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カテゴリ:trip photos( 177 )

江南の水郷都市2/80~90年代の中国

常州 (1991年撮影)
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上海の西160km、南京との中間に位置する常州市は、北は長江に接し、南は太湖に近く、大運河が市内を貫流する。この地に“まち”が形成されたのは約2500年前とされ、西晋時代から近代にいたるまでの1700年間、郡・府として栄えた江蘇省南部の政治、経済、文化の中心地の一つ。
上の写真は、運河に架かる巨大な三孔橋の「文亨橋」。創建は明代の1548年とされているが、現在のものは清代の1768年に再建されたもの。
下の写真は常州市钟楼区にある、清の時代に一番栄えていたらしい「青果巷」。朽ちかけた民家が建ち並ぶ姿も、今では開発が進み、新しい観光スポットになっているという。
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上の写真は、当時の常州市城郷建設管理委員会の方に見せて頂いた、淹城遺跡の空撮写真を複写したものである。遺構らしきものは無く、地上からでは水路と緑が茂るのみ。世界で唯一とされる三城三河(三つの城と三つの堀)で構築された淹城は、西周時代から春秋時代に築造され、戦国時代後には放棄されたという非常に短命の城である。下の写真は、地元の人たちが遺跡内の農地へ渡るために、堀に小船を浮かべる様子を見せてくれたもの。それから28年、現在では、淹城遺跡を取り囲むように巨大なテーマパークが開発され、年間260万人もの観光客が訪れる常州市の新しい観光拠点になっているそうである。
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下の写真は、常州から杭州に向かう途中で立ち寄った無錫で、太湖の畔に建つ、シドニーのオペラハウスもどきの建物を発見!あわててシャッターを切る。案内してくれた無錫市土木建築工程学会の方に、どういう建物かお訊ねしたが分からないと言うことだった。おそらく公の施設であろうとは想像するが、30年近くも前のことなので、現在も建っているとは思えない。
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杭州(1991年撮影)
浙江省の省都で、大逆流で有名な銭塘江の河口に位置し、江南運河の南の終着点でもある杭州は、交通至便の地であることから、古来より使者や交易商人が往来し、商業の中継地として栄え、かつ揚子江デルタ地帯の農業の発展もあって、南宋・元・明・清時代を通じて中国屈指の大都市として発展した。元代にこの地を訪れたマルコ・ポーロは、「東方見聞録」に世界で最も優美な都市と記している。紹興への途中、夜杭州に着き、早朝2時間の散策のみで名所巡りはまったくなく、気の利いた写真も撮れなかった杭州。今にして思えばもう少し時間がほしかった。
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e0116578_10345853.jpg上の写真は蓮の葉で埋め尽くされた西湖の畔。

左の写真は、自転車通勤の風景と、公園での早朝太極拳で、当時の中国を紹介する話題の定番。








下の写真は朝靄の西湖。湖の北側に霞む宝石山の頂には、北宋の初めに創建されたという保俶塔(別名:宝石塔)が聳えている。創建時は煉瓦・木構造9層の塔であったが、その後崩壊と建設が繰り返され、現在のものは1933年に再建された高さ45.3m、煉瓦造り7層の塔である。
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紹興(1991年撮影)
紹興酒の産地として知られる紹興市は、上海から南西に約250kmに位置する浙江省北東部の水郷都市。春秋時代のB.C.490年、中原の王朝から独立した越が、会稽の地(今の紹興旧市街地)を都として越国を建国して以降、2500年以上の歴史を有する古都として現在に至っている。ちなみに紹興と改名されたのは南宋の時代。この地に南宋の臨時首都が置かれた際、「帝の位を継承し再び興す」との願いを込めて年号を紹興とし、当時呼ばれていた越州を紹興と改名したそうである。
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上の写真2葉は、宿泊した江南伝統建築の紹興飯店。
当時も最高級の賓館であったが、現在も五つ星の最高級ホテルのようである。
下の写真2葉は紹興旧市街。
今では漆喰も塗りなおされて整備され、観光ポイントになっているのでは?と想像する。
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魯迅生家
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上の写真は、日本でもよく知られる文学者で思想家でもある魯迅(1881~1936)の生家である。清朝の役人を輩出した家柄ということもあって、小運河沿いの生家は趣のある江南民居。現在は、紹興の小運河を小舟で巡る観光客のための船着き場にもなっている。
下の写真は、魯迅が子供の頃よく遊んだとされる百草園。1909年に7年間の日本留学を終えて帰国後、38歳の時、魯迅は生家を明け渡すために一度帰郷したが、以降紹興に住むことはなかったそうである。
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toshinacHP
by toshinac | 2019-07-10 08:00 | trip photos

