works & trip photos     (c)Toshiaki Nakazawa all right reserved.


by toshinac

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

カテゴリ

全体
trip photos
works
未分類

検索

最新の記事

アブ・シンベル神殿/エジプト
at 2019-02-12 17:56
アスワン/エジプト
at 2019-02-01 09:00
メンフィス・サッカラ/エジプト
at 2019-01-15 10:10
ギザのピラミッド群/エジプト
at 2019-01-10 11:19
カイロ/エジプト
at 2018-12-13 17:40

以前の記事

2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

記事ランキング

画像一覧

カテゴリ:trip photos( 168 )

アブ・シンベル神殿/エジプト

e0116578_1743982.jpg
世界遺産の象徴的な遺跡であるアブ・シンベル神殿は、アスワンの南約280km、スーダンとの国境に近いエジプト最南端の観光地、アブ・シンベルに建つ古代エジプトの岩窟神殿。アスワン・ハイ・ダムの建設に際し水没の危機にあったが、ユネスコによる国際的な救済活動が行われ、1964年から1968年にかけて、元の位置から約60m上方にコンクリート製ドームの人工的な丘を造り、そこに神殿を正確に分割して移築復元したのである。この大規模な移築工事がきっかけとなり、「人類共通の遺産」の保護という基本理念の考えを基に、1972年のユネスコ会議に於いて世界遺産条約が定められた。
ナイル川西岸の砂岩の岩山を穿って造られたオリジナルは、第19王朝のラムセス2世(在位:B.C.1303~1237)によってB.C.1300年頃に造営されている。「建築王」と呼ばれたラムセス2世が残した建造物は、アメン神殿(カルナック)の大列柱室やルクソール神殿の塔門など、エジプト各地で目にするが、壮麗さではアブ・シンベル神殿が群を抜いている。太陽神ラーを祭神とする大神殿と、ハトホル女神を祭神とする大小二つの神殿からなり、大神殿は幅38m、高さ33m、奥行63mで、正面に高さ20mにも及ぶラムセス2世の坐像が刻まれている。大神殿北側の小神殿は、ラムセス2世最愛の妻ネフェルタリのために造営したもので、規模はさほど大きくはないが、正面に王と王妃の立像が6体刻まれている。
上の写真はナセル湖の畔から眺めた大神殿。
e0116578_17465235.jpg
上の写真は大神殿正面。
向かって左から2番目のラムセス2世像は、神殿完成の数年後に起きた地震で崩れ、頭部の一部が前面に転がった状態のまま。4体のラムセス2世像の足元に立つ小像は家族の像だそうである。
下の写真は大神殿の入口を入ったところの大列柱室。オシリス神(古代エジプト神話の冥界の王)の姿をしたラムセス2世の像8体が柱となり、天井には星が描かれ、壁には戦闘場面のレリーフ刻まれている。
さらに下の写真は、入口から50mほどの最も奥にある至聖所。3体の神と共に神格化されたラムセス2世像(右から2番目)が座す。
e0116578_17495352.jpg
e0116578_1750368.jpg

e0116578_17513881.jpg
上の写真は小神殿。中央入口両脇にラムセス2世像、その両側の愛妻ネフェルタリの像を挟むかたちでラムセス2世像が刻まれている。ネフェルタリ像の足元には、小さな王と王女が配されている。
下の写真は小神殿内部。愛と美の女神ハトフルの顔が彫られた柱が支える小さ目な列柱室。さらに下の写真は、小神殿前の広場から大神殿方向を望む。
e0116578_1754268.jpg
e0116578_17552040.jpg

toshinacHP
by toshinac | 2019-02-12 17:56 | trip photos

アスワン/エジプト

e0116578_1041255.jpg
首都カイロから南へ890km、ナイル川上流の東岸に位置するアスワンは、エジプト観光最南の拠点都市。世界遺産の象徴的な遺跡であるアブシンベル神殿訪問の起点となっており、エジプト近代化の象徴でもあるアスワン・ハイ・ダムのある地としても広く知られ、冬のリゾート地として欧米などからの観光客が多いこともあって、ナイル川岸辺の静かな環境下に長期滞在者用のホテルが点在する。
古代の上エジプト時代には、ナイル川に浮かぶエレファンティネ島が中心で、現在の町は当時の市場(スーク)の役割を果していた所だという。上の写真は、アスワンでの観光には欠かせない伝統的な木造の帆船ファルーカやヨットが行き交うナイル川。中央奥のタワーの建物はエレファンティネ島にある最高級ホテル“アスワン・オベロイ”。下の写真は、エレファンティネ島の1kmほど上流の島に建つ宿泊したホテル“イシス・アイランド・アスワン。
e0116578_10442579.jpg

e0116578_10451713.jpg

e0116578_10463618.jpg上の写真はアスワン・ハイ・ダムの遠望。1901年完成のアスワン・ダムの上流6kmに造られたアスワン・ハイ・ダムは1970年の完成。20世紀のピラミッド建設とも言われるほど壮大なロックフィル・ダム(岩石や土砂を積上げて建設する堤防形式のダム)で、その規模は堤頂長3830m、堤高111m、堤頂部の幅40m、基礎部分最大幅980m、発電能力は210万キロワット(ちなみに黒部ダムは33.5万キロワット)という巨大事業であった。

