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ルクソール2/エジプト
at 2019-04-08 11:38
ルクソール1/エジプト
at 2019-03-23 11:36
ナイル沿いの3つの神殿/エジプト
at 2019-03-01 09:00
アブ・シンベル神殿/エジプト
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アスワン/エジプト
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ルクソール2/エジプト

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ルクソールのナイル川には橋は無く、ネクロポリスのある西岸にはフェリーで渡る(写真上)。川沿いの緑地帯の奥には荒涼たる砂漠と岩山が広がり、生命の存在を感じさせないような乾いた大地がいやが上にも死の無情感をつのらせる。
船着き場から車で数分のところに2体の巨大な座像が現れる(写真下)。メムノンの巨像と呼ばれるアメンヘプテ3世の像で、かつてはアメンヘプテ3世葬祭殿の入口に置かれていたが、葬祭殿は第19王朝最後の王によって破壊され、いまでは劣化が激しい高さ21mの2体の巨像が残るのみだが、背後の岩山に展開するネクロポリスの守護神のようにも見えてくる。
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ハトシェプスト女王葬祭殿
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古代エジプト史で確認される唯一の女王ハトシェプスト(第18王朝のトトメス1世の娘)が築いた葬祭殿で、新王国時代の王たちの墓が集中する王家の谷と山一つ隔てた窪地に建ち、隣に建つメントゥヘテプ2世の葬祭殿と合わせてデル・エル・バハリ(キリスト教普及の初期、この地に修道院があったことが起因か、アラビア語で北の修道院という意味)とも呼ばれている。
上の写真は、ハトシェプスト女王葬祭殿(右)とメントゥヘテプ2世葬祭殿(左)を南側から見る。当初メントゥヘテプ2世の神殿と同じ形式で計画されたらしいが、実現したものは3つのテラスを一軸線上に並べるというユニークな形式で、背後の荒涼たる岩山をも建築の一部に取込み、美しさと雄大さが簡潔に表現された古代エジプト建築の傑作。建築家は女王の娘の教育も任されたという寵臣センムトで、女王がカルナックに建てた2本のオベリスクの切り出しを指揮した人物だそうである。
下の図はデル・エル・バハリの平面図(西洋建築史図集:日本建築学会編より)。
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上の写真は第2テラスから眺めたハトシェプスト葬祭殿正面。
第1テラスから8mほどの高さにある第2テラスの奥には、列柱中庭を中心とする第3テラスがある。第2及び第3テラスの正面は柱廊となり、その中央に斜路が設けられている。下の写真は、東側の山裾から3つのテラスを眺める。1997年11月、イスラム過激派による外国人観光客襲撃事件が発生し、日本人を含む数十名が犠牲となっている。写真は同年春のものである。
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下の写真2葉は、デル・エル・バハリの山の裏側にある、王家の谷(古代エジプト新王国時代の王たちの墓が集中する谷間で、西の谷と東の谷に24の王墓と64の墓が発見されている)にあるラムセス3世の王墓内通路。長い歴史のなかで墓のほとんどは盗掘されているが、1922年に発見されたツタンカーメン(トゥトアンクアメン)王の墓が未盗掘で、副葬品が完全な形で発見され、その多くはカイロのエジプト考古学博物館で見ることができる。
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toshinacHP
# by toshinac | 2019-04-08 11:38 | trip photos

ルクソール1/エジプト

カイロから南下すること650km余り、ナイル川沿いにあるエジプト最大の古代遺跡がある街ルクソールは、元々テーベと呼ばれていたアメン信仰(この地方の大気の守護神・豊穣神)の聖地であった。
中王国時代(B.C.2040年頃~B.C.1786年頃)のメンチュホプテ2世が第11王朝を開いてテーベを都と定めたときから、古代エジプト最大の都市テーベの歴史の始まりとも言われている。B.C.1567年ごろ新王国の第18王朝が成立し上エジプトの首都となると、アメン神と古来の太陽神ラーが一体化したアメン・ラー信仰が急速な広がりを見せ、テーベはその中心として栄えていく。ナイル川東岸のカルナック神殿やルクソール神殿などの大神殿が建つ生ける者の都テーベに対し、王家の谷や王妃の谷などで知られるナイル川西岸は死せる者の都ネクロポリスとして明確に区分されていた。
400年にわたって栄えた古代オリエントの中心都市であったルクソールは、新王国時代(B.C.1567年頃~1085年頃)の栄耀栄華を今に伝えてくれている。

