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ミコノス島/ギリシア

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エーゲ海の中央部に浮かぶキクラデス諸島の北東部に位置するミコノス島は、首都アテネから南東へ約155kmの距離にある、面積86k㎡(東京の大島より少し小さい)の小さな島。
エーゲ海がトルコ帝国の支配下にあった18世紀初め、フランス王国がスルミナ(現イズミール)とコンスタチノーブル(現イスタンブール)間の航路を開設したことでミコノスはその中継拠点となり、港の整備が進むとともに商業貿易の基盤ができあがる。その後、この航路がフランスの政変で放置されると、船乗りとして海域に精通したギリシア人が取って代わり、ミコノスにこれまでにない繁栄をもたらし、1950年代以降には島の観光化が一気に推進されていく。上の写真は、着陸前の航空機の窓から覗いた島の沿岸部。荒涼とした大地に見る白塗りのホテルらしき建物とプール。
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紺碧の海に浮かぶ白い宝石とも例えられるミコノス島は、いまでこそ国際的なリゾート地として観光業で栄えているが、この島の基本的な生業は古くから農牧業が主であった。キクラデスの非常に雨が少ない厳しい自然の中、人々は限られた農地や牧草地を石積みで区画し、長年に渡って土壌の改良に努めながら野菜を植え、葡萄やオリーブの木を育て、羊や山羊の放牧と家畜の飼育もするという、いわゆる地中海式の有畜農業である。上の写真はミコノスタウンの沿岸部。その景観からリトル・ヴェネチアとも呼ばれ、おしゃれなカフェやレストランが軒を連ねる。
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e0116578_1724550.jpgしかしながら、観光業が盛んになると基本の生業にも変化が起こり、現在、住民の多くは島の西部にある港町ミコノス(ギリシア語でホーラとも呼ばれる)に住み、その多くは観光業に関連する商業や漁業を生業としているようである。
上の写真は、住居が密集するミコノスのパルキア地区あたりを高台から見る。


左と下の写真はパルキア地区の街路空間。細く狭い通路に面し、階段バルコニー型と呼ばれる2階建て外階段の住居が複雑に絡み合い、毎年塗り重ねられる石灰が白い迷宮を創りだす。






さらに下の写真は、ミコノスタウン南西沿岸のカト・ミリの丘に建つ、ミロスと呼ばれる粉ひき小屋の風車。いまでは観光名所の一つとなっている。
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日常生活に、ギリシア正教の教義とギリシア神話の神々が深く関わるミコノス島には、家族用の小さな礼拝堂を含めると400を超える教会が点在するとされている。古代の偶像崇拝から、いつ頃キリスト教に信仰を移していったのかは明らかになっていないらしいが、1207年の西ヨーロッパからの十字軍が侵入すると、征服者はこれまでの正教を排除してカソリックの布教を押し進めるが、島民は正教の教義と司祭の言葉を神から授かったものとしてこれに抵抗、ギリシア正教の神を信奉し続けたという。その後トルコ帝国統治下での弾圧を受けながらも、島の立地条件を生かした海運業(主に海賊行為)の発展が、ミコノスのギリシア正教の勢いを回復させたと言われている。
神々を祀り、先祖を崇拝し、人々の通過儀礼が行われる場でもあるミコノスの教会は、その機能や役割から、家族教会と言われる家庭用の礼拝堂、司祭のいる教区教会、ギリシア神話に基づく神々に捧げられた教会に分けられる。
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上の写真はパナギア・パラポルティアニ教会。
ミコノスタウンでも一番古いカストロ地区にあるこの教会は、かつてこの場所に城塞の裏門(パラポルティ)があったことが教会名の由来となっている。4つの別々の教会と、その上に設けられたドーム状の屋根を持つ聖母教会で構成されるという珍しい教会で、おもに16世紀~17世紀に造られているが、最も古い教会は15世紀のものとされている。1920年までに現在の形に改築されたという。
下の写真はセント・ニコラス教会。海に最も近く建つこの教会は、港が整備される1932年頃までは、同じ場所ではあるが海に築かれた基壇上に建っていたそうだが、港の整備に伴いミコノスでは珍しい交差ヴォールトの教会に建て替えられている。ミコノスの船乗り達が守護神と崇めるポセイドン(海の神)が祀られていることから、教会は元漁師や船乗り達の憩いの場にもなっている。
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下の写真2葉は、農牧地の中に建つ家族用の教会。数多く存在する教会の中で最も多いヴォールト屋根の小さな礼拝堂は、かつては祖先の遺体が眠る墓地としての教会であった。ミコノスにコレラが流行した1854年以来、教会に遺体を埋葬することは禁じられたが、いまでは死者の復活に必要な3年目まで共同墓地に埋葬し、後に遺体を掘り起して葡萄酒で洗い清め、家族教会の床や壁に埋葬しなおすという形をとっている家族も少なくないようである。家族ための納骨堂と言えなくもない。
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# by toshinac | 2018-07-07 17:19 | trip photos

