものは3つのテラスを一軸線上に並べるというユニークな形式で、背後の荒涼たる岩山をも建築の一部に取込み、美しさと雄大さが簡潔に表現された古代エジプト建築の傑作。建築家は女王の娘の教育も任されたという寵臣センムトで、女王がカルナックに建てた2本のオベリスクの切り出しを指揮した人物だそうである。
下の図はデル・エル・バハリの平面図(西洋建築史図集:日本建築学会編より)。
e0116578_1130179.jpg
e0116578_11313615.jpg
上の写真は第2テラスから眺めたハトシェプスト葬祭殿正面。
第1テラスから8mほどの高さにある第2テラスの奥には、列柱中庭を中心とする第3テラスがある。第2及び第3テラスの正面は柱廊となり、その中央に斜路が設けられている。下の写真は、東側の山裾から3つのテラスを眺める。1997年11月、イスラム過激派による外国人観光客襲撃事件が発生し、日本人を含む数十名が犠牲となっている。写真は同年春のものである。
e0116578_11332890.jpg

下の写真2葉は、デル・エル・バハリの山の裏側にある、王家の谷(古代エジプト新王国時代の王たちの墓が集中する谷間で、西の谷と東の谷に24の王墓と64の墓が発見されている)にあるラムセス3世の王墓内通路。長い歴史のなかで墓のほとんどは盗掘されているが、1922年に発見されたツタンカーメン(トゥトアンクアメン)王の墓が未盗掘で、副葬品が完全な形で発見され、その多くはカイロのエジプト考古学博物館で見ることができる。
e0116578_11354381.jpg
e0116578_11361844.jpg

toshinacHP
# by toshinac | 2019-04-08 11:38 | trip photos

ルクソール1/エジプト

カイロから南下すること650km余り、ナイル川沿いにあるエジプト最大の古代遺跡がある街ルクソールは、元々テーベと呼ばれていたアメン信仰(この地方の大気の守護神・豊穣神)の聖地であった。
中王国時代(B.C.2040年頃~B.C.1786年頃)のメンチュホプテ2世が第11王朝を開いてテーベを都と定めたときから、古代エジプト最大の都市テーベの歴史の始まりとも言われている。B.C.1567年ごろ新王国の第18王朝が成立し上エジプトの首都となると、アメン神と古来の太陽神ラーが一体化したアメン・ラー信仰が急速な広がりを見せ、テーベはその中心として栄えていく。ナイル川東岸のカルナック神殿やルクソール神殿などの大神殿が建つ生ける者の都テーベに対し、王家の谷や王妃の谷などで知られるナイル川西岸は死せる者の都ネクロポリスとして明確に区分されていた。
400年にわたって栄えた古代オリエントの中心都市であったルクソールは、新王国時代(B.C.1567年頃~1085年頃)の栄耀栄華を今に伝えてくれている。

カルナック神殿
e0116578_1181180.jpg
古代エジプトのテーベに築かれたカルナック神殿は、新王国時代からプトレマイオス朝時代までの約1500年間に増改築を重ね拡張されてきた巨大な複合体。その中心はアメン神に捧げられたアメン大神殿で、北側に付属するメンチュ神殿、南側に建つムゥト神殿から成り立ち、これら全てを合わせると東西約500m南北1500mにも及び、現存する神殿では最大規模となる。
上の写真はアメン大神殿の第2塔門。右にラムセス2世像、左にパネジェムの巨像(元々ラムセス2世の像であったが、第21王朝のパネジェム1世が名前を書き換えた。)が建ち、大列柱室の先にトトメス1世のオベリスクを見る。
e0116578_11103114.jpg

e0116578_11114860.jpg上の写真は大神殿最大の見どころともいえる大列柱室。第19王朝の第2代ファラオであったテセィ1世によって装飾が始められ、その息子であるラムセス2世によって完成したとされ、幅102m、奥行53mの空間に134本の巨大な円柱が林立する様は壮観。開花型のパピルス柱頭を持つ中央の12本の柱(上の写真左)は高さ21mで、両側に林立する、未開花型のパピルス柱より高くなっている。