カルナック神殿
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古代エジプトのテーベに築かれたカルナック神殿は、新王国時代からプトレマイオス朝時代までの約1500年間に増改築を重ね拡張されてきた巨大な複合体。その中心はアメン神に捧げられたアメン大神殿で、北側に付属するメンチュ神殿、南側に建つムゥト神殿から成り立ち、これら全てを合わせると東西約500m南北1500mにも及び、現存する神殿では最大規模となる。
上の写真はアメン大神殿の第2塔門。右にラムセス2世像、左にパネジェムの巨像(元々ラムセス2世の像であったが、第21王朝のパネジェム1世が名前を書き換えた。)が建ち、大列柱室の先にトトメス1世のオベリスクを見る。
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e0116578_11114860.jpg上の写真は大神殿最大の見どころともいえる大列柱室。第19王朝の第2代ファラオであったテセィ1世によって装飾が始められ、その息子であるラムセス2世によって完成したとされ、幅102m、奥行53mの空間に134本の巨大な円柱が林立する様は壮観。開花型のパピルス柱頭を持つ中央の12本の柱(上の写真左)は高さ21mで、両側に林立する、未開花型のパピルス柱より高くなっている。

左の写真は、その段差の間に設けられた採光のための石のルーバー。列柱室全体に屋根があったときを想像すると、ルーバーから射し込む光は荘厳な空間を演出したに違いない。





下の写真は、第5塔門先の中王国時代の中庭から大列柱室方向を見返す。手前にハトシェプスト女王のオベリスク、奥にトトメス1世のオベリスクを見る。
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コンス神殿
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アメン大神殿の神域西側の隅に位置し、塔門、前庭、列柱室から至聖所へと続く平面は、小規模ながら新王国時代の神殿建築の典型とも言われている。上の写真は第2(?)塔門。下の写真は第2塔門を抜けた先の、開花前のパピルス型円柱に囲まれた小さな中庭。アメン大神殿からチョット離れているため比較的観光客も少なく、この時代の建築特有の威圧感ある空間とは違い、ヒューマンスケールの静謐な空間。
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ルクソール神殿
ナイル川沿いに建つルクソール神殿は、もともとカルナック神殿の中心を成すアメン大神殿の付属神殿として建てられたもの。第18王朝のアメンホプテ3世によって中心部分が建立され、以後、彼の子供でアメン信仰を復活させたツタンカーメン王、第18王朝最後のファラオであるホルエムヘブ(元軍人でツタンカーメン王の時代は将軍)、そして第19王朝の建築王として知られるラムセス2世により現在の姿が完成。当初カルナック神殿とは2.5kmに及スフィンクス参道で結ばれていたという。
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上の図は、全長およそ250mのルクソール神殿平面図と断面図(MONUMENTS OF EGYPT THE NAPOLEONIC EDITION PRINCETON ARCHITECTURAL PRESSより)。ナイル川に沿ってほぼ平行に配置されていた神殿は、中央の列柱廊から軸線を大きくずらし、2.5km先のアメン大神殿に一直線。
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e0116578_11294756.jpg上の写真は、スフィンクス参道から見たルクソール神殿第1塔門正面。塔門の前には1対のラムセス2世の坐像、その手前に高さ25mのオベリスクが立っている。
オベリスクは本来左右2本立っていたが、1本は1819年にフランスに贈られ、現在パリのコンコルド広場に立っている。

左の写真は、塔門入口からラムセス2世の中庭越しに列柱廊を望む。







下の写真は、アメンホプテ3世の中庭から列柱廊を見返す。列柱廊の開花型のパピルス柱に対し、この中庭を取巻くパピルス柱は未開花型となっている。

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toshinacHP
# by toshinac | 2019-03-23 11:36 | trip photos

ナイル沿いの3つの神殿/エジプト

アスワンからルクソールまでのナイル川流域には、古代エジプト文明後期の遺跡が点在する。
なかでも、鰐の神と隼の神を祀るコム・オンボ神殿、隼の神を祀るエドフのホルス神殿、羊頭の創造神クヌムを祀るエスナのクヌム神殿、これらの遺跡は比較的保存状態も良く、古代人からのメッセージでもあるレリーフのほか、この時代特有な装飾も見られることから、アスワン~ルクソール間のナイル川クルーズの目的地にもなっている。