アテネ古代遺跡2/ギリシア

ゼウス・オリンピウス神殿
アテネの中心部にある古代ローマ時代の遺跡で、ギリシア神話の最高神ゼウスを祭る神殿の跡。B.C.6世紀にアテネの僭主(せんしゅ:非合法手段で政権を握った独裁者)ペイシストラトスが建造を始めるが工事は途中で中止され、跡を継いだ息子らによりB.C.520年頃より建設が再開される。
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e0116578_1123951.jpgしかしB.C.510年に息子ヒッピアスが追放されたことでまたもや中断、基礎部分と僅かに完成していた円柱を残したまま336年間も放置されていた。
その後B.C.174年、セレウコス朝(B.C.312~B.C.63年:アレクサンドロス大王の後継者の一人が、オリエント地方に築いた王国。)のアンティオコス4世によって建設が再開されるも、10年後にアンティオコス4世が死去したことにより建設はまたまた中断する。
当時はすでに共和政ローマの支配下にあったアテナイで、ルキウス・コルネリウス・スッラ(B.C.138~B.C.78年:共和政ローマ期の軍人・政治家)が放置されていたゼウス神殿の柱をローマに持ち帰ったことで、神殿は大きく破壊されたという。
古代の世界で最大とされる神殿は、初代ローマ皇帝アウグストゥスの統治時代に建設再開となるが、完成は14代ローマ皇帝ハドリアヌスによって132年に完成。じつに建設開始から638年を経過したことになる。
しかしながら5世紀~6世紀にかけて、キリスト教以外の神を祀った神殿を否定する東ローマ帝国により神殿は破壊され、石材はキリスト教の聖堂建設に利用されたということである。


スタディオン
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上の写真はアテネのスタディオン。1869年~70年発掘され、1895年に再建されて、1896年の第1回近代オリンピック競技の会場になったことで有名。古代アテネの最も重要な祭典“パンアテナイア”(全アテナイの祭りという意味で、B.C.6世紀中頃に僭主ペイシストラトスによって整備され、女神アテナの名誉を守って4年ごとに催された宗教的な運動の祭典。)のために、2つの丘の谷間に自然の傾斜を生かして造られた競技場である。競技場を馬蹄形に取り巻く大理石の階段状の観覧席は、B.C.330年頃に建設が始められたとも言われているが、完成したのはA.D.143年、オデオンの音楽堂を建設したヘロディス・アッティコスの尽力によるとされている。
その後4世紀の後半に入ると、ローマ帝国のテオドシウス1世(在位379年~395年:東西に分裂していたローマ帝国を再統一し、一人で支配した最後の皇帝。)によって、パンアテナイアは禁止され、競技場は徐々に荒廃し、やがて小麦の畑に覆われたという。1836年の考古学的発掘で競技場の痕跡が発見され、1869年~70年にドイツ生まれの建築家エルンスト・ジラー(1837~1923:後にギリシア国民となり、20世紀初頭には、ギリシア国内で王室と市町村の公共建築を数多く手掛ける。)によって徹底的に発掘された。下の写真はGoogle Earthでみたスタディオン。
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ポセイドン神殿
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アテネの南南東約70km、アッティカ半島の東南端にあるスニオン岬に建つポセイドン神殿は、ギリシア神話の海の神ポセイドンを祀るドリス式の神殿である。B.C.444~440年ごろ、ペリクレス(B.C.495頃~B.C.429年:古代ギリシア、アテナイの軍人で政治家。現存のパルテノン神殿の再建など、文化面でも大きな役割を遺す。)によって、以前にあったとされる神殿跡に建てられた。
正面6柱、側面13柱の周柱式神殿は、A.D.1世紀頃にはこの聖域が放棄されたらしく、その後神殿は荒廃し、いまでは白亜の列柱を残すのみ。イタリアのローマ遺跡パエストゥムにある、ポセイドン神殿の完全な姿と迫力には及ばないが、エーゲ海の夕日に映える神殿の美しさが旅愁を誘い、アテネから離れているにもかかわらず多くの観光客が訪れる。
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# by toshinac | 2018-06-18 12:00 | trip photos

