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エフェソス遺跡/トルコ共和国

トルコのエーゲ海沿岸の都市イズミールの、南約70kmに位置する小さな町セルチュク近郊にあるエフェソス遺跡は、数多くの遺跡が残るエーゲ海周辺でも最大級を誇る古代都市遺跡。その歴史はギリシア(イオニア)の植民都市として始まり、古代ローマ、ヘレニズム(B.C.334年のアレクサンドロスの東征以後成立した、ギリシア文化が普及した東方的な専制国家で300年ほど続く)、ローマ帝国、東ローマ帝国(ビザンティン)時代へと、長き繁栄を物語る遺構が展開する。なかでも遺跡観光の中心となっているのは、当時一大貿易港として栄えたヘレニズムからローマ帝国時代にかけて建設された遺跡群である。
4世紀にローマ帝国がキリスト教を国教としたことで、エフェソスはさらに整備された宗教都市となり、東ローマ帝国時代も経済的、宗教的にも重要な役割を果す都市となっていた。しかし8世紀になると、急速に拡張してきたイスラム勢力の攻撃に対抗できず、エフェソスは放棄され、1300年間続いてきた繁栄は幕を閉じることになる。
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上の写真は、遺跡のほぼ中央に位置する大劇場と、港に続くアルカディアン通り(港通り)を見る。大劇場はB.C.3世紀頃の建設だが、ローマ帝国時代に大きく拡張されている。ピオンの丘の西斜面に造られた観客席は、直径154m高さ38mの半円形で、24,000人を収容できたという。
皇帝アルカディウスが修復したことから、アルカディアンと名付けられた通りは、往時500mに亘って商店が建ち並び、夜には街灯も灯されたという。通りの先はエフェソスに繁栄をもたらした港湾であったが、2世紀頃から土砂の堆積が始まり、7~8世紀には港は完全に埋まって湿地と化し、その機能を消失させてしまう。一説には4世紀のキリスト教の国教化が起因していたのではと言われている。キリスト教の思想の下で森林が伐採され、小麦畑や葡萄畑やオリーブ畑に変わったことで、保水力を奪われた山からの土砂が徐々に港を埋めつくしたというのである。
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上の写真は、エフェソス遺跡で最も有名で美しいセルシウス図書館の跡。110年代の着工で135年の完成とされている。ローマ帝国の執政官でアジア州の提督であった、ティベリウス・ジュリアス・セルシウスの息子ティベリウス・ジュリアス・アクイラが、父の死後霊廟として建てたもので、図書館はその建物の中に後に開設されたという。12,000冊の蔵書があったとされ、当時のアレクサンドリア、ペルガモンの図書館と並んで、世界の三大図書館と評されていたとか。

e0116578_939183.jpgファサードは、錯視効果を用いて高く大きく見せようと、1階の柱に比べ2階の柱を細く短くするなどの遠近法を取り入れて造られている。
だが3世紀後半のゴート族(ゲルマン系の民族)の侵略で破壊され(地震が原因という説もある)、さらに10世紀の地震で完全に崩壊する。遺跡発掘後の1960年~1970年にファサード部分が現在の姿に修復再建された。右側の二つのアーチはマテウスとミトリダテスの門で、その外側にはアゴラ(商業広場)が広がっている。

左の写真は、セルシウス図書館に向かって下るクレティア通り。なだらかな石畳の通りの両側には、神殿や住宅街、娼館や浴場や公衆便所などの遺跡が展開する。

下の写真の左上は円柱や彫像の台座などが並ぶクレティア通り。同上右はアゴラの先に見るセルシウス図書館。左下は公衆便所跡。右下は公衆浴場跡である。
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上の写真はハドリアヌス神殿。ローマ皇帝ハドリアヌス(在位:117~138)に捧げられたコリント式の神殿で2世紀の建立とされ、繊細な装飾が施されたアーチ中央の楔石には、市の守護神でもある女神ティケの胸像が彫られている。下左の写真は、エフェソスの考古学博物館に展示されているアルテミス像。

e0116578_947394.jpgアルテミスとはギリシア神話の女神で、清純な女狩人として知られているが、エフェソスのアルテミス像は豊穣多産を象徴する多数の乳房を持っている像で、清楚で力強いギリシアのアルテミスとは対照的。ギリシア文化以前の伝説によれば、この辺りには女性が狩猟・戦闘を行うアマゾネスと呼ばれる人々が住んでいたとされ、母系制社会の中で大地と豊穣の女神を信仰し、その対象が多数の乳房を付けた木製の偶像だったという。
下の写真は、遺跡の南7km程の山中にある十字型ドームの聖母マリアの家。薄暗い奥の壁龕にマリア像が祀られている小さな空間である。伝承によれば、十字架に架けられたイエスが、弟子のヨハネに母・マリアを託したため、ヨハネがエフェソス方面の布教に赴くおり、マリアも共に移り住んだのではとされている。後に、神秘的な能力を持っていたとされる尼僧カタリナ・エメリッヒ(1774~1824)が見たという幻影にそって、1891年にこの地が発掘調査され、1世紀と4世紀の壁の跡が発見され、そこに建てられた小聖堂が「聖母マリアの家」ということで、現在の家は1951年に再建されたもの。1967年にはローマ教皇パウロ6世が訪れ、以後公認の聖地となっている。
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by toshinac | 2018-10-06 10:03 | trip photos