江南の水郷都市1/80~90年代の中国

中国のことわざ、「南船北馬」の語源ともいえる揚子江の南に位置する江南地方は、数多くの湖や沼が点在し、川や運河が網の目のように巡る水郷地帯。中華文化の発祥地である黄河中下流域の「中原」は、かつて文化の中心と同時に権力闘争の中心地帯で、多くの戦いが繰り返されてきた。その間にも、争いを好まない多くの人々は、肥沃で争いの場からも離れた江南の地へと移り住み、それに伴い経済の中心も南下したとされている。やがて宋の時代になると、水運にも恵まれていた江南地方は、中国の経済の中心地となり、文化も一気に花開く。

蘇州(1994年撮影)
上海の西約80kmに位置する蘇州市は、江蘇省南東部の省直轄市。後漢のB.C.514年に呉郡の治所に制定され、そこから都市の大規模な建造が始まったという。長江流域の都市としては最も古い2500年の歴史を持っている。当時すでに江南における経済や文化の中心地ではあったが、その後の漢民族の江南への移住が盛んになるにつれ急速に発展し、隋代の610年に中原と江南を結ぶ「京杭大運河」が開通すると、江南地方最大の物資の集散地として繁栄し、呉郡の名も蘇州と改められた。宋代に一層発達した蘇州の都市文化は、地上の楽園と例えられるほど。

盤門三景
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e0116578_9263292.jpg上の写真は、かつての蘇州城への城門の一つである盤門。B.C.514年の蘇州の築城時には、東西南北に各2つずつ計8つの城門があったが、現在残るのは盤門のみ。治安を維持するため、陸門と水門が巧みに組み合わされた盤門は、1351年に再建されているが、宋代の水の都蘇州の面影を今に伝えている。


左の写真は盤門上から眺めた瑞光塔。創建は三国志の呉王“孫権”の時代とされているが、現在の塔は宋代の1014年頃に再建されたもので、8角形7層高さ43mの磚造の塔。



下の写真は、北宋時代の1084年の建造とされる呉門橋で、蘇州市内で最も古い石橋となっている。
さらに下の写真は、幅4.8mの呉門橋のたもとから見た盤門三景。左手に盤門、右手に瑞光塔、そして足元の呉門橋。

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留園
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蘇州市閶門外(しょうもんがい)にある庭園で、明の嘉靖年間(1522~66)に蘇州府長であった徐時泰がここに東園を造営したが、清の嘉慶年間に、観察使(地方行政監察官だが、実質的には行政権を握った。)劉恕に所有されたとき、寒碧山荘と改称され、劉園とも称された。その後、咸豊、同治年間の兵乱で、蘇州の多くの庭園が荒れ果てていったという。光緒年間に湖北の布政使(明・清代の地方官)盛康という人物がここを購入し、大規模な増築改修を行って“留園”と改めた。中華人民共和国の成立後、蘇州市によって整備され1954年から一般に公開されている。
上の写真は池越しに望む緑陰と明瑟楼。下の写真は遠翠閣に至る曲廊を見る。趣ある建物はもとより、江南の水を利用した池や巧みに配された庭木、鋪地(ホチ:小石や陶片で中国伝承の吉祥文や幾何学模様を、大地に織り成された絨毯のように敷き詰める。)の多彩な文様や、龍を想わせる波型の牆壁など、多様な意匠が楽しめる。
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拙政園
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蘇州市婁門(ローメン)内の東北にある拙政園は、明代の1510年頃、御史(主に官吏の監察にあたる役人)の王献臣という人物が、元代は大宏寺という寺であったこの地を買い取り、桃源郷を夢見て庭に自然を集め、拙政園と名づけて余生を送ったそうである。ちなみに拙政園とは拙い者が政(まつりごと)を行う園という意味。その後何度も持ち主が変わり、興廃が繰り返えされたが、清代の末頃に現在の規模になったらしい。上の写真は蘇州では唯一の橋廊「小飛虹」。橋と廊下を兼ねたもので、拙政園の中核を成すともいえる中区にある。水面が全体の3分の1を占める中区は江南の水郷情緒に富んでいる。
下の写真は水際を走る廊下で、文字通りの「水廊」。
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網師園
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蘇州市友誼路にあり、南宋時代の高官が老後を過ごすために建てた庭園で、「漁隠」と名付けた。その後、清の乾隆年間に高官の宋宗元が「漁隠」の土地を購入し、別荘として再建した際に、漁隠の意味をとって網師園と改名。江南地方特有の建物と、池を中心に展開する庭園は変化に富み、小型私家庭園の珠玉とも言われている。
上の写真は月到風来亭から眺めた大池と大庁。左手前に東半亭を見る。
下の写真は殿春簃の庭の鋪地と西側の洞門。
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by toshinac | 2019-07-01 08:00 | trip photos