アテネ古代遺跡1/ギリシア

ディオニソス劇場
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アクロポリスの東南斜面を利用して造られた野外劇場で、ギリシア神話に登場する豊穣と葡萄酒と酩酊の神“ディオニソス”の聖域の一部となっていた。ギリシア最古の劇場でB.C.6世紀頃の創建とされているが、ローマ時代のB.C.4世紀に改築され、第5代のローマ皇帝ネロが紀元61年に修理をさせたという記録が残るのみだそうである。オルケストラ床の敷石を菱型にかたどり、今は無い舞台の前面を飾る彫刻像など、現在にみる劇場の姿はローマ時代のものである。ちなみに収容人数は15,000~18,000人ほどらしい。

オデオンの音楽堂(へロディス・アッティコス音楽堂)
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ローマ時代の161年頃、アクロポリスの南西斜面に造られた音楽堂。
列柱廊によってディオニソス劇場と結ばれていた。ローマの元老院議員であったギリシア人貴族のヘロディス・アッティコスによって建設された施設で、劇場正面の列柱廊には木造の屋根が架けられていたという。主に音楽の演奏会に用いられ、約6,000人の収容が可能とされている。
客席と舞台部分の改修が行われた現在、演劇やコンサート等の催物に利用されている。

アゴラ
アゴラとは、古代ギリシアの都市国家において、軍事的・精神的な中心であるアクロポリスに対して、周囲に様々な公共施設が配置された広場・市場であり、市民生活の中心となる場所を指す。アテネのアゴラは(B.C.6~2世紀)アクロポリスの北西に位置し、約200m四方の広場の周囲に、ストアと呼ばれる列柱廊をはじめ、神殿および行政・商業等の諸施設が整備されていた。市民の交流の場であった広場では、買い物の傍ら男達(古代ギリシアでは買い物は男性の役目とか)が、政治や芸術を論じたり、熱弁を振るう哲学者の思想にふれるなど、情報交流の場でもあったという。かのソクラテスやプラトンも、この場で熱弁を振るっていたと言われている。
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上の写真はアゴラの西の丘に建つヘファイストス神殿。B.C.449年に着工され、B.C.415年頃の完成とされ、前面6柱、側面13柱の大理石の柱が屋根を支えるドリス式の神殿は、ギリシア神話の火と鍛冶の神ヘファイストスを祭る。アテナイ(アテネの古名)の王テセウス(ギリシア神話に登場する伝説的な王で、国民的な英雄)のレリーフが多数施されていることから、テセウスの神殿“テセイオン”と呼ばれていた時期もある。また7世紀から19世紀まで、ギリシア正教のゲオルギウス聖堂として用いられたことで、最も破損が少ない古代ギリシア神殿として現存する。
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上の写真は、1952~1956年にかけて忠実に復元されたとされるヘレニズム時代の“アッタロスのストア” で、アテネのアゴラ東端部に建つ。B.C.150年頃、ペルガモン王国(現在のトルコのペルガモを都とした王国)の王アッタロス2世(在位B.C.159~138年)から寄贈されたもので、2階建て列柱廊の長さは111.96m、奥行19.52mで、かつては柱廊の両端に2階に上がる階段が設けられていた。両階とも前面に2列の柱廊、奥に21の部屋があり、当時は商店として使われていたという。
現在、アッタロスのストアは古代アゴラ博物館となっており、これらの部屋には当時の資料が展示されている。ストアの手前に見るビザンチン様式の建物は、11世紀頃建てられた聖使徒聖堂。
下の写真は、アテネ市内で一番標高が高いリカヴィトスの丘を背景に見たアッタロスのストア。
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# by toshinac | 2018-06-10 09:23 | trip photos