アタチュルク廟/トルコ共和国

アタチュルク廟は、初代大統領ムスタファ・ケマル・アタチュルク(1881~1938)の霊廟で、トルコ共和国の首都アンカラにある。アナトリア高原の西側に位置するアンカラは、1923年の共和国誕生と同時に首都となり、1928年に市全体を対象とする都市計画の国際コンペが実施され、ドイツ人のヘルマン・ヤンセン(1869~1945:建築家・都市計画家でベルリン大学教授)案が当選し、その後始まった都市整備はヤンセンの案に基づくかたちで実施され、オスマン帝国時代とは違った様相の近代都市をつくりあげてきた。
廟は、B.C.8世紀頃のフリギア人(B.C.12世紀頃ヨーロッパから移住してこの地域を支配し、B.C.8世紀に王国をたてたとされるインド・ヨーロッパ語族の、いまでは死語となっているフリギア語を話す人々。)の古墳があった市街南東部の丘陵地に建っている。1938年アタチュルクの死と同時に廟の建設計画が持ち上がり、建設案は国際建築家連合(UIA)の規定に沿った国際コンペで募られたが、第2次大戦中であったためヨーロッパからの応募は少なく、結果的にはトルコ人建築家エミン・ナオト(1908~1961)とオルハン・アルダ(1911~1999)という2人の連名案が採用され、変更はあったものの基本的なところでは変わりなく1953年に完成した。
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e0116578_15585141.jpgケマル・アタチュルクが、「トルコ人の起源は中世イスラムにあるのではなく、アナトリアの農民にある」と定義づけたことを背景に、全体的にはイスラム色を排除したアナトリアン様式(B.C16~14世紀の古代ヒッタイト帝国時代から新ヒッタイト時代の様式とアンカラ周辺のフリギア美術をまとめて総称したもので、中央アナトリアに見られる古代様式。)のデザインで統一されており、さらに古典回帰や伝統の再現だけでなく、時代の潮流でもあったモダニズムのデザインも随所に見る。
上の写真は夕日に輝くアタチュルク廟。建築に使用されている石材はすべて国内で産出されたものだそうである。
左の写真は廟の主室周りに配された角柱の列柱廊。廟の東北方向に位置する丘上にあるアンカラ城を遥に望む。

下の写真は雨上がりの式典広場から見る廟。コンペの当選案では、廟の上部にレリーフを施した巨大な箱が載るという仰々しいデザインであったが、実施段階では取り除かれた。
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e0116578_1654947.jpg廟の建設計画と同時に大統領の葬儀計画が進められており、祭壇の設計が、当時イスタンブールに在住していたドイツ人建築家ブルーノ・タウト(1880~1938 : 1933年に日本に亡命し、桂離宮の評価で知られるタウトだが、当時の日独関係上しかるべき公職に就くことが難しかったところに、1936年にトルコ政府からの招聘があり転地する。トルコではイスタンブール芸術大学建築学科で教鞭をとり、文部省建設局の主任も兼務。)に委ねられた。タウトは病床の身にありながら祭壇のデザインを一晩で完成させたと言われ、後にアンカラ市から金品の申し出があったが、「最も偉大な人の死に際して、私に恵まれた名誉の仕事のために金を受け取るわけにはいきません」と断ったという、タウトのアタチュルクの対する敬意を表した逸話がある。アタチュルクが亡くなった1938年11月のわずか1ヶ月後、タウトも急逝する。もしタウトが亡くなっていなかったなら、“タウト設計のアタチュルク廟”なんてことがあったかも。上の写真は式典広場を取り囲む列柱回廊。左の写真は石棺が置かれた内部で、地下に納骨堂が設けられている。下の写真は式典広場の回廊から眺めたアンカラ市街。
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by toshinac | 2018-09-17 16:10 | trip photos

イスタンブール3/トルコ共和国

スレイマニエ・モスク
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e0116578_10244579.jpgオスマン帝国の第10代皇帝スレイマン1世の命により、王の主任建築家ミマール・シナン(1489~1588:生涯に364の建物を設計したとされるトルコ史上最高の建築家)の設計で、7年の工期をかけて1557年の完成。平面や構造はアヤソフィアに似るが、直径27.5m、頂点の高さ53mの大ドームを中心に小ドーム群と4本のミナレットを持ち、周囲に建てられた学校、病院、養育院など、大公共建築群と一体として計画されている。
上の写真は、イスタンブール旧市街の中でもひときわ偉容を誇るスレイマニエ・モスクを金角湾側から見る。第三の丘と呼ばれる突端の、やや急な斜面に位置することから大規模な人工地盤上に建ち、周囲の施設も地形にあわせつつ、対象性を意識した配置がなされている。1660年に火災による被害を受けるが、メフメット4世によって修復され、第一次世界大戦で武器庫として使われたことが原因で再び火災の被害を受け、1956年に元の姿に修復された。