上海/80~90年代の中国

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揚子江の河口にある上海は、宋代から貿易港として発達した中国最大の商工業都市。1842年の南京条約(アヘン戦争終結のため、イギリスと清国の間で締結された条約)での開港以来、中華人民共和国の成立(1949年)までは列強の租界(外国人居留地)が設けられ、外国資本の中国進出の拠点となっていた。
中華人民共和国成立後、外国資本は香港に撤収したが工業都市として発展。1978年の改革開放政策により、再び外国資本が流入すると目覚ましい発展を遂げ、1992年以降本格的に開発された浦東新区が牽引役となって高度経済成長を続けている。ちなみに2010年には、世界189ヶ国が参加した史上最大の国際博覧会である上海万博が開かれた。
上の写真は、1983年の黄浦区九江路に建つ、高密度住宅と化したかつての洋館。
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e0116578_10461330.jpg上の写真2葉は、1989年に宿泊した新錦江大酒店から眺めた市内遠望と、租界に造られた上海特有の集合住宅である里弄(リロウ)を俯瞰。
1920年代爆発的に増えた中国人のために、上海のあらゆる所に建てられた里弄のその多くは、江南地方の伝統的住宅と、イギリスの労働者向け住宅のスタイルが混在した、いわゆる「華洋折衷様式」の低層集合住宅である。



左の写真は1983年に撮影した豫園近くの里弄内部の狭い路地。上海の発展に伴う再開発で、里弄の多くが取り壊され、いずれ消失してしまうのではと危惧しているが、下の衛星写真(Google Earth) に見るように、淮海路中段地域には現在でもかなりの数の里弄が残っているようである。
ただ中国だけに、Google Earthの位置表示は実際の場所とはずれがあり、正確さはやや欠けているようである。
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上の写真は1987年の撮影で、上海を東西に流れる黄埔江の支流、蘇州河に架かる四川路橋(1922年)と、奥に1924年竣工の上海郵政総局ビルを見る。四川路橋を渡った先の四川北路は、かつての日本租界への主要道路である。
下の写真は、1992年に撮影した観光名所の外灘。租界地区であったこの一帯には、当時建てられた西洋式の高層建築が建ち並ぶ。緑色の三角屋根を頂くアール・デコ様式の建物は、サッスーンハウスと呼ばれたユダヤ系金融王のビルで1929年に建てられたもの。1956年から「和平飯店」として使用され、現在は「フェアモント・ピース・ホテル」となっている。その隣に建つアール・デコの高層建築は、1937年建築の旧中国銀行大楼(現中国銀行上海分行)。その先の古典主義様式の建物は、1924年建築の旧横浜正金銀行。正面の外灘北部に建つアール・デコ様式の建築は、1935年竣工のブロードウェイマンション(百老匯大廈)で、開業以来、上海の名所の一つで在り続けたランドマーク的な建築であった。設計は1866年に香港で設立されたパーマー&ターナーという英国の建築事務所で、彼らは外灘だけでも13棟のビルを建築しているとのこと。さらに下の写真は1991年撮影の南京東路。
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豫園
上海の古典園林の一つである豫園は、明代の四川省の役人であった潘允端(バンチュントアン)が、豫悦老親(親族と愉快に楽しく)として、父の養老のために造ったところから、その名を豫園としたという。
明の嘉靖38年(1559年)に着工し万暦5年(1577年)に竣工。18年の歳月をかけて造った庭園である。
清代の初頭に一時荒廃するが、乾隆25年(1760年)に地元の名士が資本を集めて修復し、西園と改称された。その後、茶店や酒屋、商店や民家などが園内に入り込み荒れた状態になるが、1956年、西園の約半分を庭園として改修整備が行われて豫園となり、残りの部分が現在の豫園商城となっている。
下の写真2葉は1983年の豫園で、上は九曲橋と明、清代の庭園建築を望む。下は九曲橋の中程にある湖心亭で、上海で最も古い歴史を持つとされる茶館。
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by toshinac | 2019-06-15 11:06 | trip photos