アテネのアクロポリス/ギリシア

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アクロポリスとは、古代ギリシアのポリス(都市国家)の高所に造られた聖域で、域内には都市の守護神を祭る神殿や公共建築物が設置され、市政の重要な祭儀が執り行われたり、非常時の比護所となったりもした、“古代ギリシアの都市国家における宗教的・精神的な中心地”。ギリシア国内に幾つか残るアクロポリスの中でもアテネのアクロポリスは代表格。
上の写真はフィロパポスの丘より眺めたアテネのアクロポリス全景で、手前にローマ時代に造られたオデオンの音楽堂遺跡を見る。海抜150m、東西270m、南北156mの石灰岩の台地上に、パルテノン神殿をはじめ、ペリクレス(B.C.495?~429:古代ギリシア、アテネの政治家で、アテネの民主政治と帝国が最高の発展を見た時期の指導者。)の執政時期(B.C.444~429)を中心としたアテネの黄金時代に、ギリシア建築の傑作が建てられた。

パルテノン神殿
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上の写真はパルテノン神殿全景(B.C.447~432)。守護神アテナを祭る神殿はアクロポリスの中心にあり、正面8柱、側面17柱の周柱式神殿。基壇とエンタブラチュア(柱頭上部の水平に構築される部分で、モールディングや帯状装飾で飾られる。)にはむくりがつけられ、柱もごく僅かなエンタシス(膨らみ)をもっており、元来垂直であるはずの柱や壁も内側に傾斜し、隅の柱は対角線方向に傾けるなど、視覚上の補正が施された比例美はギリシア建築の極みといえる。

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左の写真は、ドーリア式オーダーのエンタブラチュア部分。古代建築の重要な要素であるエンタブラチュアは、一般的にはアーキトレーブ(各円柱間や円柱と壁との間に渡された直上部分)、フリーズ(アーキトレーブの上にあり、装飾が有る場合と無い場合がある帯状の部分)、コーニス(エンタブラチュアの最上部に置かれる部材で、破風の下に張り出した部分)、の3部分から成り、かつては色鮮やかな彩色が施されていた。







下の写真は正面。古代ギリシアとローマの古典的神殿建築の、対称性や奥行、その価値観に基づく設計から派生したヨーロッパの建築様式、いわゆるパラディアン様式の根源ともいえるパルテノン神殿。
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プロピライア
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上の写真は、アクロポリスの入口である西側の急斜面を上りきる所に造られた門“プロピライア”(B.C437~433:ラテン語とギリシア語から「前門としての建物」と言う意味)を見上げる。東西両面にドリス式の6本柱の門屋と、南北に張り出す翼屋から成り、北翼屋はピナコテカ(絵画館)と呼ばれている。また門屋の中央通路の両側には3本のイオニア式の柱が配されていることから、ドーリア式と、イオニア式の折衷的な効果が特徴となっている。
下の写真は、アクロポリスの入口を北西側から仰ぎ見る。手前にピナコテカ、入口階段を挟んで南翼屋とアテナ・ニケ神殿を見る。
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アテナ・ニケ神殿
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上の写真は、アクロポリス入口右手(南西)の稜堡上に建つアテナ・ニケの小神殿。B.C.6世紀に建設されたアテナ神殿が、B.C.480年にアケメネス朝ペルシャに破壊されたため、その廃墟の上にB.C.427年~424年頃に建設されたもの。だが神殿は1687年には取り壊されて砲台の部材にされていたのを、1835年に再発見され、1935年~1940に元の位置に再建された。基壇の前後それぞれに4本のイオニア式の柱が立ち、フリーズには神々の中央に座すアテナとアテネの戦士たちが刻まれている。しかしペディメントは失われたままである。