左の写真はモスク内部。下の写真は、モスク前庭の回廊から仰ぎ見る大ドーム。
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スルタン・アフメット・モスク(ブルー・モスク)
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アヤソフィアと向かい合うように建つこのモスクは、オスマン帝国の第14代皇帝スルタン・アフメット1世によって、1609年~1616年にかけて建設された。設計は前述のミマール・シナンの弟子であるメフメット・アガ(1540~1617)。内部壁面の青い施釉タイルと、ドーム内側の青を基調とした幾何学模様のフレスコ画が描かれていることから、ブルー・モスクとも呼ばれている。
64m×72mの広さを誇る礼拝堂は、「像の脚」と呼ばれる直径5mの4本のピアの上に直径23m、高さ43mの大ドームが架けられ、大ドームの四方には半球型のセミ・ドームと、そのセミ・ドームを受ける3つの小さなセミ・ドームがあり(ミフラブ側は2つのセミ・ドーム)、四隅にも小さなドームが架かっている。外部には他のモスク同様に連続ドームを架けた回廊に囲まれた前庭があり、モスクでは唯一とされる6本のミナレットが建つ。オスマン帝国の「最も美しいモスク」と評されている。
上の写真は、6本のミナレットと盛り上がるように重なるドーム群によって構成される迫力ある外観。
下の写真は廻廊に囲まれた前庭からの見上げ。
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上の写真は、ブルー・モスクと呼ばれる所以の内部。想像していたほどの“青い空間”ではないが、かつては壁面の青とステンドグラスから差込む光で、あたかも水中にいるような神秘的な空間であったらしい。
近年の修復事業でオリジナルに近いという色調に変えられた結果が現在の色らしいのだが、以前のブルー・モスクの空間に浸ってみたかった。

トプカプ宮殿

古代ビザンティオンのアクロポリスの場所に、メフメット2世が夏の離宮として1459年頃起工したが、次第に施設や庭園が整備されて拡大し、スレイマン1世(第10代皇帝:在位1520~1566)の時代に全宮殿が移されて以後、絢爛たる宮廷文化を育んだオスマン帝国の宮殿となる。しかし1853年に、アブデュル・メジト1世(第31代皇帝:在位1839~1861)が新たに建設したドルマバフチュ宮殿(1855年竣工)に宮廷を移すと、トプカプ宮殿は放置され荒廃するが、1923年にトルコ共和国が誕生すると、宮殿は修複されて1924年に博物館として一般に開放される。
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宮殿といえば、通常は中心となる大建築を想像するが、トプカプ宮殿はいささか趣を異にする。広大な敷地に直線的に連なる4つの中庭に沿う形で、比較的小さな建物と小部屋が連続する集合体によって構成されている。スルタンたちが集めた世界の秘宝や献上品など、展示物は枚挙に遑がないが、建築物の写真を撮ることが目当ての私には“猫に小判”的で、写真もいま一つ物足りない結果。
上の写真の左上は、博物館への入口となっている中門(第2庭園への入口)。右上は煙突が特徴的な宮廷の調理棟。左下は謁見の間。右下は宝物館。下の写真は、宮殿奥のテラスから眺めた旧市街。左にスレイマニエ・モスク、奥にファーティフ・モスク、右手前にイェニ・モスクを見る。
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ガラタ塔
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e0116578_10474945.jpg金閣湾の北岸に位置するガラタ地区(カラキョイ)に建つガラタ塔(ガラタ・クレシ)は、東ローマ帝国(ビザンティン)時代の528年に灯台として建設されたのが始まりで、1204年に第4次十字軍の遠征時に破壊されたが、1348年にジェノヴァ人によって「キリストの塔」の名で再建された。
その後、天文台や捕虜収容所、火災監視塔などとして使われたらしいが、その間、2度の火災や自然災害で一部損壊したという。高さ67mの現在の姿になったのは1967年以降のことらしく、最上部の尖塔部分もその時点で付け加えられたもの。丘の上に建っているので高さ以上に眺望がすばらしく、金角湾のパノラマが楽しめる。




上の写真は金角湾の対岸から眺めたガラタ塔。
左の写真は塔の近影。十字軍に破壊された灯台の瓦礫を利用して再建された塔の壁には、1453年にジェノヴァ人がスルタンに塔の鍵を献上した、と刻んだプレートが取り付けてある。



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by toshinac | 2018-09-01 10:52 | trip photos

イスタンブール2/トルコ共和国

アヤソフィア(ハギア・ソフィア大聖堂)
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イスタンブールの歴史的建造物の代表格であるアヤソフィアは、4世紀、東ローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって建てられた聖堂に起源し、2度の大火による焼失後、532年から537年にかけて、ユスティニアヌス1世(在位:527~565)により現在の聖堂が再建された。しかし558年の地震によってドームは崩壊、ただちに構造的改造と修復がなされたが、その後もドームの部分的崩落が相次ぎ、その都度補修と改修が繰り返されてきた。1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落後、破壊をまぬがれた聖堂はミフラーブが設けられて4本のミナレットも建設され、堂内のキリスト教モザイク画は全て漆喰で塗りつぶされてモスクとして生まれ変わる。その後オスマン帝国が滅びトルコ共和国が成立すると、初代大統領ケマル・アタチュルクは(1881~1938)政教分離政策をとり、アヤソフィアを宗教施設とせず、博物館として広く世界に開放した。上の写真は、かつてのコンスタンティノープル先端部に建つアヤソフィア。
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e0116578_840871.jpg上の写真左上は、夕日を受けて赤く染まるアヤソフィア。同左下は大ドーム内部の説教台を見る。
同右は断面図と平面図(西洋建築史図集:日本建築学会編)。
左の写真は大ドーム内部。31mのペンディンティヴ(正方形の平面上にドームを載せる際、外接する四隅にみられる球面状の三角形部分)・ドームと半球型のセミ・ドームが創りだす大空間は、古代と中世の様式をあわせ持ち、かつ後陣アーチの聖母子像のモザイク画の下にはミフラーブがあり、壁にはアッラーやムハンマドの名が刻まれた黒と金のカリグラフィーの円板が掲げられ、ビザンティン美術とイスラム美術が同一空間を彩るなど、アヤソフィアは独特の雰囲気を醸し出す。