コム・オンボ神殿
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e0116578_9553534.jpgアスワンの北約50kmのナイル川沿いに位置するコム・オンボの町は、元々はヌブトと呼ばれ、ナイル川を利用したヌビアからの通商路で、古代ギリシア人がオンボスと呼んだことが町の名の由来だそうである。プトレマイオス朝の時代(B.C.332~32年)に建設された、ナイル川を見下ろす丘の上に建つコム・オンボ神殿が唯一の見どころ。
第18王朝の至聖所跡に建てられたこの神殿は2組の神々(鰐の神と隼の神)に捧げられたもので、出入口や至聖所など主要な部分は全て2組で構成されていることが最大の特徴。

上の写真は修復工事中のコム・オンボ神殿第1列柱室を見る。中央の柱を主軸として完全な左右対称で配置されている。

左の写真は、第2列柱室から至聖所に至る3つの前室入口を通して見たもので、その先にある至聖所は残念ながら祭壇と僅かな壁が残るのみ。

下の写真は神殿内部に残る壁。大きく破損しているものの、技術的にも高度なレリーフが美しい。
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エドフのホルス神殿
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e0116578_10142186.jpgコム・オンボから北に約60km、アスワンとルクソールのほぼ中間に位置するエドフは、古代ギリシア・ローマの時代に上エジプトの州都として栄えた町。隼の頭持つ太陽神ホルスを祀るホルス神殿がナイル西岸の町の中央に建っている。B.C.237年プトレマイオス3世によって建築が開始されるが、以後歴代の王へと工事が引き継がれ、B.C57年に完成したエドフのホルス神殿は、エジプトで最も保存状態の良い神殿の一つとなっている。1860年にフランスの考古学会が発掘するまで、この神殿は土の下に埋まっていた。その後修復が重ねられて神殿全体が甦り、当時の姿を見せている。上の写真はホルス神殿塔門。幅137m、高さ36mの塔門は、カルナックのアメン大神殿の塔門に次ぐエジプト第2の大きさである。

左の写真上はレリーフが刻まれた柱が立ち並ぶ列柱室。左の写真下はレリーフが刻まれている周壁。
下の写真は、塔門を抜けた先に見る第1列柱室。奥に第2列柱室、前室、至聖所へと続く。
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エスナのクヌム神殿
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e0116578_10191296.jpgエドフの北西約50km、ルクソールから南に58kmにあるエスナの町には、プトレマイオス朝の時代に建てられたクヌム神(牡羊の頭を持つナイル川第1急湍の神)を祀る神殿がある。
ナイル川西岸200mほどの街中に建つ神殿は列柱室のみが現存する。高さ13.3mの柱が24本、かつての彩色を僅かに残した蓮の葉型の柱頭は、エドフのホルス神殿列柱室と同様に、柱ごとにその形状が微妙に異なっている。
上の写真は列柱室正面。

左の写真は列柱室内部。壁、柱すべてにレリーフが施されている。



下の写真は、周囲の地面から9mも低いところにある神殿の前庭からの見上げ。2000年間の地表面の変化を目の当たりにすると、かつて毎年のように氾濫を繰り返したと言われる“暴れ川ナイル”の話も合点がゆく。
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toshinacHP
# by toshinac | 2019-03-01 09:00 | trip photos