左の写真は、高さ72mのアスワン・ハイ・ダム完成記念塔。ダムの完成はソビエトの援助が大きかったことから、エジプトーソビエト友情記念碑とも呼ばれている。

下の写真は記念塔を真下から見上げたもの。地上から立ち上がる5つの巨大なコンクリートシェルを上部のリングで連結した構造で、設計はエジプトとソビエトの建築家80人によるコンペで選ばれたユーリ・マルチェンコという建築家。エジプトの復活を象徴する蓮の花がモチーフとなっているそうである。
e0116578_10505880.jpg

e0116578_10515237.jpg

e0116578_10531325.jpg上の写真は、ダムによって生まれた人造湖であるナセル湖。全長500km、幅も平均10kmで、面積は琵琶湖の8倍に達するという巨大さである。
写真に写る建物はダムの南約1km先の島に建つカラブシャ神殿。B.C.20年頃のローマ皇帝アウグストゥスの統治時代に、アスワンの南55kmのナイル川西岸に建立された神殿で、ハイ・ダム完成に伴い水没を避けるためにこの島に移築されたもの。


左の写真は、アスワン市街の南にある古代の石切り場にある切りかけのオベリスク。
アスワンはエジプトでも屈指の花崗岩の産地で、古王国時代にはピラミッドの化粧石として850km下流のギザまで運ばれていた。切りかけのオベリスクは基底部が4m四方で長さは41.75mという巨大なもの。切り出し中に亀裂が生じて放棄されたのではと考えられている。


下の写真は石切り場近くから見たアスワン市街。
左奥に見えるナイル川西岸の丘の中腹には、古王国から中王国時代の州侯たちの岩窟墓がある。
e0116578_10575231.jpg

roshinacHP
by toshinac | 2019-02-01 09:00 | trip photos

メンフィス・サッカラ/エジプト

メンフィス
e0116578_9534014.jpg
カイロの南約20kmにあるメンフィスの遺跡は、B.C.3100年ごろ、エジプト初期王朝の開祖メネス王が、上・下エジプトを統一して造った都。統一以前のエジプトは、上エジプト(ナイル渓谷地帯)と下エジプト(ナイル下流デルタ地帯)とに分かれていて、両地の接点にあたる場所がこの地メンフィスであった。

e0116578_9543053.jpg5000年前エジプトの首都として栄えた都も、いまは昔日の面影は全くなく、発掘された僅かばかりの遺跡が静かに物語るのみ。
上の写真は、廃墟の跡すら見つけづらいほど荒れたかつての都にナツメヤシが茂る。


左の写真は、ここで発見されたラムセス2世 (在位:B.C.1279~B.C.1212頃、エジプト新王国第19王朝のファラオで、カイロのエジプト考古学博物館にミイラが安置されている。) の巨大な石像で、脚の一部が欠損しているものの、ほぼ完全な状態で横たわっている。


下の写真は、ラムセス2世像がある建物の東側に座すアラバスタ―(方解石)のスフィンクス。アメンホプテ2世(在位:B.C.1453~B.C.1419頃、第18王朝)の建造と伝えられている
e0116578_9583454.jpg

サッカラ
e0116578_1005082.jpg
サッカラはカイロの南約24km、ナイル川の西岸にある小村で、古代エジプトの首都であったメンフィスのネクロポリス(ギリシャ語で死者の都という巨大墓地)で、幾つかのピラミッドやマスタバ(エジプト初期王朝から第6王朝の時代にかけて造られた墳墓の一種)が現存する。なかでも第3王朝ジェセル王の階段状ピラミッドコンプレックス(ピラミッドと祭壇や神殿との複合体:B.C.2620~B.C.2600年頃)はエジプト最古の石造建築物であり世界最古のピラミッドと言われている。建築家はイムホプテ。彼はヘリオポリス(現在のカイロ近郊に存在した古代エジプトの都市)の神官でジェセル王の大臣であり、後世その名は神格化され、学問・建築・技術を司る神として祀られることになる。
このピラミッドは約63m四方、高さ約8mの正方形のマスタバとして造られたのが始まりで、その後5回に亘る拡張工事を経て、いまに見る6段の階段状ピラミッドという姿になったという。その規模は、底面約121m×109m、高さ約60mで、石灰岩の割石で構築されている。かつては白いトゥーラ産(カイロの南方約10kmにある古代エジプトの採石場)の切石で表層が仕上げられていたそうである。上の写真は南側から見たジェセル王のピラミッド。右奥にウセルカフ王(第5王朝の創設者)のピラミッドを見る。
e0116578_1042543.jpg
コンプレックスは東西277m、南北545mの矩形を成し、ピラミッドを中央に配して高さ約10mの周壁(現在は一部を残すのみ)を廻らし、15の門が造られていたそうだが、実際に出入りできた門は東面南端近くの現在の入口のみということである。上の写真はピラミッドコンプレックスへの入口門。下の写真は入口から続く狭い列柱廊を抜けた出口で、ピラミッドが建つ大中庭に出る。
e0116578_1063475.jpg

e0116578_1073164.jpg
上の写真はジェセル王のピラミッドと神殿群のコンプレックス。
下の写真は様式的な円柱を想わせる壁付き柱が付けられた壁。この時代、円柱はすべて壁付き柱で独立円柱は見られないが、パピルスを束ねた形の円柱や蓮の花の形の柱頭飾りなど、細部にはすでに様式的な円柱の完成が近いことを想像させる。
e0116578_1091416.jpg