下の写真は入口上部のモザイク画。聖母子像を中央に、右にコンスタンティノープルを捧げるコンスタンティヌス1世と、左にアヤソフィア大聖堂を捧げるユスティニアヌス1世が描かれている。
さらに下の写真は折り紙建築アヤソフィア(中沢圭子作)
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カーリエ博物館(カーリエ・ジャーミ)
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e0116578_8502193.jpg東ローマ帝国の時代であった11世紀に、正教会修道院に付属して設けられたソーテール(救世主)聖堂で、幾度かの増改築を経て、オスマン帝国の時代にモスクに改装され、名称もカーリエ・ジャーミと改められた。トルコ共和国になると、後期ビザンティン美術の価値が高く評価され、アヤソフィアと同様に無宗教の博物館となる。上の写真は東側外観。複雑な建設過程や度重なる増改築で、建物はかなり不規則な形状を呈している。
ちなみに、中央のドラム(14世紀)上に載るドームは、オスマン帝国時代に木造で造り替えられ漆喰を上塗りしたものだそうで、ドーム天井には何も描かれていない。
左の写真は、内部ナルテックス(正面入口と身廊部分の間に設けられた広間)入口上部のモザイク画。
下の写真は南側ナルテックスのドーム天井のモザイク画。これら聖堂内部の装飾は、オスマン帝国時代には漆喰で塗り込められていたが、1948年~1958年にかけてアメリカのビザンティン研究所によって漆喰が除去され、四世紀半の眠りから後期ビザンティン美術が現代に甦る。
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by toshinac | 2018-08-21 08:58 | trip photos

イスタンブール1/トルコ共和国

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トルコ共和国の西部に位置するイスタンブールは、アジアとヨーロッパの2つの大陸にまたがるトルコ最大の都市。黒海とアルマラ海をつなぐボスポラス海峡が市の中心を貫き、アルマラ海からヨーロッパ大陸側に角のように切り込んだ細長い金角湾(トルコ語でハリチ)の両岸には、ローマ帝国、東ローマ帝国(ビザンティン)、オスマン帝国(1299年オスマン1世が建国したトルコ系イスラム国家)という、3代続いた大帝国の繁栄を物語る名所・旧跡が展開する。上の写真は、ガラタ塔より眺めた朝もやの金角湾。スレイマニエ・モスクのドームとミナレットを見る。
この地で最初に都市が成立(B.C.660年)したのは、古代ギリシヤ時代の都市国家ビザンティオンで、金角湾の南側、アルマラ海に突き出た岬の先端に広がる丘陵に築かれた。現在のトプカピ宮殿が建つ場所である。B.C.201年にローマの同盟都市となるが、196年にはローマの支配下に置かれ、330年にコンスタンティヌス大帝(初めてキリスト教を公認し、これに改宗した皇帝)によってローマ帝国東方領の主都と定められ、コンスタンティノープルと呼ばれることとなる。
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e0116578_904164.jpg395年における東西ローマの分裂後は東ローマ帝国の首都として繁栄し、5世紀以降には人口100万を数える時期もあったという。
上の写真はヴァレンス水道橋。378年に完成したとされるローマ帝国の遺構。イスタンブール旧市街のほぼ中央にあり、北西郊外の水源から旧市街東部にある、東ローマ帝国の大貯水槽バシリカ・シスタン(通称地下宮殿)へと導く役割を果していたのではとされている。