左の写真は、その段差の間に設けられた採光のための石のルーバー。列柱室全体に屋根があったときを想像すると、ルーバーから射し込む光は荘厳な空間を演出したに違いない。





下の写真は、第5塔門先の中王国時代の中庭から大列柱室方向を見返す。手前にハトシェプスト女王のオベリスク、奥にトトメス1世のオベリスクを見る。
e0116578_1115799.jpg

コンス神殿
e0116578_11164010.jpg
アメン大神殿の神域西側の隅に位置し、塔門、前庭、列柱室から至聖所へと続く平面は、小規模ながら新王国時代の神殿建築の典型とも言われている。上の写真は第2(?)塔門。下の写真は第2塔門を抜けた先の、開花前のパピルス型円柱に囲まれた小さな中庭。アメン大神殿からチョット離れているため比較的観光客も少なく、この時代の建築特有の威圧感ある空間とは違い、ヒューマンスケールの静謐な空間。
e0116578_1119167.jpg

ルクソール神殿
ナイル川沿いに建つルクソール神殿は、もともとカルナック神殿の中心を成すアメン大神殿の付属神殿として建てられたもの。第18王朝のアメンホプテ3世によって中心部分が建立され、以後、彼の子供でアメン信仰を復活させたツタンカーメン王、第18王朝最後のファラオであるホルエムヘブ(元軍人でツタンカーメン王の時代は将軍)、そして第19王朝の建築王として知られるラムセス2世により現在の姿が完成。当初カルナック神殿とは2.5kmに及スフィンクス参道で結ばれていたという。
e0116578_1123521.jpg
上の図は、全長およそ250mのルクソール神殿平面図と断面図(MONUMENTS OF EGYPT THE NAPOLEONIC EDITION PRINCETON ARCHITECTURAL PRESSより)。ナイル川に沿ってほぼ平行に配置されていた神殿は、中央の列柱廊から軸線を大きくずらし、2.5km先のアメン大神殿に一直線。
e0116578_11284381.jpg

e0116578_11294756.jpg上の写真は、スフィンクス参道から見たルクソール神殿第1塔門正面。塔門の前には1対のラムセス2世の坐像、その手前に高さ25mのオベリスクが立っている。
オベリスクは本来左右2本立っていたが、1本は1819年にフランスに贈られ、現在パリのコンコルド広場に立っている。

左の写真は、塔門入口からラムセス2世の中庭越しに列柱廊を望む。







下の写真は、アメンホプテ3世の中庭から列柱廊を見返す。列柱廊の開花型のパピルス柱に対し、この中庭を取巻くパピルス柱は未開花型となっている。

e0116578_11354190.jpg

toshinacHP
# by toshinac | 2019-03-23 11:36 | trip photos

ナイル沿いの3つの神殿/エジプト

アスワンからルクソールまでのナイル川流域には、古代エジプト文明後期の遺跡が点在する。
なかでも、鰐の神と隼の神を祀るコム・オンボ神殿、隼の神を祀るエドフのホルス神殿、羊頭の創造神クヌムを祀るエスナのクヌム神殿、これらの遺跡は比較的保存状態も良く、古代人からのメッセージでもあるレリーフのほか、この時代特有な装飾も見られることから、アスワン~ルクソール間のナイル川クルーズの目的地にもなっている。

コム・オンボ神殿
e0116578_9542067.jpg

e0116578_9553534.jpgアスワンの北約50kmのナイル川沿いに位置するコム・オンボの町は、元々はヌブトと呼ばれ、ナイル川を利用したヌビアからの通商路で、古代ギリシア人がオンボスと呼んだことが町の名の由来だそうである。プトレマイオス朝の時代(B.C.332~32年)に建設された、ナイル川を見下ろす丘の上に建つコム・オンボ神殿が唯一の見どころ。
第18王朝の至聖所跡に建てられたこの神殿は2組の神々(鰐の神と隼の神)に捧げられたもので、出入口や至聖所など主要な部分は全て2組で構成されていることが最大の特徴。