アブ・シンベル神殿/エジプト

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世界遺産の象徴的な遺跡であるアブ・シンベル神殿は、アスワンの南約280km、スーダンとの国境に近いエジプト最南端の観光地、アブ・シンベルに建つ古代エジプトの岩窟神殿。アスワン・ハイ・ダムの建設に際し水没の危機にあったが、ユネスコによる国際的な救済活動が行われ、1964年から1968年にかけて、元の位置から約60m上方にコンクリート製ドームの人工的な丘を造り、そこに神殿を正確に分割して移築復元したのである。この大規模な移築工事がきっかけとなり、「人類共通の遺産」の保護という基本理念の考えを基に、1972年のユネスコ会議に於いて世界遺産条約が定められた。
ナイル川西岸の砂岩の岩山を穿って造られたオリジナルは、第19王朝のラムセス2世(在位:B.C.1303~1237)によってB.C.1300年頃に造営されている。「建築王」と呼ばれたラムセス2世が残した建造物は、アメン神殿(カルナック)の大列柱室やルクソール神殿の塔門など、エジプト各地で目にするが、壮麗さではアブ・シンベル神殿が群を抜いている。太陽神ラーを祭神とする大神殿と、ハトホル女神を祭神とする大小二つの神殿からなり、大神殿は幅38m、高さ33m、奥行63mで、正面に高さ20mにも及ぶラムセス2世の坐像が刻まれている。大神殿北側の小神殿は、ラムセス2世最愛の妻ネフェルタリのために造営したもので、規模はさほど大きくはないが、正面に王と王妃の立像が6体刻まれている。
上の写真はナセル湖の畔から眺めた大神殿。
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上の写真は大神殿正面。
向かって左から2番目のラムセス2世像は、神殿完成の数年後に起きた地震で崩れ、頭部の一部が前面に転がった状態のまま。4体のラムセス2世像の足元に立つ小像は家族の像だそうである。
下の写真は大神殿の入口を入ったところの大列柱室。オシリス神(古代エジプト神話の冥界の王)の姿をしたラムセス2世の像8体が柱となり、天井には星が描かれ、壁には戦闘場面のレリーフ刻まれている。
さらに下の写真は、入口から50mほどの最も奥にある至聖所。3体の神と共に神格化されたラムセス2世像(右から2番目)が坐す。
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上の写真は小神殿。中央入口両脇にラムセス2世像、その両側の愛妻ネフェルタリの像を挟むかたちでラムセス2世像が刻まれている。ネフェルタリ像の足元には、小さな王と王女が配されている。
下の写真は小神殿内部。愛と美の女神ハトフルの顔が彫られた柱が支える小さ目な列柱室。さらに下の写真は、小神殿前の広場から大神殿方向を望む。
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toshinacHP
# by toshinac | 2019-02-12 17:56 | trip photos

アスワン/エジプト

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首都カイロから南へ890km、ナイル川上流の東岸に位置するアスワンは、エジプト観光最南の拠点都市。世界遺産の象徴的な遺跡であるアブシンベル神殿訪問の起点となっており、エジプト近代化の象徴でもあるアスワン・ハイ・ダムのある地としても広く知られ、冬のリゾート地として欧米などからの観光客が多いこともあって、ナイル川岸辺の静かな環境下に長期滞在者用のホテルが点在する。
古代の上エジプト時代には、ナイル川に浮かぶエレファンティネ島が中心で、現在の町は当時の市場(スーク)の役割を果していた所だという。上の写真は、アスワンでの観光には欠かせない伝統的な木造の帆船ファルーカやヨットが行き交うナイル川。中央奥のタワーの建物はエレファンティネ島にある最高級ホテル“アスワン・オベロイ”。下の写真は、エレファンティネ島の1kmほど上流の島に建つ宿泊したホテル“イシス・アイランド・アスワン。
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e0116578_10463618.jpg上の写真はアスワン・ハイ・ダムの遠望。1901年完成のアスワン・ダムの上流6kmに造られたアスワン・ハイ・ダムは1970年の完成。20世紀のピラミッド建設とも言われるほど壮大なロックフィル・ダム(岩石や土砂を積上げて建設する堤防形式のダム)で、その規模は堤頂長3830m、堤高111m、堤頂部の幅40m、基礎部分最大幅980m、発電能力は210万キロワット(ちなみに黒部ダムは33.5万キロワット)という巨大事業であった。

左の写真は、高さ72mのアスワン・ハイ・ダム完成記念塔。ダムの完成はソビエトの援助が大きかったことから、エジプトーソビエト友情記念碑とも呼ばれている。

下の写真は記念塔を真下から見上げたもの。地上から立ち上がる5つの巨大なコンクリートシェルを上部のリングで連結した構造で、設計はエジプトとソビエトの建築家80人によるコンペで選ばれたユーリ・マルチェンコという建築家。エジプトの復活を象徴する蓮の花がモチーフとなっているそうである。
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e0116578_10531325.jpg上の写真は、ダムによって生まれた人造湖であるナセル湖。全長500km、幅も平均10kmで、面積は琵琶湖の8倍に達するという巨大さである。
写真に写る建物はダムの南約1km先の島に建つカラブシャ神殿。B.C.20年頃のローマ皇帝アウグストゥスの統治時代に、アスワンの南55kmのナイル川西岸に建立された神殿で、ハイ・ダム完成に伴い水没を避けるためにこの島に移築されたもの。