左と下の写真はその地下宮殿バシリカ・シスタン。長さ138m、幅65m、高さ9mという地下の貯水槽空間は、330本を超える大理石円柱と煉瓦造の交差ヴォールトで支えられているが、円柱の3割ほどは古代の建築廃材が再利用され、左の写真のように、メデューサの顔が彫られた古代の石塊が土台に使用されたりしている。
映画007の「ロシアより愛をこめて」の撮影場所に使われた。
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長く続いた東ローマ帝国の繁栄も、11世紀頃から地中海貿易で進出してきたベネチア人やジェノバ人の勢力に帝国の商業と財政が支配されると、町の隆盛は徐々に失われ、オスマン帝国に征服された1453年には5万人を割るほどの人口だったと言われている。
オスマン帝国のメフメット2世(在位1451~1481)は、征服後ただちにハギア・ソフィア大聖堂(アヤ・ソフィア)をはじめ多くの教会をモスクに変えるとともに、1457年以降オスマン帝国の首都として、町の名をイスタンブールと改めた。また近隣の国々から多くの人々を移住させ、モスク、バザール、キャラバン・サライ、学校、病院などの社会施設を整え、さらに中央アジアのサマルカンドや西アジア各地から商人、学者、文人の移住が相次ぎ、16世紀中頃には人口50万人に達する大都市として復活、スレイマン1世(在位1520~1566)の時期に最盛期を迎え、東西、南北に及ぶ国際貿易の拠点として栄華を極める。
下の写真は、メフメット2世(オスマン帝国の第7代皇帝)がコンスタンティノープルを攻略中の1452年に造営し、攻略の拠点となったルメリ・ヒサールの城塞。
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17世紀に入ると、東ローマ帝国の時代からイタリア人商人の居留地であった金角湾北岸のガラタ地区には、イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国が競って領事館を建設し、キリスト教の諸教会も建設されて新市街が形成され、1845年に旧市街と新市街を結ぶガラタ橋が架けられた。
第1次世界大戦後、トルコ人による反帝国主義運動が起こると、イギリスをはじめとする連合国はイスタンブールを占領、1923年にトルコ共和国が成立すると首都はアンカラに移る。
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上の写真はガラタ橋の遠望と近影。金角湾の架橋では興味深い話がある。1845年に最初の橋が架けられるずっと以前の1503年に、レオナルド・ダ・ヴィンチがバヤズィト2世(オスマン帝国の第8代皇帝)に橋の計画を提案し、計画書を送っていたが実現には至らなかった。また1519年には、かつて架橋計画を売り込もうとしたことがあるミケランジェロの招聘計画もあったらしいが、ミケランジェロがこれを受け入れず、金角湾の架橋は19世紀まで棚上げされたとのこと。ちなみに初代の橋は1922年に焼失し、現在の橋は1994年に架けられたものである。
下の写真は金角湾で釣りに興じる人々。かつてはガラタ橋から釣り糸を垂らして釣ったサバを焼き、パンに挟んだサバ・サンドは金角湾の名物であったが、景観を損ねるということで橋からの釣りは2004年に禁止されている。
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by toshinac | 2018-08-04 09:16 | trip photos

ミコノス島/ギリシア

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エーゲ海の中央部に浮かぶキクラデス諸島の北東部に位置するミコノス島は、首都アテネから南東へ約155kmの距離にある、面積86k㎡(東京の大島より少し小さい)の小さな島。
エーゲ海がトルコ帝国の支配下にあった18世紀初め、フランス王国がスルミナ(現イズミール)とコンスタティノーブル(現イスタンブール)間の航路を開設したことでミコノスはその中継拠点となり、港の整備が進むとともに商業貿易の基盤ができあがる。その後、この航路がフランスの政変で放置されると、船乗りとして海域に精通したギリシア人が取って代わり、ミコノスにこれまでにない繁栄をもたらし、1950年代以降には島の観光化が一気に推進されていく。上の写真は、着陸前の航空機の窓から覗いた島の沿岸部。荒涼とした大地に見る白塗りのホテルらしき建物とプール。
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紺碧の海に浮かぶ白い宝石とも例えられるミコノス島は、いまでこそ国際的なリゾート地として観光業で栄えているが、この島の基本的な生業は古くから農牧業が主であった。キクラデスの非常に雨が少ない厳しい自然の中、人々は限られた農地や牧草地を石積みで区画し、長年に渡って土壌の改良に努めながら野菜を植え、葡萄やオリーブの木を育て、羊や山羊の放牧と家畜の飼育もするという、いわゆる地中海式の有畜農業である。上の写真はミコノスタウンの沿岸部。その景観からリトル・ヴェネチアとも呼ばれ、おしゃれなカフェやレストランが軒を連ねる。
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e0116578_1724550.jpgしかしながら、観光業が盛んになると基本の生業にも変化が起こり、現在、住民の多くは島の西部にある港町ミコノス(ギリシア語でホーラとも呼ばれる)に住み、その多くは観光業に関連する商業や漁業を生業としているようである。
上の写真は、住居が密集するミコノスのパルキア地区あたりを高台から見る。


左と下の写真はパルキア地区の街路空間。細く狭い通路に面し、階段バルコニー型と呼ばれる2階建て外階段の住居が複雑に絡み合い、毎年塗り重ねられる石灰が白い迷宮を創りだす。