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# by toshinac | 2018-06-01 01:00 | trip photos

マテーラ

“洞窟都市”として知られるマテーラは、プーリア州の西に接するバジリカータ州(イタリア半島を長靴に例えればちょうど土踏まずにあたる)にあり、イオニア海から70kmほど内陸に位置する世界遺産の町。
その起源は新石器時代に遡り、マテーラの大地に深く刻まれた巨大なグラヴィーナ渓谷の東向き斜面に始まる。軟らかな凝灰岩の地質は自然の浸食を受けやすく、渓谷の斜面には自然の洞窟が点在していたことから、人々はその洞窟に自然と住み着いた。時代が下った8世紀頃からは、イスラム勢力を逃れたギリシャからの修道僧が大挙して移り住み、自然の洞窟だけでなく、斜面を削った崖に横穴を規則的に掘り、入口や窓を設けた修道院や住居を崖の各層に構えていったという。その後15、16世紀頃までには石造りの地上の住居も加わり、現在に見られるセットバックしながら重なる高密度集落の景観を呈していったようである。
このような洞窟住居群をマテーラではサッシ(石や岩を意味するサッソの複数形)と呼び、渓谷の中央部に突き出た高台のチヴィタ地区南側に展開するサッソ・カヴェオーゾ地区と、北側のサッソ・バリサーノ地区という二つのサッシがある。
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上の写真は、グラヴィーナ渓谷の対岸から眺めたサッソ・カヴェオーゾ地区。二つのサッシの間にあるチヴィタ地区に建つドゥオモの鐘楼が、“洞窟都市”マテーラの景観をひときわ際立てる。
下の写真は、ドゥオモを中心とした高台のチヴィタ地区を望む。斜面には、洞窟の前面に壁や部屋を設けた混成型の住居と、完全に地上建てた石造りの住居が段状に混在し、すべてが同一の素材で構築されていることは、あたかも岩山を掘り刻んで造られた都市ではと想わせる景観である。
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e0116578_9271720.jpg上の写真は、サッソ・カヴェオーゾ地区の南のゾーンで、渓谷の下の方には自然の洞窟が点在し、その上には崖面を造ってそこに開口を設けただけの洞窟住居がならび、その上層には穴の前面に切石を積んで増築した住居が見られ、さらに一番上の地上には複数階の住棟群が建ち並ぶという、洞窟住居の生い立ちからその発展の軌跡を目の当たりにできる地区である。

左の写真は、チヴィタ地区の北側の渓谷に展開するもう一つのサッシ、サッソ・バリサーノ地区。




下の写真は、サッソ・カヴェオーゾの南ゾーンからチヴィタ地区を眺める。近代化から取り残され、住民不在による荒廃が進んだサッシの古い地区は、1993年の世界遺産登録以降、“洞窟都市マテーラ”として、現代の都市生活にも適合した再生を目指している。
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# by toshinac | 2018-05-05 09:31 | trip photos