左の写真は、アスワン市街の南にある古代の石切り場にある切りかけのオベリスク。
アスワンはエジプトでも屈指の花崗岩の産地で、古王国時代にはピラミッドの化粧石として850km下流のギザまで運ばれていた。切りかけのオベリスクは基底部が4m四方で長さは41.75mという巨大なもの。切り出し中に亀裂が生じて放棄されたのではと考えられている。


下の写真は石切り場近くから見たアスワン市街。
左奥に見えるナイル川西岸の丘の中腹には、古王国から中王国時代の州侯たちの岩窟墓がある。
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roshinacHP
# by toshinac | 2019-02-01 09:00 | trip photos

メンフィス・サッカラ/エジプト

メンフィス
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カイロの南約20kmにあるメンフィスの遺跡は、B.C.3100年ごろ、エジプト初期王朝の開祖メネス王が、上・下エジプトを統一して造った都。統一以前のエジプトは、上エジプト(ナイル渓谷地帯)と下エジプト(ナイル下流デルタ地帯)とに分かれていて、両地の接点にあたる場所がこの地メンフィスであった。

e0116578_9543053.jpg5000年前エジプトの首都として栄えた都も、いまは昔日の面影は全くなく、発掘された僅かばかりの遺跡が静かに物語るのみ。
上の写真は、廃墟の跡すら見つけづらいほど荒れたかつての都にナツメヤシが茂る。


左の写真は、ここで発見されたラムセス2世 (在位:B.C.1279~B.C.1212頃、エジプト新王国第19王朝のファラオで、カイロのエジプト考古学博物館にミイラが安置されている。) の巨大な石像で、脚の一部が欠損しているものの、ほぼ完全な状態で横たわっている。


下の写真は、ラムセス2世像がある建物の東側に座すアラバスタ―(方解石)のスフィンクス。アメンホプテ2世(在位:B.C.1453~B.C.1419頃、第18王朝)の建造と伝えられている
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サッカラ
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サッカラはカイロの南約24km、ナイル川の西岸にある小村で、古代エジプトの首都であったメンフィスのネクロポリス(ギリシャ語で死者の都という巨大墓地)で、幾つかのピラミッドやマスタバ(エジプト初期王朝から第6王朝の時代にかけて造られた墳墓の一種)が現存する。なかでも第3王朝ジェセル王の階段状ピラミッドコンプレックス(ピラミッドと祭壇や神殿との複合体:B.C.2620~B.C.2600年頃)はエジプト最古の石造建築物であり世界最古のピラミッドと言われている。建築家はイムホプテ。彼はヘリオポリス(現在のカイロ近郊に存在した古代エジプトの都市)の神官でジェセル王の大臣であり、後世その名は神格化され、学問・建築・技術を司る神として祀られることになる。
このピラミッドは約63m四方、高さ約8mの正方形のマスタバとして造られたのが始まりで、その後5回に亘る拡張工事を経て、いまに見る6段の階段状ピラミッドという姿になったという。その規模は、底面約121m×109m、高さ約60mで、石灰岩の割石で構築されている。かつては白いトゥーラ産(カイロの南方約10kmにある古代エジプトの採石場)の切石で表層が仕上げられていたそうである。上の写真は南側から見たジェセル王のピラミッド。右奥にウセルカフ王(第5王朝の創設者)のピラミッドを見る。
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コンプレックスは東西277m、南北545mの矩形を成し、ピラミッドを中央に配して高さ約10mの周壁(現在は一部を残すのみ)を廻らし、15の門が造られていたそうだが、実際に出入りできた門は東面南端近くの現在の入口のみということである。上の写真はピラミッドコンプレックスへの入口門。下の写真は入口から続く狭い列柱廊を抜けた出口で、ピラミッドが建つ大中庭に出る。
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上の写真はジェセル王のピラミッドと神殿群のコンプレックス。
下の写真は様式的な円柱を想わせる壁付き柱が付けられた壁。この時代、円柱はすべて壁付き柱で独立円柱は見られないが、パピルスを束ねた形の円柱や蓮の花の形の柱頭飾りなど、細部にはすでに様式的な円柱の完成が近いことを想像させる。
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toshinacHP
# by toshinac | 2019-01-15 10:10 | trip photos