toshinacHP
by toshinac | 2019-01-15 10:10 | trip photos

ギザのピラミッド群/エジプト

e0116578_10385739.jpg
カイロ市街の南西約6km、ナイル川西岸の首都圏ベットタウンとして発展するギザ市は、古代王朝遺跡で知られる観光都市。市街の南西約10kmのリビア砂漠の縁にある高さ40mほどの台地上に、第4王朝時(B.C.2613年頃~B.C.2498年頃)の建造とされる3つのピラミッドが雁行して建っている。北からクフ王の第1ピラミッド、カフラー王の第2ピラミッド、メンカウラー王の第3ピラミッドである。この巨大な建造物が何のために造られたのかは長く議論の的になってきた。ミイラを安置するための玄室があり、石棺があったことから王の墓であろうとは言われてきたが、それだけでは説明しきれない謎を数多く秘めるピラミッド。真理の解明は現在も続いている。上の写真は南西の丘から見るギザのピラミッド群。左からクフ王のピラミッド、カフラー王のピラミッド、メンカウラー王のピラミッドと王妃たちのピラミッド。
e0116578_10414833.jpg

e0116578_10443248.jpg上の写真はクフ王、カフラー王のピラミッド。最大規模を誇るクフ王のピラミッドは、底辺長230.364m、創建時の高さは約146.7mであったが、頂上の12段の石積みが失われているため現状の高さは約137.18m。全体を覆っていた表面仕上げ石は、中世に建築用材として剥ぎ取られてしまったが、14世紀末頃はまだ半分ほどは残っていたという。
カフラー王のピラミッドは、底辺長約215.8m、高さ約143.5mで、表面仕上げ石も一部残っている。

左の写真は、クフ王のピラミッド内部王の間に至る大廻廊。傾斜角26度の狭い上昇通路を抜けた先に広がる大廻廊は、傾斜角そのままに全長46.7m、最大幅2.1m、高さ8.7mという大空間の上昇路。行きついた先の玄室には、一部破損した御影石の石棺が一つ置かれている。

下の写真はクフ王のピラミッド北面。足元に内部への入場を待つ観光客が列をつくる。内部見学の入口は9世紀に穿たれた盗掘口で、この入口の上約10mに正規の入口が見えるが、現在も閉鎖されたまま。

e0116578_10494342.jpg

e0116578_10514827.jpg
上の写真は、カフラー王のピラミッドと人面獣身の守護神スフィンクス。ネメスと呼ばれる頭巾を付けたファラオの顔と、百獣の王ライオンを重ね合わせた王者の象徴スフィンクスが、カフラー王のピラミッドを守る。
下の写真は、ピラミッド近くに建つ、かつてのイスラム王族の別荘を改築したホテル「メナハウス・オベロイ」の客室から眺めたピラミッド。
e0116578_10532512.jpg

toshinacHP
by toshinac | 2019-01-10 11:19 | trip photos

カイロ/エジプト

エジプトの首都カイロはアフリカ大陸最大の都市。ナイル川下流の東岸に位置し、長い時代を通じてイスラム世界の学術・文化・経済の中心都市となってきた。その歴史はおよそ5000年前にまで遡るとされているが、いまのカイロは古代の都市とは直接的な関係はなく、現在のカイロ市街地の南部、かつてバビロンと呼ばれていたオールド・カイロ地区がカイロ発祥の地。
プトレマイオス王朝最後の女王クレオパトラ (在位B.C.51~B.C.30) の時代、ローマ帝国の勢力がエジプトに及び、帝国の属州になるとキリスト教が広まり、5世紀には大キリスト教国 (エジプトのキリスト教はコプト教と呼ばれ、原始キリスト教の一派でギリシア正教に属する) となる。この地域はその中心地であった。
7世紀エジプトに侵攻したイスラム軍は、バビロンを攻略すると城塞の北側にキャンプを設営、アラビア語でテントを意味する「フスタート」と呼ばれた軍事拠点は、その後恒久的な市街地として発展する。
e0116578_1716356.jpg

e0116578_1717579.jpg969年ファーティマ朝 (909~1171:エジプトのシーア派イスラム王朝) がフスタートを占領すると、北部に新都を築いてアル・カーヒラ(勝利の町)と命名。現在のイスラム地区とされている地域で、この時代に多くのモスクや宮殿が建設されている。ちなみにアラビア語のアル・カーヒラがカイロの語源になっている。
上の写真はカイロ市街のイスラム地区南部。写真の中央に、エジプトで現存する最古のモスク、イブン・トゥールーン・モスクを見る。
バグッダトのアッバース朝から独立したムハマド・イブン・トゥールーンが、9世紀半ばにフスタートと後のアル・カーヒラのほぼ中間に新首都カターイを建設し、そこに自分の名を冠したモスクを創建した。
カターイ時代唯一の遺構と言われている。