さらに下の写真は、ミコノスタウン南西沿岸のカト・ミリの丘に建つ、ミロスと呼ばれる粉ひき小屋の風車。いまでは観光名所の一つとなっている。
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日常生活に、ギリシア正教の教義とギリシア神話の神々が深く関わるミコノス島には、家族用の小さな礼拝堂を含めると400を超える教会が点在するとされている。古代の偶像崇拝から、いつ頃キリスト教に信仰を移していったのかは明らかになっていないらしいが、1207年の西ヨーロッパからの十字軍が侵入すると、征服者はこれまでの正教を排除してカソリックの布教を押し進めるが、島民は正教の教義と司祭の言葉を神から授かったものとしてこれに抵抗、ギリシア正教の神を信奉し続けたという。その後トルコ帝国統治下での弾圧を受けながらも、島の立地条件を生かした海運業(主に海賊行為)の発展が、ミコノスのギリシア正教の勢いを回復させたと言われている。
神々を祀り、先祖を崇拝し、人々の通過儀礼が行われる場でもあるミコノスの教会は、その機能や役割から、家族教会と言われる家庭用の礼拝堂、司祭のいる教区教会、ギリシア神話に基づく神々に捧げられた教会に分けられる。
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上の写真はパナギア・パラポルティアニ教会。
ミコノスタウンでも一番古いカストロ地区にあるこの教会は、かつてこの場所に城塞の裏門(パラポルティ)があったことが教会名の由来となっている。4つの別々の教会と、その上に設けられたドーム状の屋根を持つ聖母教会で構成されるという珍しい教会で、おもに16世紀~17世紀に造られているが、最も古い教会は15世紀のものとされている。1920年までに現在の形に改築されたという。
下の写真はセント・ニコラス教会。海に最も近く建つこの教会は、港が整備される1932年頃までは、同じ場所ではあるが海に築かれた基壇上に建っていたそうだが、港の整備に伴いミコノスでは珍しい交差ヴォールトの教会に建て替えられている。ミコノスの船乗り達が守護神と崇めるポセイドン(海の神)が祀られていることから、教会は元漁師や船乗り達の憩いの場にもなっている。
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下の写真2葉は、農牧地の中に建つ家族用の教会。数多く存在する教会の中で最も多いヴォールト屋根の小さな礼拝堂は、かつては祖先の遺体が眠る墓地としての教会であった。ミコノスにコレラが流行した1854年以来、教会に遺体を埋葬することは禁じられたが、いまでは死者の復活に必要な3年目まで共同墓地に埋葬し、後に遺体を掘り起して葡萄酒で洗い清め、家族教会の床や壁に埋葬しなおすという形をとっている家族も少なくないようである。家族ための納骨堂と言えなくもない。
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by toshinac | 2018-07-07 17:19 | trip photos

アテネ古代遺跡2/ギリシア

ゼウス・オリンピウス神殿
アテネの中心部にある古代ローマ時代の遺跡で、ギリシア神話の最高神ゼウスを祭る神殿の跡。B.C.6世紀にアテネの僭主(せんしゅ:非合法手段で政権を握った独裁者)ペイシストラトスが建造を始めるが工事は途中で中止され、跡を継いだ息子らによりB.C.520年頃より建設が再開される。
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e0116578_1123951.jpgしかしB.C.510年に息子ヒッピアスが追放されたことでまたもや中断、基礎部分と僅かに完成していた円柱を残したまま336年間も放置されていた。
その後B.C.174年、セレウコス朝(B.C.312~B.C.63年:アレクサンドロス大王の後継者の一人が、オリエント地方に築いた王国。)のアンティオコス4世によって建設が再開されるも、10年後にアンティオコス4世が死去したことにより建設はまたまた中断する。
当時はすでに共和政ローマの支配下にあったアテナイで、ルキウス・コルネリウス・スッラ(B.C.138~B.C.78年:共和政ローマ期の軍人・政治家)が放置されていたゼウス神殿の柱をローマに持ち帰ったことで、神殿は大きく破壊されたという。
古代の世界で最大とされる神殿は、初代ローマ皇帝アウグストゥスの統治時代に建設再開となるが、完成は14代ローマ皇帝ハドリアヌスによって132年に完成。じつに建設開始から638年を経過したことになる。
しかしながら5世紀~6世紀にかけて、キリスト教以外の神を祀った神殿を否定する東ローマ帝国により神殿は破壊され、石材はキリスト教の聖堂建設に利用されたということである。


スタディオン
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上の写真はアテネのスタディオン。1869年~70年発掘され、1895年に再建されて、1896年の第1回近代オリンピック競技の会場になったことで有名。古代アテネの最も重要な祭典“パンアテナイア”(全アテナイの祭りという意味で、B.C.6世紀中頃に僭主ペイシストラトスによって整備され、女神アテナの名誉を守って4年ごとに催された宗教的な運動の祭典。)のために、2つの丘の谷間に自然の傾斜を生かして造られた競技場である。競技場を馬蹄形に取り巻く大理石の階段状の観覧席は、B.C.330年頃に建設が始められたとも言われているが、完成したのはA.D.143年、オデオンの音楽堂を建設したヘロディス・アッティコスの尽力によるとされている。
その後4世紀の後半に入ると、ローマ帝国のテオドシウス1世(在位379年~395年:東西に分裂していたローマ帝国を再統一し、一人で支配した最後の皇帝。)によって、パンアテナイアは禁止され、競技場は徐々に荒廃し、やがて小麦の畑に覆われたという。1836年の考古学的発掘で競技場の痕跡が発見され、1869年~70年にドイツ生まれの建築家エルンスト・ジラー(1837~1923:後にギリシア国民となり、20世紀初頭には、ギリシア国内で王室と市町村の公共建築を数多く手掛ける。)によって徹底的に発掘された。下の写真はGoogle Earthでみたスタディオン。
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ポセイドン神殿
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アテネの南南東約70km、アッティカ半島の東南端にあるスニオン岬に建つポセイドン神殿は、ギリシア神話の海の神ポセイドンを祀るドリス式の神殿である。B.C.444~440年ごろ、ペリクレス(B.C.495頃~B.C.429年:古代ギリシア、アテナイの軍人で政治家。現存のパルテノン神殿の再建など、文化面でも大きな役割を遺す。)によって、以前にあったとされる神殿跡に建てられた。
正面6柱、側面13柱の周柱式神殿は、A.D.1世紀頃にはこの聖域が放棄されたらしく、その後神殿は荒廃し、いまでは白亜の列柱を残すのみ。イタリアのローマ遺跡パエストゥムにある、ポセイドン神殿の完全な姿と迫力には及ばないが、エーゲ海の夕日に映える神殿の美しさが旅愁を誘い、アテネから離れているにもかかわらず多くの観光客が訪れる。
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by toshinac | 2018-06-18 12:00 | trip photos