上の写真は修復工事中のコム・オンボ神殿第1列柱室を見る。中央の柱を主軸として完全な左右対称で配置されている。

左の写真は、第2列柱室から至聖所に至る3つの前室入口を通して見たもので、その先にある至聖所は残念ながら祭壇と僅かな壁が残るのみ。

下の写真は神殿内部に残る壁。大きく破損しているものの、技術的にも高度なレリーフが美しい。
e0116578_9591433.jpg

エドフのホルス神殿
e0116578_1015383.jpg

e0116578_10142186.jpgコム・オンボから北に約60km、アスワンとルクソールのほぼ中間に位置するエドフは、古代ギリシア・ローマの時代に上エジプトの州都として栄えた町。隼の頭持つ太陽神ホルスを祀るホルス神殿がナイル西岸の町の中央に建っている。B.C.237年プトレマイオス3世によって建築が開始されるが、以後歴代の王へと工事が引き継がれ、B.C57年に完成したエドフのホルス神殿は、エジプトで最も保存状態の良い神殿の一つとなっている。1860年にフランスの考古学会が発掘するまで、この神殿は土の下に埋まっていた。その後修復が重ねられて神殿全体が甦り、当時の姿を見せている。上の写真はホルス神殿塔門。幅137m、高さ36mの塔門は、カルナックのアメン大神殿の塔門に次ぐエジプト第2の大きさである。

左の写真上はレリーフが刻まれた柱が立ち並ぶ列柱室。左の写真下はレリーフが刻まれている周壁。
下の写真は、塔門を抜けた先に見る第1列柱室。奥に第2列柱室、前室、至聖所へと続く。
e0116578_1091960.jpg

エスナのクヌム神殿
e0116578_10181329.jpg

e0116578_10191296.jpgエドフの北西約50km、ルクソールから南に58kmにあるエスナの町には、プトレマイオス朝の時代に建てられたクヌム神(牡羊の頭を持つナイル川第1急湍の神)を祀る神殿がある。
ナイル川西岸200mほどの街中に建つ神殿は列柱室のみが現存する。高さ13.3mの柱が24本、かつての彩色を僅かに残した蓮の葉型の柱頭は、エドフのホルス神殿列柱室と同様に、柱ごとにその形状が微妙に異なっている。
上の写真は列柱室正面。

左の写真は列柱室内部。壁、柱すべてにレリーフが施されている。



下の写真は、周囲の地面から9mも低いところにある神殿の前庭からの見上げ。2000年間の地表面の変化を目の当たりにすると、かつて毎年のように氾濫を繰り返したと言われる“暴れ川ナイル”の話も合点がゆく。
e0116578_1031373.jpg

toshinacHP
# by toshinac | 2019-03-01 09:00 | trip photos

アブ・シンベル神殿/エジプト

e0116578_1743982.jpg
世界遺産の象徴的な遺跡であるアブ・シンベル神殿は、アスワンの南約280km、スーダンとの国境に近いエジプト最南端の観光地、アブ・シンベルに建つ古代エジプトの岩窟神殿。アスワン・ハイ・ダムの建設に際し水没の危機にあったが、ユネスコによる国際的な救済活動が行われ、1964年から1968年にかけて、元の位置から約60m上方にコンクリート製ドームの人工的な丘を造り、そこに神殿を正確に分割して移築復元したのである。この大規模な移築工事がきっかけとなり、「人類共通の遺産」の保護という基本理念の考えを基に、1972年のユネスコ会議に於いて世界遺産条約が定められた。
ナイル川西岸の砂岩の岩山を穿って造られたオリジナルは、第19王朝のラムセス2世(在位:B.C.1303~1237)によってB.C.1300年頃に造営されている。「建築王」と呼ばれたラムセス2世が残した建造物は、アメン神殿(カルナック)の大列柱室やルクソール神殿の塔門など、エジプト各地で目にするが、壮麗さではアブ・シンベル神殿が群を抜いている。太陽神ラーを祭神とする大神殿と、ハトホル女神を祭神とする大小二つの神殿からなり、大神殿は幅38m、高さ33m、奥行63mで、正面に高さ20mにも及ぶラムセス2世の坐像が刻まれている。大神殿北側の小神殿は、ラムセス2世最愛の妻ネフェルタリのために造営したもので、規模はさほど大きくはないが、正面に王と王妃の立像が6体刻まれている。
上の写真はナセル湖の畔から眺めた大神殿。
e0116578_17465235.jpg
上の写真は大神殿正面。
向かって左から2番目のラムセス2世像は、神殿完成の数年後に起きた地震で崩れ、頭部の一部が前面に転がった状態のまま。4体のラムセス2世像の足元に立つ小像は家族の像だそうである。
下の写真は大神殿の入口を入ったところの大列柱室。オシリス神(古代エジプト神話の冥界の王)の姿をしたラムセス2世の像8体が柱となり、天井には星が描かれ、壁には戦闘場面のレリーフ刻まれている。
さらに下の写真は、入口から50mほどの最も奥にある至聖所。3体の神と共に神格化されたラムセス2世像(右から2番目)が坐す。
e0116578_17495352.jpg
e0116578_1750368.jpg