北京3/80~90年代の中国

八達嶺の長城
いわゆる万里の長城は、東は山海関(渤海)を起点として、西は嘉峪関(甘粛省)に至る、中国古代の重要な軍事施設。紀元前5世紀の戦国時代に、匈奴(北方騎馬民族)の騒乱を防ぐために創建された。秦代には、西は臨洮(甘粛省)より東は遼東(遼寧省南部)まで形成され、以降各時代にわたり絶えず増築が続けられ、明代になって現在の姿になったという。主要部だけでも約3,000kmに達し、総延長はなんと12,000kmにも及び、人類がつくりあげた世界最大の建造物とも言われている。
中国には“長城に行かなければ男じゃない”「不到長城非好漢」という言葉があるそうな・・・?
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e0116578_1061710.jpg八達嶺の長城は北京の北西約70kmにあり、明代に竣工した長城の一部が最も完璧に保存されているところ。磚(大型の煉瓦)造の城壁の高さは平均7~8m、場所によっては14mに及ぶところもある。上部は幅5.8mで、5~6頭の馬や10人の兵士が並進することができるといい、250mから500mおきに戦闘時の拠点となる敵台が設けられている。
近年は、八達嶺長城のあまりの混雑に、八達嶺長城のやや東に位置する慕田峪長城が観光客の人気を集めているらしい。


上と左の写真は、1982年冬に撮影した八達嶺の長城。当時は観光客の数もそれほど多くなく、峰の頂にある敵台から周囲を見晴らし、遥か数千キロ離れた万里の長城の西端に思いを馳せた。




下の写真は1999年秋の八達嶺長城。
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市内散見
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上の写真は1982年の天安門。故宮の正門の名で、1420年に永楽帝によって「承天門」として創建され、1651年の再建時に「天安門」と改名。1949年、毛沢東が門上で中華人民共和国の建国を宣言。門前の広場は国慶節をはじめとする様々な国家的行事の中心式場となる。
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上の写真(1982年)は天安門広場西側に建つ人民大会堂。中国各地の設計部局や建築家が提出した設計案を基に1959年8月末に完成。下の写真は、天安門広場の南に位置する北京の城門である正陽門(1982年)。1420年に造られた高さ42mの門で、当初は麗正門と名付けられたが、1436年に正陽門に改称された。通称「前門」と呼ばれている。
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上の写真は1982年当時の北京市内。上左は道路を覆う街路樹のトンネル。同右は賑わう下町。左下は京都の町家のような条里制都市住居が続く胡同(フートン)。同右は伝統的な都市型住居である四合院。新しい高層建築の谷間に消えつつある。
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上の写真左は、現在王府井天主堂と呼ばれるカトリックの教会で、1966年の文化大革命以降、教会は閉鎖され小学校に占用されていたが、1980年末には宗教活動が回復したとされている。写真は1982年の撮影だが、入口にはまだ王府井小学の校名が掲げられていた。同右上は1981年の王府井大街。上右下は、書画骨董や印章などを販売する店が建ち並び、文人墨客が訪れることで知られる瑠璃廠。写真は1984年の撮影で、改革開放のスローガンのもと、市内は至る所が建設現場。
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上の写真は全て1981年のもので、左上は北京市西城区の胡同の昼下がり。中国では、1969年の中ソ関係が悪化した頃から、大都市の地下に防空壕となる地下空間が積極的に造られた。左下の写真は、西城区にあった地下空間「福綏境人防工程」への入口があった民家の一角。同右の写真は地下約10mに設けられた地下通路。宿泊所や、医療施設などの大きな空間も設けられていた。つい最近まで、北京で働く地方出身者の宿泊施設になっていると聞いていたが、現在はどうなっているのだろう。