アテネ古代遺跡1/ギリシア

ディオニソス劇場
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アクロポリスの東南斜面を利用して造られた野外劇場で、ギリシア神話に登場する豊穣と葡萄酒と酩酊の神“ディオニソス”の聖域の一部となっていた。ギリシア最古の劇場でB.C.6世紀頃の創建とされているが、ローマ時代のB.C.4世紀に改築され、第5代のローマ皇帝ネロが紀元61年に修理をさせたという記録が残るのみだそうである。オルケストラ床の敷石を菱型にかたどり、今は無い舞台の前面を飾る彫刻像など、現在にみる劇場の姿はローマ時代のものである。ちなみに収容人数は15,000~18,000人ほどらしい。

オデオンの音楽堂(へロディス・アッティコス音楽堂)
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ローマ時代の161年頃、アクロポリスの南西斜面に造られた音楽堂。
列柱廊によってディオニソス劇場と結ばれていた。ローマの元老院議員であったギリシア人貴族のヘロディス・アッティコスによって建設された施設で、劇場正面の列柱廊には木造の屋根が架けられていたという。主に音楽の演奏会に用いられ、約6,000人の収容が可能とされている。
客席と舞台部分の改修が行われた現在、演劇やコンサート等の催物に利用されている。

アゴラ
アゴラとは、古代ギリシアの都市国家において、軍事的・精神的な中心であるアクロポリスに対して、周囲に様々な公共施設が配置された広場・市場であり、市民生活の中心となる場所を指す。アテネのアゴラは(B.C.6~2世紀)アクロポリスの北西に位置し、約200m四方の広場の周囲に、ストアと呼ばれる列柱廊をはじめ、神殿および行政・商業等の諸施設が整備されていた。市民の交流の場であった広場では、買い物の傍ら男達(古代ギリシアでは買い物は男性の役目とか)が、政治や芸術を論じたり、熱弁を振るう哲学者の思想にふれるなど、情報交流の場でもあったという。かのソクラテスやプラトンも、この場で熱弁を振るっていたと言われている。
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上の写真はアゴラの西の丘に建つヘファイストス神殿。B.C.449年に着工され、B.C.415年頃の完成とされ、前面6柱、側面13柱の大理石の柱が屋根を支えるドリス式の神殿は、ギリシア神話の火と鍛冶の神ヘファイストスを祭る。アテナイ(アテネの古名)の王テセウス(ギリシア神話に登場する伝説的な王で、国民的な英雄)のレリーフが多数施されていることから、テセウスの神殿“テセイオン”と呼ばれていた時期もある。また7世紀から19世紀まで、ギリシア正教のゲオルギウス聖堂として用いられたことで、最も破損が少ない古代ギリシア神殿として現存する。
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上の写真は、1952~1956年にかけて忠実に復元されたとされるヘレニズム時代の“アッタロスのストア” で、アテネのアゴラ東端部に建つ。B.C.150年頃、ペルガモン王国(現在のトルコのペルガモを都とした王国)の王アッタロス2世(在位B.C.159~138年)から寄贈されたもので、2階建て列柱廊の長さは111.96m、奥行19.52mで、かつては柱廊の両端に2階に上がる階段が設けられていた。両階とも前面に2列の柱廊、奥に21の部屋があり、当時は商店として使われていたという。
現在、アッタロスのストアは古代アゴラ博物館となっており、これらの部屋には当時の資料が展示されている。ストアの手前に見るビザンティン様式の建物は、11世紀頃建てられた聖使徒聖堂。
下の写真は、アテネ市内で一番標高が高いリカヴィトスの丘を背景に見たアッタロスのストア。
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by toshinac | 2018-06-10 09:23 | trip photos

アテネのアクロポリス/ギリシア

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アクロポリスとは、古代ギリシアのポリス(都市国家)の高所に造られた聖域で、域内には都市の守護神を祭る神殿や公共建築物が設置され、市政の重要な祭儀が執り行われたり、非常時の比護所となったりもした、“古代ギリシアの都市国家における宗教的・精神的な中心地”。ギリシア国内に幾つか残るアクロポリスの中でもアテネのアクロポリスは代表格。
上の写真はフィロパポスの丘より眺めたアテネのアクロポリス全景で、手前にローマ時代に造られたオデオンの音楽堂遺跡を見る。海抜150m、東西270m、南北156mの石灰岩の台地上に、パルテノン神殿をはじめ、ペリクレス(B.C.495?~429:古代ギリシア、アテネの政治家で、アテネの民主政治と帝国が最高の発展を見た時期の指導者。)の執政時期(B.C.444~429)を中心としたアテネの黄金時代に、ギリシア建築の傑作が建てられた。