ギザのピラミッド群/エジプト

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カイロ市街の南西約6km、ナイル川西岸の首都圏ベットタウンとして発展するギザ市は、古代王朝遺跡で知られる観光都市。市街の南西約10kmのリビア砂漠の縁にある高さ40mほどの台地上に、第4王朝時(B.C.2613年頃~B.C.2498年頃)の建造とされる3つのピラミッドが雁行して建っている。北からクフ王の第1ピラミッド、カフラー王の第2ピラミッド、メンカウラー王の第3ピラミッドである。この巨大な建造物が何のために造られたのかは長く議論の的になってきた。ミイラを安置するための玄室があり、石棺があったことから王の墓であろうとは言われてきたが、それだけでは説明しきれない謎を数多く秘めるピラミッド。真理の解明は現在も続いている。上の写真は南西の丘から見るギザのピラミッド群。左からクフ王のピラミッド、カフラー王のピラミッド、メンカウラー王のピラミッドと王妃たちのピラミッド。
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e0116578_10443248.jpg上の写真はクフ王、カフラー王のピラミッド。最大規模を誇るクフ王のピラミッドは、底辺長230.364m、創建時の高さは約146.7mであったが、頂上の12段の石積みが失われているため現状の高さは約137.18m。全体を覆っていた表面仕上げ石は、中世に建築用材として剥ぎ取られてしまったが、14世紀末頃はまだ半分ほどは残っていたという。
カフラー王のピラミッドは、底辺長約215.8m、高さ約143.5mで、表面仕上げ石も一部残っている。

左の写真は、クフ王のピラミッド内部王の間に至る大廻廊。傾斜角26度の狭い上昇通路を抜けた先に広がる大廻廊は、傾斜角そのままに全長46.7m、最大幅2.1m、高さ8.7mという大空間の上昇路。行きついた先の玄室には、一部破損した御影石の石棺が一つ置かれている。

下の写真はクフ王のピラミッド北面。足元に内部への入場を待つ観光客が列をつくる。内部見学の入口は9世紀に穿たれた盗掘口で、この入口の上約10mに正規の入口が見えるが、現在も閉鎖されたまま。

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上の写真は、カフラー王のピラミッドと人面獣身の守護神スフィンクス。ネメスと呼ばれる頭巾を付けたファラオの顔と、百獣の王ライオンを重ね合わせた王者の象徴スフィンクスが、カフラー王のピラミッドを守る。
下の写真は、ピラミッド近くに建つ、かつてのイスラム王族の別荘を改築したホテル「メナハウス・オベロイ」の客室から眺めたピラミッド。
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# by toshinac | 2019-01-10 11:19 | trip photos

カイロ/エジプト

エジプトの首都カイロはアフリカ大陸最大の都市。ナイル川下流の東岸に位置し、長い時代を通じてイスラム世界の学術・文化・経済の中心都市となってきた。その歴史はおよそ5000年前にまで遡るとされているが、いまのカイロは古代の都市とは直接的な関係はなく、現在のカイロ市街地の南部、かつてバビロンと呼ばれていたオールド・カイロ地区がカイロ発祥の地。
プトレマイオス王朝最後の女王クレオパトラ (在位B.C.51~B.C.30) の時代、ローマ帝国の勢力がエジプトに及び、帝国の属州になるとキリスト教が広まり、5世紀には大キリスト教国 (エジプトのキリスト教はコプト教と呼ばれ、原始キリスト教の一派でギリシア正教に属する) となる。この地域はその中心地であった。
7世紀エジプトに侵攻したイスラム軍は、バビロンを攻略すると城塞の北側にキャンプを設営、アラビア語でテントを意味する「フスタート」と呼ばれた軍事拠点は、その後恒久的な市街地として発展する。
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e0116578_1717579.jpg969年ファーティマ朝 (909~1171:エジプトのシーア派イスラム王朝) がフスタートを占領すると、北部に新都を築いてアル・カーヒラ(勝利の町)と命名。現在のイスラム地区とされている地域で、この時代に多くのモスクや宮殿が建設されている。ちなみにアラビア語のアル・カーヒラがカイロの語源になっている。
上の写真はカイロ市街のイスラム地区南部。写真の中央に、エジプトで現存する最古のモスク、イブン・トゥールーン・モスクを見る。
バグッダトのアッバース朝から独立したムハマド・イブン・トゥールーンが、9世紀半ばにフスタートと後のアル・カーヒラのほぼ中間に新首都カターイを建設し、そこに自分の名を冠したモスクを創建した。
カターイ時代唯一の遺構と言われている。