e0116578_17513881.jpg
上の写真は小神殿。中央入口両脇にラムセス2世像、その両側の愛妻ネフェルタリの像を挟むかたちでラムセス2世像が刻まれている。ネフェルタリ像の足元には、小さな王と王女が配されている。
下の写真は小神殿内部。愛と美の女神ハトフルの顔が彫られた柱が支える小さ目な列柱室。さらに下の写真は、小神殿前の広場から大神殿方向を望む。
e0116578_1754268.jpg
e0116578_17552040.jpg

toshinacHP
# by toshinac | 2019-02-12 17:56 | trip photos

アスワン/エジプト

e0116578_1041255.jpg
首都カイロから南へ890km、ナイル川上流の東岸に位置するアスワンは、エジプト観光最南の拠点都市。世界遺産の象徴的な遺跡であるアブシンベル神殿訪問の起点となっており、エジプト近代化の象徴でもあるアスワン・ハイ・ダムのある地としても広く知られ、冬のリゾート地として欧米などからの観光客が多いこともあって、ナイル川岸辺の静かな環境下に長期滞在者用のホテルが点在する。
古代の上エジプト時代には、ナイル川に浮かぶエレファンティネ島が中心で、現在の町は当時の市場(スーク)の役割を果していた所だという。上の写真は、アスワンでの観光には欠かせない伝統的な木造の帆船ファルーカやヨットが行き交うナイル川。中央奥のタワーの建物はエレファンティネ島にある最高級ホテル“アスワン・オベロイ”。下の写真は、エレファンティネ島の1kmほど上流の島に建つ宿泊したホテル“イシス・アイランド・アスワン。
e0116578_10442579.jpg

e0116578_10451713.jpg

e0116578_10463618.jpg上の写真はアスワン・ハイ・ダムの遠望。1901年完成のアスワン・ダムの上流6kmに造られたアスワン・ハイ・ダムは1970年の完成。20世紀のピラミッド建設とも言われるほど壮大なロックフィル・ダム(岩石や土砂を積上げて建設する堤防形式のダム)で、その規模は堤頂長3830m、堤高111m、堤頂部の幅40m、基礎部分最大幅980m、発電能力は210万キロワット(ちなみに黒部ダムは33.5万キロワット)という巨大事業であった。

左の写真は、高さ72mのアスワン・ハイ・ダム完成記念塔。ダムの完成はソビエトの援助が大きかったことから、エジプトーソビエト友情記念碑とも呼ばれている。

下の写真は記念塔を真下から見上げたもの。地上から立ち上がる5つの巨大なコンクリートシェルを上部のリングで連結した構造で、設計はエジプトとソビエトの建築家80人によるコンペで選ばれたユーリ・マルチェンコという建築家。エジプトの復活を象徴する蓮の花がモチーフとなっているそうである。
e0116578_10505880.jpg

e0116578_10515237.jpg

e0116578_10531325.jpg上の写真は、ダムによって生まれた人造湖であるナセル湖。全長500km、幅も平均10kmで、面積は琵琶湖の8倍に達するという巨大さである。
写真に写る建物はダムの南約1km先の島に建つカラブシャ神殿。B.C.20年頃のローマ皇帝アウグストゥスの統治時代に、アスワンの南55kmのナイル川西岸に建立された神殿で、ハイ・ダム完成に伴い水没を避けるためにこの島に移築されたもの。


左の写真は、アスワン市街の南にある古代の石切り場にある切りかけのオベリスク。
アスワンはエジプトでも屈指の花崗岩の産地で、古王国時代にはピラミッドの化粧石として850km下流のギザまで運ばれていた。切りかけのオベリスクは基底部が4m四方で長さは41.75mという巨大なもの。切り出し中に亀裂が生じて放棄されたのではと考えられている。