ロコロトンド

プーリア州バーリ県のコムーネの一つであるロコロトンドは、州中部の「ムルジェ地方」と呼ばれる丘陵地域の南東部「ムルジェ・ディ・トゥルッリ」の高台にある都市で、町の南側には、「イトリアの谷」と呼ばれる葡萄畑やオリーブ畑が続くのどかな農村風景が広がり、地域名「ムルジェ・ディ・トゥルッリ」が示すとおりトゥルッリの農家が多く点在する。
その美しい谷を見晴らすことができるロコロトンドのチェントロ・ストリコ(歴史的街区)は、「クルメルセ」と呼ばれる急勾配の切妻屋根の建物が連なり、それが円形の輪郭を形成して市壁を兼ねるというめずらしい“円形都市”。古代ローマの殉教者サン・ジョルジョを祀った教会の周りに生まれた村落で、「カサーレ・サン・ジョルジョ」と呼ばれていたそうだが、12世紀の前半には円形状の集落が形成されて、「カサーレ・ロトンド」、後に「ルオーゴ・ロトンド」と呼ばれ、1834年に現在のロコロトンド(ロコ=場所・ロトンド=丸い)と呼ばれるようになったと言われている。ただ、これほどきれいな円形の都市がなぜできたのか、その形成過程は定かではない。
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上の写真はロコロトンドの凧写真。現在ならばGoogle Earthやドローンで容易に俯瞰することが可能だが、当時(1988年)は凧にカメラを付けての風まかせ写真。現像するまでどのように映っているかも分からないという、そんな時代の写真である。
街のほぼ中央に建つ教会は、1825年完成のマドーレ・サン・ジョルジョ教会。もともとこの場所には、1195年に建てられたサン・ジョルジョ教会と、16世紀に建てられたマドーレ教会という2つの教会があったことから、その跡地に建てられたことで2つの教会名を合わせた名称になっている。下の写真は、イトリアの谷にそびえる丘上のチェントロ・ストリコを円形状に縁取る住宅「クルメルセ」。
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上の写真は円形状の外周を廻っていて見つけた目と眉毛を持つクルメルセ。
下の写真はロコロトンドの街区内部。ムルジェ地方の他の小都市同様に、連続する家屋の白壁と迷路のような路地、そこに取付く階段や路地を跨ぐバットレスなど、歩みとともに移り変わる街路空間のシークエンスに胸躍る。さらに下の写真はロコロトンド近くのイトリアの谷で見かけたトゥリッリの農家。
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下の写真はGoogle Earthで見たロコロトンドのチェントロ・ストリコ。円形状の輪郭の中に、マドーレ・サン・ジョルジョ教会を中心に切妻屋根のクルメルセが密集する。
俯瞰写真は、いまではドローンによる撮影がもっとも効果的と思えるが、現地で凧を組み立てて、風を読みながら撮影範囲を想定してシャッターをきる凧写真は、そのときの撮影行動も含めて鮮明に甦るので、それなりに貴重な写真となっている。
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# by toshinac | 2018-04-16 10:17 | trip photos

アルベロベッロ

しばしば長靴の形で例えられるイタリア半島の、踵の部分にあたるプーリア州の小さなコムーネ(基礎自治体)の一つアルベロベッロは、白壁に石積のとんがり屋根という、この地方の伝統的な家屋であるトゥルッリ民家の集落で知られる世界遺産の小さな町。
アルベロベッロのあるムルジェ地方は、肥沃な表土のすぐ下に石灰岩の層があることから、良好な石材を容易に得ることができ、それを積上げて壁を造り、ドーム状の屋根を架けた建築が古くから造られてきた。その発展した形ともいえる円錐形ドームを持つトゥルッリは、素朴な農家の孤立した形式が本来の姿だが、それが集まって町のような景観を見せるのがアルベロベッロである。
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e0116578_9241178.jpgイタリア建築史の研究者によれば、現在のアルベロベッロは、15世紀・16世紀頃には分散していたトゥルッリの小集落が、17世紀・18世紀の発展に伴って拡大し、結果トゥルッリの大集合体が形成されたという。「アルベロベッロのトゥルッリ」として世界遺産に登録されている地域は、町の東部高台のアイア・ピッコラ地区と、横長の谷状の底にあるジュゼッペ・マルテロッタ広場から、南に展開する北向き斜面のモンティ地区である。ユネスコによればアイア・ピッコラ地区には1030軒、モンティ地区には590軒のトゥルッリが現存しているそうである。
上の写真は、モンティ地区のトゥルッリ集落を、対面する高台からマルテロッタ広場越しに見晴るかす。