パルテノン神殿
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上の写真はパルテノン神殿全景(B.C.447~432)。守護神アテナを祭る神殿はアクロポリスの中心にあり、正面8柱、側面17柱の周柱式神殿。基壇とエンタブラチュア(柱頭上部の水平に構築される部分で、モールディングや帯状装飾で飾られる。)にはむくりがつけられ、柱もごく僅かなエンタシス(膨らみ)をもっており、元来垂直であるはずの柱や壁も内側に傾斜し、隅の柱は対角線方向に傾けるなど、視覚上の補正が施された比例美はギリシア建築の極みといえる。

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左の写真は、ドーリア式オーダーのエンタブラチュア部分。古代建築の重要な要素であるエンタブラチュアは、一般的にはアーキトレーブ(各円柱間や円柱と壁との間に渡された直上部分)、フリーズ(アーキトレーブの上にあり、装飾が有る場合と無い場合がある帯状の部分)、コーニス(エンタブラチュアの最上部に置かれる部材で、破風の下に張り出した部分)、の3部分から成り、かつては色鮮やかな彩色が施されていた。







下の写真は正面。古代ギリシアとローマの古典的神殿建築の、対称性や奥行、その価値観に基づく設計から派生したヨーロッパの建築様式、いわゆるパラディアン様式の根源ともいえるパルテノン神殿。
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プロピライア
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上の写真は、アクロポリスの入口である西側の急斜面を上りきる所に造られた門“プロピライア”(B.C437~433:ラテン語とギリシア語から「前門としての建物」と言う意味)を見上げる。東西両面にドリス式の6本柱の門屋と、南北に張り出す翼屋から成り、北翼屋はピナコテカ(絵画館)と呼ばれている。また門屋の中央通路の両側には3本のイオニア式の柱が配されていることから、ドーリア式と、イオニア式の折衷的な効果が特徴となっている。
下の写真は、アクロポリスの入口を北西側から仰ぎ見る。手前にピナコテカ、入口階段を挟んで南翼屋とアテナ・ニケ神殿を見る。
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アテナ・ニケ神殿
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上の写真は、アクロポリス入口右手(南西)の稜堡上に建つアテナ・ニケの小神殿。B.C.6世紀に建設されたアテナ神殿が、B.C.480年にアケメネス朝ペルシャに破壊されたため、その廃墟の上にB.C.427年~424年頃に建設されたもの。だが神殿は1687年には取り壊されて砲台の部材にされていたのを、1835年に再発見され、1935年~1940に元の位置に再建された。基壇の前後それぞれに4本のイオニア式の柱が立ち、フリーズには神々の中央に座すアテナとアテネの戦士たちが刻まれている。しかしペディメントは失われたままである。

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by toshinac | 2018-06-01 01:00 | trip photos

マテーラ

“洞窟都市”として知られるマテーラは、プーリア州の西に接するバジリカータ州(イタリア半島を長靴に例えればちょうど土踏まずにあたる)にあり、イオニア海から70kmほど内陸に位置する世界遺産の町。
その起源は新石器時代に遡り、マテーラの大地に深く刻まれた巨大なグラヴィーナ渓谷の東向き斜面に始まる。軟らかな凝灰岩の地質は自然の浸食を受けやすく、渓谷の斜面には自然の洞窟が点在していたことから、人々はその洞窟に自然と住み着いた。時代が下った8世紀頃からは、イスラム勢力を逃れたギリシャからの修道僧が大挙して移り住み、自然の洞窟だけでなく、斜面を削った崖に横穴を規則的に掘り、入口や窓を設けた修道院や住居を崖の各層に構えていったという。その後15、16世紀頃までには石造りの地上の住居も加わり、現在に見られるセットバックしながら重なる高密度集落の景観を呈していったようである。
このような洞窟住居群をマテーラではサッシ(石や岩を意味するサッソの複数形)と呼び、渓谷の中央部に突き出た高台のチヴィタ地区南側に展開するサッソ・カヴェオーゾ地区と、北側のサッソ・バリサーノ地区という二つのサッシがある。
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上の写真は、グラヴィーナ渓谷の対岸から眺めたサッソ・カヴェオーゾ地区。二つのサッシの間にあるチヴィタ地区に建つドゥオモの鐘楼が、“洞窟都市”マテーラの景観をひときわ際立てる。
下の写真は、ドゥオモを中心とした高台のチヴィタ地区を望む。斜面には、洞窟の前面に壁や部屋を設けた混成型の住居と、完全に地上建てた石造りの住居が段状に混在し、すべてが同一の素材で構築されていることは、あたかも岩山を掘り刻んで造られた都市ではと想わせる景観である。
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e0116578_9271720.jpg上の写真は、サッソ・カヴェオーゾ地区の南のゾーンで、渓谷の下の方には自然の洞窟が点在し、その上には崖面を造ってそこに開口を設けただけの洞窟住居がならび、その上層には穴の前面に切石を積んで増築した住居が見られ、さらに一番上の地上には複数階の住棟群が建ち並ぶという、洞窟住居の生い立ちからその発展の軌跡を目の当たりにできる地区である。

左の写真は、チヴィタ地区の北側の渓谷に展開するもう一つのサッシ、サッソ・バリサーノ地区。




下の写真は、サッソ・カヴェオーゾの南ゾーンからチヴィタ地区を眺める。近代化から取り残され、住民不在による荒廃が進んだサッシの古い地区は、1993年の世界遺産登録以降、“洞窟都市マテーラ”として、現代の都市生活にも適合した再生を目指している。
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by toshinac | 2018-05-05 09:31 | trip photos