下の写真は石切り場近くから見たアスワン市街。
左奥に見えるナイル川西岸の丘の中腹には、古王国から中王国時代の州侯たちの岩窟墓がある。
e0116578_10575231.jpg

roshinacHP
# by toshinac | 2019-02-01 09:00 | trip photos

メンフィス・サッカラ/エジプト

メンフィス
e0116578_9534014.jpg
カイロの南約20kmにあるメンフィスの遺跡は、B.C.3100年ごろ、エジプト初期王朝の開祖メネス王が、上・下エジプトを統一して造った都。統一以前のエジプトは、上エジプト(ナイル渓谷地帯)と下エジプト(ナイル下流デルタ地帯)とに分かれていて、両地の接点にあたる場所がこの地メンフィスであった。

e0116578_9543053.jpg5000年前エジプトの首都として栄えた都も、いまは昔日の面影は全くなく、発掘された僅かばかりの遺跡が静かに物語るのみ。
上の写真は、廃墟の跡すら見つけづらいほど荒れたかつての都にナツメヤシが茂る。


左の写真は、ここで発見されたラムセス2世 (在位:B.C.1279~B.C.1212頃、エジプト新王国第19王朝のファラオで、カイロのエジプト考古学博物館にミイラが安置されている。) の巨大な石像で、脚の一部が欠損しているものの、ほぼ完全な状態で横たわっている。


下の写真は、ラムセス2世像がある建物の東側に座すアラバスタ―(方解石)のスフィンクス。アメンホプテ2世(在位:B.C.1453~B.C.1419頃、第18王朝)の建造と伝えられている
e0116578_9583454.jpg

サッカラ
e0116578_1005082.jpg
サッカラはカイロの南約24km、ナイル川の西岸にある小村で、古代エジプトの首都であったメンフィスのネクロポリス(ギリシャ語で死者の都という巨大墓地)で、幾つかのピラミッドやマスタバ(エジプト初期王朝から第6王朝の時代にかけて造られた墳墓の一種)が現存する。なかでも第3王朝ジェセル王の階段状ピラミッドコンプレックス(ピラミッドと祭壇や神殿との複合体:B.C.2620~B.C.2600年頃)はエジプト最古の石造建築物であり世界最古のピラミッドと言われている。建築家はイムホプテ。彼はヘリオポリス(現在のカイロ近郊に存在した古代エジプトの都市)の神官でジェセル王の大臣であり、後世その名は神格化され、学問・建築・技術を司る神として祀られることになる。
このピラミッドは約63m四方、高さ約8mの正方形のマスタバとして造られたのが始まりで、その後5回に亘る拡張工事を経て、いまに見る6段の階段状ピラミッドという姿になったという。その規模は、底面約121m×109m、高さ約60mで、石灰岩の割石で構築されている。かつては白いトゥーラ産(カイロの南方約10kmにある古代エジプトの採石場)の切石で表層が仕上げられていたそうである。上の写真は南側から見たジェセル王のピラミッド。右奥にウセルカフ王(第5王朝の創設者)のピラミッドを見る。
e0116578_1042543.jpg
コンプレックスは東西277m、南北545mの矩形を成し、ピラミッドを中央に配して高さ約10mの周壁(現在は一部を残すのみ)を廻らし、15の門が造られていたそうだが、実際に出入りできた門は東面南端近くの現在の入口のみということである。上の写真はピラミッドコンプレックスへの入口門。下の写真は入口から続く狭い列柱廊を抜けた出口で、ピラミッドが建つ大中庭に出る。
e0116578_1063475.jpg

e0116578_1073164.jpg
上の写真はジェセル王のピラミッドと神殿群のコンプレックス。
下の写真は様式的な円柱を想わせる壁付き柱が付けられた壁。この時代、円柱はすべて壁付き柱で独立円柱は見られないが、パピルスを束ねた形の円柱や蓮の花の形の柱頭飾りなど、細部にはすでに様式的な円柱の完成が近いことを想像させる。
e0116578_1091416.jpg

toshinacHP
# by toshinac | 2019-01-15 10:10 | trip photos