左の写真はマルテッロ広場から上る通りの昼下がり。坂の両側の民家の多くが土産物屋を営んでいるが、果樹園等の農業に従事している家も少なくないようである。
下の写真はモンティ地区の別の通り。緩やかな弧を描く坂道の両側に、壁を共有しながら整然と連なるトゥルッリの民家。
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下の写真2葉はアイア・ピッコラ地区のトゥルッリの町並み。
モンティ地区に比べ少し古い地区だけに、さまざまな形のトゥルッリが不規則に連なるが、不思議と統一感のとれた美しい町並みが形成され、土産物屋が多いモンティ地区と違い観光客の数も少なく、落ち着いたたたずまいを見せている。
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下の写真はアイア・ピッコラ地区にあるトゥルッロ・ソヴラーノ。主権者のトゥルッロ(トゥルッリの単数形)と呼ばれているだけに、一般のトゥルッリに比べると規模も大きく、石積にモルタルを使用するなど、建築の技術にも変化が見られ、トゥルッリでは殆んど見られない2階のある造りとなっている。最も古い部分は17世紀初頭のもので、18世紀に拡張し現在の形が造られ、その後領主の館や地元司祭のための施設など、様々な役割をはたしてきたという。現在はトゥルッリ博物館になっている。
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上の写真は、プーリア州ムルジェ地方の通称オリーブ街道沿いに点在するトゥルッリ。左上はアルベロベッロと見紛うばかりのオストゥーニ近くのトゥルッリの集落。左下は、同じオストゥーニ近くで見たオリーブの木に囲まれたトゥルッリだが、石積みの壁に石灰が塗られていないことからか、素朴でいかにも農家という印象を受けたトゥルッリ。右上下は、州都バーリの北西約30kmの小さな港町モルフェッタから、さらに北西約20kmの港町トラーニに向かう途中のオリーブ畑の中に見た珍しい渦巻き状のトゥルッロ。壁から屋根に連続して石を積上げて空間を獲得するこのトゥルッロは、いまは農機具の置場や倉庫として使用されているようだが、元来トゥルッロは農夫が休憩したり、農繁期に宿泊したりする場所だったことを考えると、これはトゥルッリの祖形ではと思えてくる。
下の写真は折り紙建築のシフトカード「アルベロベッロ」。1枚の紙で作られており、折り重なった上下を摘まんで横に移動させると奥行感のあるカードとなることから、シフトカードと呼んでいる。(作:中沢圭子)
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# by toshinac | 2018-03-28 09:46 | trip photos

ヒヴァ (2)/ウズベキスタン

クフナ・アルク
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上の写真はクフナ・アルクの城門前広場。
イチャン・カラ(内城)の西門北側の一角にあるクフナ・アルク(古い宮殿)は、鋸歯状の高い土壁によって囲まれた17世紀のハーンの居城。中にはハーンの公邸をはじめ、モスクやハーレム、兵器庫や火薬工場、それに造幣所などもあったという要塞。城壁の最上部にあるアク・シェイフ・ババの見張り台は、イチャン・カラを一望できるベストポジションとなっている。
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e0116578_1620658.jpg上の写真はクフナ・アルク内のスナップショット。
左上は城壁。
右上は造幣所の中庭にある夏のモスク。アッラクリ・ハーン(アッラーフ・クリ・バハドゥール:在位1825~1842)の命により1838年に建設。
上の写真左下はハーンの接見の間であるクリヌッシュ・ハナのアイワン。17世紀に建てられたが、1740年のペルシャによる攻撃で破壊されてしまい、現在見るアイワンは19世紀の初めに再建されたもの。
右下は同じ中庭を囲むロッジア風の建物。2階のアイワンの屋根奥にアク・シェイブ・ババの見張り台を見る。
左の写真は、城壁最上部にある、14世紀の建造とされるアク・シェイブ・ババの見張り台。緻密な彫刻が施された風化した木柱が時の流れを想わせる。
下の写真はクフナ・アルクの城壁上から眺めたイチャン・カラ。
クフナ・アルクの城門越しに、ムハンマド・ラヒム・ハーン・マドラサやジュマ・モスクのミナレット、右奥にイスラム・フッジャのミナレットを望む。
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ムハンマド・アミン・ハーン・マドラサとカルタ・ミナル
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西門を入ってすぐ右にあるムハンマド・アミン・ハーン(在位:1846~1855)のマドラサは、1852年の完成。中央アジアで最も大きな規模の神学校で、イスラムの最高裁判所の事務局も置かれた処。1977年よりホテルとして利用されている。