左の写真はハーン・アル・ハリーリ。
14世紀末に開かれたスーク(市場)で、いまも当時の姿を色濃く残す。





スルタン・ハサン・モスク
e0116578_17232921.jpg
アイユーブ朝 (1169~1250:ファーティマ朝の宰相であったサラディンこと、サラーフ・アッディーンが建国したスンニ派のイスラム王朝) を滅ぼしたマムルーク朝 (1250~1517:エジプト・シリアを支配したスンニ派トルコ系のイスラム王朝。奴隷身分出身の軍人が建国した王朝で、血縁とは無関係な君主の系列が特徴的) の第22代・24代のスルタンであったナースィル・ハサンによって、1356~1362年に建てられたこのモスクは、モスクというよりも、スルタンの廟を併設した4~5階建てのマドラサ(神学校)といった建築である。中庭の四方に巨大なイワーンを開き、南東のイワーン奥にミフラブと説教壇を備え、その奥に高さ55mのドームを頂くスルタンの廟があり、4つのイワーンの間には、スンニ派の伝統的な4学派のマドラサが独立した形で構成されている。
上の写真は、複数のモスクが集まるサラディン広場越しに見るスルタン・ハサン・モスク。
e0116578_1728174.jpg
上の写真左はスルタン・ハサン・モスク平面図 (西洋建築史図集:日本建築学会編より)。右は南西側のイワーンから見た泉亭のある中庭。カイロ一を誇る高さ90mのミナレットが覗く。下の写真は南東側のイワーン。ミフラブと説教壇のある祈りの広間となっており、奥にスルタンの廟がある。一説には、使用されている石材の多くはギザのピラミットから拝借したものと言われているが?
e0116578_17294989.jpg

ムハンマド・アリ・モスク
e0116578_17314596.jpg
ムハンマド・アリ・モスクは、アイユーブ朝の創始者であるサラディンによって建設されたシタデル(城塞)の中に建つ。ムハンマド・アリ (エジプト最後の王朝の始祖:在位1805~1849年。近代国家エジプトの基礎を築いた人物として知られる) の命を受けたイスタンブールの建築家ユスフ・ブッシュナクが、イスタンブールのスルタン・アフメッド・モスクに基づいた計画を策定し、1830年に着工する。
しかしムハンマド・アリが亡くなった1849年の時点では竣工には至らず、後継者の治世中に再開され、サイード・パシャ (在位:1854~1865) が治世中の1857年に終了したという。だが工事に問題があったのか、モスクは傷みが進み危険な状態になったため、1931年、フアード1世 (在位:1922~1936) より完全な修復が命じられ、メインドームやセミドームの解体、元来のデザインに基づく再建、塗装、鍍金などが実施され、1939年、ファールーク1世(在位:1936~1952) のもとで最終的に完成した。
上の写真は、モッカタムの丘に築かれたシタデルの中に聳えるムハンマド・アリ・モスク。
偉容を誇る52mの巨大なドームと、天を突くような82mの2本のミナレットは、カイロ市街のあらゆる場所から目に入る。下の写真は煌びやかなドーム内部と中庭。
中庭の回廊北西部に時計塔が建っているが、ここの時計は1845年にフランスのコンコルド広場に建つオベリスクと交換に、フランス政府から贈られたものだそうである。
e0116578_17363124.jpg
e0116578_1737094.jpg
ムハンマド・アリ王朝は1882年のイギリス占領下でも継続されるが、第2次大戦が終わりエジプト革命後の1953年、エジプト共和国の樹立を以て連綿と続いた王朝国家は終焉をむかえる。
下の写真は、新市街を流れる悠久の大河ナイル。古代エジプト文明を育み、「エジプトはナイルの賜物」と称された大河は、アスワン・ハイダムの完成で、いまもエジプトの発展に重要な役割を果している。
e0116578_1740921.jpg