左の写真はハーン・アル・ハリーリ。
14世紀末に開かれたスーク(市場)で、いまも当時の姿を色濃く残す。





スルタン・ハサン・モスク
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アイユーブ朝 (1169~1250:ファーティマ朝の宰相であったサラディンこと、サラーフ・アッディーンが建国したスンニ派のイスラム王朝) を滅ぼしたマムルーク朝 (1250~1517:エジプト・シリアを支配したスンニ派トルコ系のイスラム王朝。奴隷身分出身の軍人が建国した王朝で、血縁とは無関係な君主の系列が特徴的) の第22代・24代のスルタンであったナースィル・ハサンによって、1356~1362年に建てられたこのモスクは、モスクというよりも、スルタンの廟を併設した4~5階建てのマドラサ(神学校)といった建築である。中庭の四方に巨大なイワーンを開き、南東のイワーン奥にミフラブと説教壇を備え、その奥に高さ55mのドームを頂くスルタンの廟があり、4つのイワーンの間には、スンニ派の伝統的な4学派のマドラサが独立した形で構成されている。
上の写真は、複数のモスクが集まるサラディン広場越しに見るスルタン・ハサン・モスク。
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上の写真左はスルタン・ハサン・モスク平面図 (西洋建築史図集:日本建築学会編より)。右は南西側のイワーンから見た泉亭のある中庭。カイロ一を誇る高さ90mのミナレットが覗く。下の写真は南東側のイワーン。ミフラブと説教壇のある祈りの広間となっており、奥にスルタンの廟がある。一説には、使用されている石材の多くはギザのピラミットから拝借したものと言われているが?
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ムハンマド・アリ・モスク
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ムハンマド・アリ・モスクは、アイユーブ朝の創始者であるサラディンによって建設されたシタデル(城塞)の中に建つ。ムハンマド・アリ (エジプト最後の王朝の始祖:在位1805~1849年。近代国家エジプトの基礎を築いた人物として知られる) の命を受けたイスタンブールの建築家ユスフ・ブッシュナクが、イスタンブールのスルタン・アフメッド・モスクに基づいた計画を策定し、1830年に着工する。
しかしムハンマド・アリが亡くなった1849年の時点では竣工には至らず、後継者の治世中に再開され、サイード・パシャ (在位:1854~1865) が治世中の1857年に終了したという。だが工事に問題があったのか、モスクは傷みが進み危険な状態になったため、1931年、フアード1世 (在位:1922~1936) より完全な修復が命じられ、メインドームやセミドームの解体、元来のデザインに基づく再建、塗装、鍍金などが実施され、1939年、ファールーク1世(在位:1936~1952) のもとで最終的に完成した。
上の写真は、モッカタムの丘に築かれたシタデルの中に聳えるムハンマド・アリ・モスク。
偉容を誇る52mの巨大なドームと、天を突くような82mの2本のミナレットは、カイロ市街のあらゆる場所から目に入る。下の写真は煌びやかなドーム内部と中庭。
中庭の回廊北西部に時計塔が建っているが、ここの時計は1845年にフランスのコンコルド広場に建つオベリスクと交換に、フランス政府から贈られたものだそうである。
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ムハンマド・アリ王朝は1882年のイギリス占領下でも継続されるが、第2次大戦が終わりエジプト革命後の1953年、エジプト共和国の樹立を以て連綿と続いた王朝国家は終焉をむかえる。
下の写真は、新市街を流れる悠久の大河ナイル。古代エジプト文明を育み、「エジプトはナイルの賜物」と称された大河は、アスワン・ハイダムの完成で、いまもエジプトの発展に重要な役割を果している。
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# by toshinac | 2018-12-13 17:40 | trip photos