toshinacHP
by toshinac | 2019-06-02 10:25 | trip photos

北京2/80~90年代の中国

天壇(1981年夏の写真)
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天壇は北京市東城区にある史跡で、明・清時代の皇帝が天を祭り、五穀豊穣を祈願した場所。明代の1420年創建で、当時は天地壇と呼ばれていたが、1530年に現在の規模に拡張されるとともに、1534年に天壇と地壇に分離、以後天壇と呼ばれている。ただし、祈念門・皇乾殿を除けば清代の18世紀以降の建築だそうである。総面積280haという広大な敷地は、天と地を意味する古代の「円天地方」という宇宙観に基づき、北側両隅が円弧で、南側が方形という形になっている。かつては一般人が立ち入れない神聖な場所であったが、現在は天壇公園として開放され、庶民の憩いの場にもなっている。
上の写真は圜丘壇(皇帝が天を祭るための儀式の場)から北を見る。白石門の先に皇穹宇、その先の祈念殿へと、南北軸の直線上に並ぶ天壇の中心部。
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上の写真は天壇のシンボル的な建築で、毎年春の豊穣祈願をするための祈念殿。3層の大理石の基壇上に建ち、上にゆくに従って縮小する青瑠璃瓦の三重屋根は天とのつながりを表わしているという。祈念殿の前身は、1545年に建てられた大享殿で、三重の屋根は上中下をそれぞれ青、黄、緑の三色の瑠璃瓦で葺かれていたが、清代の1751年に修復した際、全て青色の瑠璃瓦に葺き替えられている。その後1889年に落雷で焼失し、1896年に再建された。下の写真は祈念殿の天井見上げ。
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上の写真は、回音壁(壁に向かって話したり音をたてたりすると、100m近く離れた壁にいても聞こえるという、文字通り音が壁を回るという不思議な壁)と呼ばれる半円形の塀越しの皇穹宇。創建は明代の1530年で、清代の1752年に再建されて今の様式となる。もともと「皇天上帝」の神位を置く場所で、圜丘での祭事の時、壇の上に置かれる皇帝の位牌や神具等を収めておく所である。下の写真は皇穹宇の天井見上げ。
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頤和園
北京の中心部から北西に10kmほどの所にある頤和園は、元代以降風光明媚な地区として知られ、明代には富豪の庭園が築かれて西湖と呼ばれていた所。清の乾隆時代に湖を掘り、その土を東岸に積んで堤を築き、北部の山を万寿山、南の湖を昆明湖と改名し、かつて建てられていた圓静寺の跡に大報恩延寿寺を建て、そこに楼閣を造って清漪園(せいいえん)と名付けた。その後1860年、英仏連合軍が侵入した際、清漪園はその大部分を焼失したが、1888年(光緒14年)、慈禧皇太后(西太后)が8年の歳月を費やして再建し、頤和園と改名した。
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e0116578_1643927.jpg上の写真は昆明湖から眺めた万寿山(1981年)。昆明湖拡大のため掘り出された土で築かれた小山で、高さは約59m。中央に頤和園のシンボル的な建築である高さ41mの仏香閣を見る。

左の写真は、金水橋の先に排雲門、そして排雲殿(西太后が清国海軍の経費を流用して建設したとされている。)から仏香閣へとつづく建築群(1981年)。頤和園全体の主軸線を形成している。





下の写真は、仏香閣が建つ基壇上から昆明湖を見晴るかす(1984年)。
真下に排雲殿の屋根、排雲門、先に湖畔の鳥居型の門「雲輝玉宇」牌坊、そして昆明湖の中に十七孔橋で結ばれた南湖島を見る。
さらに下の写真は昆明湖畔に建つ雲輝玉宇牌坊(1981年)。
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e0116578_16544241.jpg左の写真は、万寿山西麓の湖岸に建つ石造りの舟形建築「清晏舫」。石舫とも呼ばれる石船部分は、乾隆帝時代の1755年の建築で、沈むことのない船を、絶対に覆らない王朝の象徴として造られたようである。1860年の英仏連合軍侵略時に上部の中国風艙楼(建物部分)が焼失してしまい、西太后が再建するとき西洋式に変えられたそうである。
艙楼部分は木造で、表面は大理石風模様の塗装が施されている。ちなみに現在は内部には入れないようである。