toshinacHP
by toshinac | 2018-12-13 17:40 | trip photos

カッパドキア/トルコ共和国

e0116578_16244391.jpg
カッパドキアは、アナトリア高原の中心に広がる大奇岩地帯。数百万年前、エルジェス山などの巨大噴火で膨大な量の噴出物が大地を覆い、それが長い年月をかけて浸食され、キノコ状の岩に代表される奇岩群の景観を生み出した。上の写真はカッパドキアの中心ともいえるギョレメの谷。中央彼方にエルジェス山を望む。下の写真はギョレメの谷の北部に位置するゼルヴェに見るキノコ状の奇岩群。
e0116578_16262941.jpg
この地方に人が住み始めたのは先史時代に遡るとされ、B.C.15~B.C.12世紀には、アナトリア半島を支配領域としたヒッタイト王国(B.C.15世紀アナトリア半島に王国を築いた民族で、最初の鉄器文化を築いたとされている。)の中心地であったとされている。
しかし12世紀に異民族の侵入によりヒッタイト王国は崩壊し、いくつかの君侯国の時代を経たB.C.8世紀頃、フリギア王国(B.C.12世紀頃ヨーロッパから移住してきたとされる民族で、B.C.8世紀に建国。)が一帯を支配するが、B.C.7世紀の末頃、隣国リディア(B.C.7世紀~B.C.547年の間、アナトリア半島西部地域を中心に栄えた王国で、世界で初めて硬貨を導入した国家として知られている。)がカッパドキア地方を支配下に置き、さらにB.C.5世紀半ばにはペルシャの統治下となる。ちなみにカッパドキアとは、ペルシャ語で名馬の産地を意味する“カトゥパトゥキヤ”が語源だという説がある。
その後B.C.333年、アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王:B.C.356年~B.C.323年)がこの地を征服し、サトラップ(州総督)を任命してそのまま東征を続けたおよそ1年後、ペルシャの統治下でサトラップであったアリアラテスがカッパドキア王国を建国するが、アレクサンドロスの側近ペルディッカス(アレクサンドロス3世に仕えたマケドニア王国の将軍)がその権力を奪還する。
しかしB.C.301年に、アリアラテス2世がカッパドキア南部を奪い返すと、アリアラテス5世の時代までカッパドキア王国は拡大を続けるが、5世の死後は徐々に衰退し、B.C.17年、カッパドキアの最後の王アルケラオスの時代にローマ帝国の領となる。
e0116578_16335581.jpg
上の写真はギョレメの南に位置する、自然の城砦がそびえるウチヒサールの街。
人々は岩山をくり抜き、見晴らし台付きの城砦として使ってきたが、岩壁の風化と人口の増加に伴い、しだいに麓の方に街が広がっていったという。下の写真はウチヒサールで見かけた岩窟住居。一本の木の下は大空のもとの憩いの場。
e0116578_16351925.jpg
古くから交易上の要衝地でもあったことから、侵略、侵入、略奪の対象となってきた地元の住民たちは、略奪者から身を守るため洞窟に住むようになり、やがて水源や食物貯蔵庫、ワイナリー等を含む地下都市へと発展していく。4世紀前後からは、ローマ帝国の迫害を恐れたキリスト教徒が移り住み、軟らかい凝灰岩を削って洞窟を広げ、住居だけでなく礼拝堂や教会、さらには修道院の空間まで彫り上げている。6世紀に入るとギョレメ渓谷に多くの人々が移り住み、7世紀のイスラム教徒のアナトリア侵攻が拍車をかけ、カッパドキアの洞窟に住む人口は当時6万人を超えたとされている。
e0116578_16383360.jpg
上の写真は、36か所ほどある地下都市の一つカイマクルの内部。現在地下4層まで一般開放されているが、地下都市は8層にまで及ぶと言われ、教会やワイナリー、貯蔵庫などが設けられ、遠く離れた地下都市デリンクュまで通じる地下通路も確認されているという。何世紀にも亘って掘り進められ拡張されてきた地下都市の起源は定かではないが、紀元前のヒッタイトの時代ではと推定されている。
下の写真の中央に映る丸い石は、地下都市への侵入者を阻む石の扉。初期のキリスト教時代、カッパドキアの地下都市が果たした役割は大きかったが、8世紀以降は住まいとしては使われなくなったそうである。
e0116578_16404488.jpg

e0116578_16414496.jpg

e0116578_16423381.jpg726年からの約100年間、一時的には聖像や聖画は禁じられたが、1071年にビザンティン帝国を滅ぼしたセルジューク朝トルコの時代でも表現の自由を得たことで、カッパドキアでは岩山を穿った小さな聖堂が盛んに造られた。
15世紀には強大なオスマン帝国の時代となるが、宗教には寛大で、キリスト教信仰も自由であったという。1923年にトルコ共和国が成立すると、アナトリアに住んでいたキリスト教徒の多くはギリシャへ移り住む。
上の写真は、ギョレメの野外博物館にある岩窟教会の一つ聖バルバラ教会。
左の写真はその内部で、11世紀頃に造られたとされている。




下の写真は、ギョレメの岩窟教会の中では最大規模をほこるトカリ・キリセ(留め金の教会)。イエスの生涯を物語る絵が壁・天井に描かれたのは10世紀初期の頃と考えられている。
e0116578_1646320.jpg

toshinacHP
by toshinac | 2018-11-16 16:46 | trip photos

ヒエラポリス遺跡/トルコ共和国

エフェソス遺跡のあるセルチュクから、東に200km弱という、当時の都市の立地としては珍しい内陸部に位置するこの遺跡は、B.C.190年頃にペルガモン王国(紀元前2世紀に、現在のイスタンブールの南に位置するペルガマに栄えた、ヘレニズム時代の都市国家。)のエウメネス2世によって植民都市として建設され、初代国王の王妃ヒエラの名が付けられてヒエラポリスと命名される。だがこの名にはもう一つの由来があり、ギリシア語でヒエラが“神聖な”を意味することから“聖なる街”という説もある。
後のローマ帝国の支配下では神殿や劇場、アゴラや市場などが建設され、この地が温泉地ということから湯治場的な保養地としても繁栄し、豊富な水源を活かして綿花や穀物の栽培も盛り、東ローマ帝国(ビザンティン)時代やイスラム侵攻(7世紀)後も大いに栄えたとされている。
しかし1354年の大地震で都市は完全に崩壊し、ドイツの調査団による本格的な発掘が始まる1887年まで、ヒエラポリスは荒れ果てたまま放棄されていた。
e0116578_1175637.jpg
上の写真は、ヒエラポリス遺跡のなかでも比較的保全状態のいい円形劇場。2世紀にハドリアヌス帝(在位:117年~138年)の下で建てられ、3世紀にセウェルス帝(在位:193年~211年)の下で改装されている。急勾配の客席が特徴的なこの劇場は、15,000人を収容できたと言われている。下の写真は、オーケストラの床を支えた連続するアーチ。
e0116578_111047.jpg