e0116578_16263779.jpgムハンマド・アミン・ハーン・マドラサに沿って建つカルタ・ミナルは、1852年に着工されるが、アミン・ハーンがペルシャとの戦いで亡くなったことで工事が中断され、“未完のミナレット”として現在に至っている。中央アジア一の高さを目指したという規模の大きさと、青の彩釉タイルで覆われた美しさから、イチャン・カラのシンボルとなっている。
上の写真は、クフナ・アルクの城壁上から見たムハンマド・アミン・ハーン・マドラサとカルタ・ミナル。奥にイスラム・フッジャのミナレットを望む。

左の写真は、マドラサとカルタ・ミナルに架けられたブリッジ。


下の写真は、朝日を浴びるカルタ・ミナルと観光用の駱駝。手前のドームはラヒム・ハーン・マドラサの施設であったが、現在は “Bir Gunbaz Tea House”というカフェになっている。右奥にアク・シェイブ・ババの見張り台が見える。
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タシュ・ハウリ宮殿
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ハーンの公邸であるクフナ・アルクに対し、ハーンの私邸であるタシュ・ハウリ宮殿は、1830年から1838年にかけてアッラクリ・ハーンによって建てられた。163の部屋と3つの大きな中庭、5つの小さな中庭からなる邸宅で、建物配置としては簡素な構成の建築だが、広い壁面を利用した彩釉タイルの装飾や、木柱の複雑な彫刻の美しさが高く評価されている。
上の写真はハーレムのある北側の中庭。北向きのアイワンが5つ連続する棟には4人の正妻が住み、中庭を囲む2階建ての小さなアイワンのある部屋はハーレムの女性達の部屋で、ハーンは中庭に建てたユルタに居ることを好んだそうである。下の写真は、アイワンの壁と天井を彩るタイル装飾と木柱。
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ジュマ・モスク
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中央アジアでも有名な多柱式建築として知られるジュマ・モスクは、10世紀頃の創建以来、幾度かの修復工事を重ね、現在の形になったのは1788年から1789年にかけてのことだそうである。
広さ約55m×46m、何の装飾もない焼成煉瓦の分厚い壁に囲まれた陸屋根の建築で、窓もなく、明かりは天井に設けられた2ケ所の開口部、いわゆる“光の井戸”のみ。暗いモスク内には陸屋根を支える212本の木柱が約3mの間隔で林立し、光の井戸から差込む明かりが神秘的な空間を創出する。彫刻が施された木柱は同じデザインのものは無く、古いものでは10世紀~11世紀のものもあるという。
クフナ・アルクやタシュ・ハウリ宮殿のアイワンでも見られるように、緻密な彫刻が施されたヒヴァに見る木柱は、辣韮(らっきょう)のような形状をした根元部分に特徴があり、独立した基礎との間に、鉄パイプ状の接合部材を設けている。それは接地面の腐食防止ということだけでなく、もともと遊牧の民であった彼らの建築空間である“天幕”を支える柱が様式化されたものではと、岡野忠幸氏は自著「シルクロード建築考」で述べている。確かに細く絞られた根本をみると、組立解体に容易な天幕の柱が象徴化されているのかな?と想像できなくもない。

パフラヴァン・マフムド廟
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ジュマ・モスクの真裏に位置するパフラヴァン・マフムド廟は、1664年に創建、1810年に現在の煉瓦造りに改築され、ドーム屋根の完成は1835年だそうである。ヒヴァの守護者として尊敬されていたパフラヴァン・マフムド(1247~1326)の墓を中心に、ムハンマド・ラヒム・ハーン(在位:1807~1826)やその親族などの墓もある合同の廟となっている。
偉人の傍に葬られると天国に行けるという俗信か、廟の周囲には多くの墓が造られている。

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# by toshinac | 2018-03-01 01:00 | trip photos