下の写真は、湖の北畔に沿って東西に延びる長さ728mの長廊。乾隆帝の母親のために雨の日でも湖の散策が楽しめるよう造ったものらしいが、英仏連合軍の侵入時に破壊され、後に西太后によって再建された。長廊の梁や桁には一万四千余りの絵色彩豊かに描かれている。文化大革命時には破壊する命令があったらしいが、当時の管理者が絵の上に白い粉を塗って難を逃れたという話もある。写真は、1977年の文革終結宣言が出されて間もない1981年のものである。
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by toshinac | 2019-05-21 17:04 | trip photos

北京1/80~90年代の中国

1978年の日中平和友好条約から3年後の1981年、広大な黄土高原に分布する地下住居“窰洞”(ヤオトン)集落調査の考察団として初めての北京入り。以来、窰洞考察団として7次に亘る訪中時に各地に足をのばし、北京に於ける生土建築学術会議(1985)と日中伝統民家・集落シンポジウム(1992)の他、3度の個人的な中国旅で撮りためた写真を見直してみた。
1999年以降の中国は実見してないが、メディアを通して知る限り大都市はどこも超高層ビルが建ち並び、高速鉄道網が敷かれ、ハイテク産業も世界を席巻する勢いで、名所旧跡を除けば隔世の感である。
GDP世界第2位の経済大国を僅か数十年で築いた中国はもはや「眠れる獅子」ではないが、目を覚ましつつあった80年~90年代の、中華人民共和国の都市や史跡や建築、そして美しい自然や特異な住居・集落の写真を集めてみた。

故宮(紫禁城)
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北京市の中心に位置する明・清時代の皇宮であった故宮は、数多くの宮殿や楼閣から成る世界最大級の木造建築群。南北961m、東西753m、敷地面積は約72万㎡で、周囲を高さ10m超の厚い城壁が囲み、さらに幅52mの堀がめぐり、その中に9000間以上の建物があり、その建築面積は約15万㎡にも及ぶ。
1925年に故宮博物院として一般公開され、1987年世界遺産に認定されている。
上の写真の上は、故宮の北にある景山(北海公園の湖と、紫禁城の堀を造った際に出た残土で造られた人工の山)から見た朝靄に霞む故宮(1982年冬)。上の写真の下は景山から真北方向を見る(1982年冬)。真っ直ぐのびる地安門外大街の先に鼓楼(創建は1272年で、現在のものは1539年に再建されたもの)を見る。天安門で始まり、景山で終わる紫禁城は、北京古城の南北中軸線上にあることがよく分かる。
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上の写真は大和門から見た大和殿(1981年夏)。
1406年に建築が開始され、1420年に完成の奉天殿(大和殿)は、幅95m、奥行48mという規模であったらしいが、その後数度に亘って焼失、再建が繰り返される。清代になって大和殿と改称され、1669年に大規模改修が行われたが、1679年、御膳房からの出火で大和殿も延焼し、1695年から1697年にかけて再建工事が行われ、この時に建物は幅64m、奥行37m、という現在の大きさになる。
下の写真は大和門から見た紫禁城の南門にあたる午門(1981年夏)。
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上の写真は九龍壁(1982年冬)。紫禁城の北東部にある寧寿宮にあり、中国3大九龍壁の一つで、長さ29.4m、高さ3.5mの瑠璃装飾の壁。1772年に製作されている。
下の写真は紫禁城内の西1長街(1982年冬)。映画「ラストエンペラー」の中で、皇帝溥儀が自転車に乗るシーンの撮影場所。さらに下の写真は1999年撮影の大和殿。
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by toshinac | 2019-05-01 17:46 | trip photos