下の写真2葉は、ローマ帝国の第11代皇帝ドミティアヌス(在位:81年~96年)を讃えて造られた3連アーチのドミティアヌスの門と、その先のビザンツ門に至る石畳の通り。地下には下水管も整備され、両側には大きな建物が建ち並ぶかつてのメインストリート。
e0116578_11123592.jpg
e0116578_1113861.jpg

e0116578_11142155.jpg
上の写真は、ドミティアヌスの門の北にある浴場跡。3世紀のローマ浴場ではあったが、330年にキリスト教が公認されると、その後まもなく教会に変えられたという。
下の写真2葉は、ヒエラポリスの北に広がる古代のネクロポリス。アナトリア地方では最大級とされる共同墓地で、墓の数は1000基を超えると言われ、広範囲に分散する。ヘレニズム後期のものが主流だが、石室や石棺にはローマやビザンティンの影響も見られる。柱の上に石棺を載せた形態は、ここから200km以上南下したエーゲ海沿いの“古代リキア遺跡クサントス”のネクロポリスに見る柱状墓と、その概念は同じところだろうが、写真に見る石棺は柱状墓ではなく柱上墓といった印象である。
e0116578_11171831.jpg
e0116578_1118460.jpg

toshinacHP
by toshinac | 2018-10-24 11:19 | trip photos

エフェソス遺跡/トルコ共和国

トルコのエーゲ海沿岸の都市イズミールの、南約70kmに位置する小さな町セルチュク近郊にあるエフェソス遺跡は、数多くの遺跡が残るエーゲ海周辺でも最大級を誇る古代都市遺跡。その歴史はギリシア(イオニア)の植民都市として始まり、古代ローマ、ヘレニズム(B.C.334年のアレクサンドロスの東征以後成立した、ギリシア文化が普及した東方的な専制国家で300年ほど続く)、ローマ帝国、東ローマ帝国(ビザンティン)時代へと、長き繁栄を物語る遺構が展開する。なかでも遺跡観光の中心となっているのは、当時一大貿易港として栄えたヘレニズムからローマ帝国時代にかけて建設された遺跡群である。
4世紀にローマ帝国がキリスト教を国教としたことで、エフェソスはさらに整備された宗教都市となり、東ローマ帝国時代も経済的、宗教的にも重要な役割を果す都市となっていた。しかし8世紀になると、急速に拡張してきたイスラム勢力の攻撃に対抗できず、エフェソスは放棄され、1300年間続いてきた繁栄は幕を閉じることになる。
e0116578_98428.jpg
上の写真は、遺跡のほぼ中央に位置する大劇場と、港に続くアルカディアン通り(港通り)を見る。大劇場はB.C.3世紀頃の建設だが、ローマ帝国時代に大きく拡張されている。ピオンの丘の西斜面に造られた観客席は、直径154m高さ38mの半円形で、24,000人を収容できたという。
皇帝アルカディウスが修復したことから、アルカディアンと名付けられた通りは、往時500mに亘って商店が建ち並び、夜には街灯も灯されたという。通りの先はエフェソスに繁栄をもたらした港湾であったが、2世紀頃から土砂の堆積が始まり、7~8世紀には港は完全に埋まって湿地と化し、その機能を消失させてしまう。一説には4世紀のキリスト教の国教化が起因していたのではと言われている。キリスト教の思想の下で森林が伐採され、小麦畑や葡萄畑やオリーブ畑に変わったことで、保水力を奪われた山からの土砂が徐々に港を埋めつくしたというのである。
e0116578_9111942.jpg
上の写真は、エフェソス遺跡で最も有名で美しいセルシウス図書館の跡。110年代の着工で135年の完成とされている。ローマ帝国の執政官でアジア州の提督であった、ティベリウス・ジュリアス・セルシウスの息子ティベリウス・ジュリアス・アクイラが、父の死後霊廟として建てたもので、図書館はその建物の中に後に開設されたという。12,000冊の蔵書があったとされ、当時のアレクサンドリア、ペルガモンの図書館と並んで、世界の三大図書館と評されていたとか。

e0116578_939183.jpgファサードは、錯視効果を用いて高く大きく見せようと、1階の柱に比べ2階の柱を細く短くするなどの遠近法を取り入れて造られている。
だが3世紀後半のゴート族(ゲルマン系の民族)の侵略で破壊され(地震が原因という説もある)、さらに10世紀の地震で完全に崩壊する。遺跡発掘後の1960年~1970年にファサード部分が現在の姿に修復再建された。右側の二つのアーチはマテウスとミトリダテスの門で、その外側にはアゴラ(商業広場)が広がっている。

左の写真は、セルシウス図書館に向かって下るクレティア通り。なだらかな石畳の通りの両側には、神殿や住宅街、娼館や浴場や公衆便所などの遺跡が展開する。

下の写真の左上は円柱や彫像の台座などが並ぶクレティア通り。同上右はアゴラの先に見るセルシウス図書館。左下は公衆便所跡。右下は公衆浴場跡である。
e0116578_9454318.jpg

e0116578_9443456.jpg
上の写真はハドリアヌス神殿。ローマ皇帝ハドリアヌス(在位:117~138)に捧げられたコリント式の神殿で2世紀の建立とされ、繊細な装飾が施されたアーチ中央の楔石には、市の守護神でもある女神ティケの胸像が彫られている。下左の写真は、エフェソスの考古学博物館に展示されているアルテミス像。

e0116578_947394.jpgアルテミスとはギリシア神話の女神で、清純な女狩人として知られているが、エフェソスのアルテミス像は豊穣多産を象徴する多数の乳房を持っている像で、清楚で力強いギリシアのアルテミスとは対照的。ギリシア文化以前の伝説によれば、この辺りには女性が狩猟・戦闘を行うアマゾネスと呼ばれる人々が住んでいたとされ、母系制社会の中で大地と豊穣の女神を信仰し、その対象が多数の乳房を付けた木製の偶像だったという。
下の写真は、遺跡の南7km程の山中にある十字型ドームの聖母マリアの家。薄暗い奥の壁龕にマリア像が祀られている小さな空間である。伝承によれば、十字架に架けられたイエスが、弟子のヨハネに母・マリアを託したため、ヨハネがエフェソス方面の布教に赴くおり、マリアも共に移り住んだのではとされている。後に、神秘的な能力を持っていたとされる尼僧カタリナ・エメリッヒ(1774~1824)が見たという幻影にそって、1891年にこの地が発掘調査され、1世紀と4世紀の壁の跡が発見され、そこに建てられた小聖堂が「聖母マリアの家」ということで、現在の家は1951年に再建されたもの。1967年にはローマ教皇パウロ6世が訪れ、以後公認の聖地となっている。
e0116578_9513697.jpg

toshinacHP
by toshinac | 2018-10-06 10:03 | trip photos

アタチュルク廟/トルコ共和国

アタチュルク廟は、初代大統領ムスタファ・ケマル・アタチュルク(1881~1938)の霊廟で、トルコ共和国の首都アンカラにある。アナトリア高原の西側に位置するアンカラは、1923年の共和国誕生と同時に首都となり、1928年に市全体を対象とする都市計画の国際コンペが実施され、ドイツ人のヘルマン・ヤンセン(1869~1945:建築家・都市計画家でベルリン大学教授)案が当選し、その後始まった都市整備はヤンセンの案に基づくかたちで実施され、オスマン帝国時代とは違った様相の近代都市をつくりあげてきた。
廟は、B.C.8世紀頃のフリギア人(B.C.12世紀頃ヨーロッパから移住してこの地域を支配し、B.C.8世紀に王国をたてたとされるインド・ヨーロッパ語族の、いまでは死語となっているフリギア語を話す人々。)の古墳があった市街南東部の丘陵地に建っている。1938年アタチュルクの死と同時に廟の建設計画が持ち上がり、建設案は国際建築家連合(UIA)の規定に沿った国際コンペで募られたが、第2次大戦中であったためヨーロッパからの応募は少なく、結果的にはトルコ人建築家エミン・ナオト(1908~1961)とオルハン・アルダ(1911~1999)という2人の連名案が採用され、変更はあったものの基本的なところでは変わりなく1953年に完成した。
e0116578_15572982.jpg

e0116578_15585141.jpgケマル・アタチュルクが、「トルコ人の起源は中世イスラムにあるのではなく、アナトリアの農民にある」と定義づけたことを背景に、全体的にはイスラム色を排除したアナトリアン様式(B.C16~14世紀の古代ヒッタイト帝国時代から新ヒッタイト時代の様式とアンカラ周辺のフリギア美術をまとめて総称したもので、中央アナトリアに見られる古代様式。)のデザインで統一されており、さらに古典回帰や伝統の再現だけでなく、時代の潮流でもあったモダニズムのデザインも随所に見る。
上の写真は夕日に輝くアタチュルク廟。建築に使用されている石材はすべて国内で産出されたものだそうである。
左の写真は廟の主室周りに配された角柱の列柱廊。廟の東北方向に位置する丘上にあるアンカラ城を遥に望む。

下の写真は雨上がりの式典広場から見る廟。コンペの当選案では、廟の上部にレリーフを施した巨大な箱が載るという仰々しいデザインであったが、実施段階では取り除かれた。
e0116578_1624595.jpg
e0116578_1642884.jpg

e0116578_1654947.jpg廟の建設計画と同時に大統領の葬儀計画が進められており、祭壇の設計が、当時イスタンブールに在住していたドイツ人建築家ブルーノ・タウト(1880~1938 : 1933年に日本に亡命し、桂離宮の評価で知られるタウトだが、当時の日独関係上しかるべき公職に就くことが難しかったところに、1936年にトルコ政府からの招聘があり転地する。トルコではイスタンブール芸術大学建築学科で教鞭をとり、文部省建設局の主任も兼務。)に委ねられた。タウトは病床の身にありながら祭壇のデザインを一晩で完成させたと言われ、後にアンカラ市から金品の申し出があったが、「最も偉大な人の死に際して、私に恵まれた名誉の仕事のために金を受け取るわけにはいきません」と断ったという、タウトのアタチュルクの対する敬意を表した逸話がある。アタチュルクが亡くなった1938年11月のわずか1ヶ月後、タウトも急逝する。もしタウトが亡くなっていなかったなら、“タウト設計のアタチュルク廟”なんてことがあったかも。上の写真は式典広場を取り囲む列柱回廊。左の写真は石棺が置かれた内部で、地下に納骨堂が設けられている。下の写真は式典広場の回廊から眺めたアンカラ市街。
e0116578_1692650.jpg

toshinacHP
by toshinac | 2018-09-17 16:10 | trip photos

イスタンブール3/トルコ共和国

スレイマニエ・モスク
e0116578_10211161.jpg

e0116578_10244579.jpgオスマン帝国の第10代皇帝スレイマン1世の命により、王の主任建築家ミマール・シナン(1489~1588:生涯に364の建物を設計したとされるトルコ史上最高の建築家)の設計で、7年の工期をかけて1557年の完成。平面や構造はアヤソフィアに似るが、直径27.5m、頂点の高さ53mの大ドームを中心に小ドーム群と4本のミナレットを持ち、周囲に建てられた学校、病院、養育院など、大公共建築群と一体として計画されている。
上の写真は、イスタンブール旧市街の中でもひときわ偉容を誇るスレイマニエ・モスクを金角湾側から見る。第三の丘と呼ばれる突端の、やや急な斜面に位置することから大規模な人工地盤上に建ち、周囲の施設も地形にあわせつつ、対象性を意識した配置がなされている。1660年に火災による被害を受けるが、メフメット4世によって修復され、第一次世界大戦で武器庫として使われたことが原因で再び火災の被害を受け、1956年に元の姿に修復された。

左の写真はモスク内部。下の写真は、モスク前庭の回廊から仰ぎ見る大ドーム。
e0116578_15202197.jpg


スルタン・アフメット・モスク(ブルー・モスク)
e0116578_10315860.jpg
アヤソフィアと向かい合うように建つこのモスクは、オスマン帝国の第14代皇帝スルタン・アフメット1世によって、1609年~1616年にかけて建設された。設計は前述のミマール・シナンの弟子であるメフメット・アガ(1540~1617)。内部壁面の青い施釉タイルと、ドーム内側の青を基調とした幾何学模様のフレスコ画が描かれていることから、ブルー・モスクとも呼ばれている。
64m×72mの広さを誇る礼拝堂は、「像の脚」と呼ばれる直径5mの4本のピアの上に直径23m、高さ43mの大ドームが架けられ、大ドームの四方には半球型のセミ・ドームと、そのセミ・ドームを受ける3つの小さなセミ・ドームがあり(ミフラブ側は2つのセミ・ドーム)、四隅にも小さなドームが架かっている。外部には他のモスク同様に連続ドームを架けた回廊に囲まれた前庭があり、モスクでは唯一とされる6本のミナレットが建つ。オスマン帝国の「最も美しいモスク」と評されている。
上の写真は、6本のミナレットと盛り上がるように重なるドーム群によって構成される迫力ある外観。
下の写真は廻廊に囲まれた前庭からの見上げ。
e0116578_10342817.jpg
e0116578_10383676.jpg
上の写真は、ブルー・モスクと呼ばれる所以の内部。想像していたほどの“青い空間”ではないが、かつては壁面の青とステンドグラスから差込む光で、あたかも水中にいるような神秘的な空間であったらしい。
近年の修復事業でオリジナルに近いという色調に変えられた結果が現在の色らしいのだが、以前のブルー・モスクの空間に浸ってみたかった。

トプカプ宮殿

古代ビザンティオンのアクロポリスの場所に、メフメット2世が夏の離宮として1459年頃起工したが、次第に施設や庭園が整備されて拡大し、スレイマン1世(第10代皇帝:在位1520~1566)の時代に全宮殿が移されて以後、絢爛たる宮廷文化を育んだオスマン帝国の宮殿となる。しかし1853年に、アブデュル・メジト1世(第31代皇帝:在位1839~1861)が新たに建設したドルマバフチュ宮殿(1855年竣工)に宮廷を移すと、トプカプ宮殿は放置され荒廃するが、1923年にトルコ共和国が誕生すると、宮殿は修複されて1924年に博物館として一般に開放される。
e0116578_10424447.jpg
宮殿といえば、通常は中心となる大建築を想像するが、トプカプ宮殿はいささか趣を異にする。広大な敷地に直線的に連なる4つの中庭に沿う形で、比較的小さな建物と小部屋が連続する集合体によって構成されている。スルタンたちが集めた世界の秘宝や献上品など、展示物は枚挙に遑がないが、建築物の写真を撮ることが目当ての私には“猫に小判”的で、写真もいま一つ物足りない結果。
上の写真の左上は、博物館への入口となっている中門(第2庭園への入口)。右上は煙突が特徴的な宮廷の調理棟。左下は謁見の間。右下は宝物館。下の写真は、宮殿奥のテラスから眺めた旧市街。左にスレイマニエ・モスク、奥にファーティフ・モスク、右手前にイェニ・モスクを見る。
e0116578_10445185.jpg

ガラタ塔
e0116578_10471086.jpg

e0116578_10474945.jpg金閣湾の北岸に位置するガラタ地区(カラキョイ)に建つガラタ塔(ガラタ・クレシ)は、東ローマ帝国(ビザンティン)時代の528年に灯台として建設されたのが始まりで、1204年に第4次十字軍の遠征時に破壊されたが、1348年にジェノヴァ人によって「キリストの塔」の名で再建された。
その後、天文台や捕虜収容所、火災監視塔などとして使われたらしいが、その間、2度の火災や自然災害で一部損壊したという。高さ67mの現在の姿になったのは1967年以降のことらしく、最上部の尖塔部分もその時点で付け加えられたもの。丘の上に建っているので高さ以上に眺望がすばらしく、金角湾のパノラマが楽しめる。




上の写真は金角湾の対岸から眺めたガラタ塔。
左の写真は塔の近影。十字軍に破壊された灯台の瓦礫を利用して再建された塔の壁には、1453年にジェノヴァ人がスルタンに塔の鍵を献上した、と刻んだプレートが取り付けてある。



toshinacHP
by toshinac | 2018-09-01 10:52 | trip photos