ルクソール2/エジプト

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ルクソールのナイル川には橋は無く、ネクロポリスのある西岸にはフェリーで渡る(写真上)。川沿いの緑地帯の奥には荒涼たる砂漠と岩山が広がり、生命の存在を感じさせないような乾いた大地がいやが上にも死の無情感をつのらせる。
船着き場から車で数分のところに2体の巨大な座像が現れる(写真下)。メムノンの巨像と呼ばれるアメンヘプテ3世の像で、かつてはアメンヘプテ3世葬祭殿の入口に置かれていたが、葬祭殿は第19王朝最後の王によって破壊され、いまでは劣化が激しい高さ21mの2体の巨像が残るのみだが、背後の岩山に展開するネクロポリスの守護神のようにも見えてくる。
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ハトシェプスト女王葬祭殿
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古代エジプト史で確認される唯一の女王ハトシェプスト(第18王朝のトトメス1世の娘)が築いた葬祭殿で、新王国時代の王たちの墓が集中する王家の谷と山一つ隔てた窪地に建ち、隣に建つメントゥヘテプ2世の葬祭殿と合わせてデル・エル・バハリ(キリスト教普及の初期、この地に修道院があったことが起因か、アラビア語で北の修道院という意味)とも呼ばれている。
上の写真は、ハトシェプスト女王葬祭殿(右)とメントゥヘテプ2世葬祭殿(左)を南側から見る。当初メントゥヘテプ2世の神殿と同じ形式で計画されたらしいが、実現したものは3つのテラスを一軸線上に並べるというユニークな形式で、背後の荒涼たる岩山をも建築の一部に取込み、美しさと雄大さが簡潔に表現された古代エジプト建築の傑作。建築家は女王の娘の教育も任されたという寵臣センムトで、女王がカルナックに建てた2本のオベリスクの切り出しを指揮した人物だそうである。
下の図はデル・エル・バハリの平面図(西洋建築史図集:日本建築学会編より)。
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上の写真は第2テラスから眺めたハトシェプスト葬祭殿正面。
第1テラスから8mほどの高さにある第2テラスの奥には、列柱中庭を中心とする第3テラスがある。第2及び第3テラスの正面は柱廊となり、その中央に斜路が設けられている。下の写真は、東側の山裾から3つのテラスを眺める。1997年11月、イスラム過激派による外国人観光客襲撃事件が発生し、日本人を含む数十名が犠牲となっている。写真は同年春のものである。
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下の写真2葉は、デル・エル・バハリの山の裏側にある、王家の谷(古代エジプト新王国時代の王たちの墓が集中する谷間で、西の谷と東の谷に24の王墓と64の墓が発見されている)にあるラムセス3世の王墓内通路。長い歴史のなかで墓のほとんどは盗掘されているが、1922年に発見されたツタンカーメン(トゥトアンクアメン)王の墓が未盗掘で、副葬品が完全な形で発見され、その多くはカイロのエジプト考古学博物館で見ることができる。
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by toshinac | 2019-04-08 11:38 | trip photos

ルクソール1/エジプト

カイロから南下すること650km余り、ナイル川沿いにあるエジプト最大の古代遺跡がある街ルクソールは、元々テーベと呼ばれていたアメン信仰(この地方の大気の守護神・豊穣神)の聖地であった。
中王国時代(B.C.2040年頃~B.C.1786年頃)のメンチュホプテ2世が第11王朝を開いてテーベを都と定めたときから、古代エジプト最大の都市テーベの歴史の始まりとも言われている。B.C.1567年ごろ新王国の第18王朝が成立し上エジプトの首都となると、アメン神と古来の太陽神ラーが一体化したアメン・ラー信仰が急速な広がりを見せ、テーベはその中心として栄えていく。ナイル川東岸のカルナック神殿やルクソール神殿などの大神殿が建つ生ける者の都テーベに対し、王家の谷や王妃の谷などで知られるナイル川西岸は死せる者の都ネクロポリスとして明確に区分されていた。
400年にわたって栄えた古代オリエントの中心都市であったルクソールは、新王国時代(B.C.1567年頃~1085年頃)の栄耀栄華を今に伝えてくれている。

カルナック神殿
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古代エジプトのテーベに築かれたカルナック神殿は、新王国時代からプトレマイオス朝時代までの約1500年間に増改築を重ね拡張されてきた巨大な複合体。その中心はアメン神に捧げられたアメン大神殿で、北側に付属するメンチュ神殿、南側に建つムゥト神殿から成り立ち、これら全てを合わせると東西約500m南北1500mにも及び、現存する神殿では最大規模となる。
上の写真はアメン大神殿の第2塔門。右にラムセス2世像、左にパネジェムの巨像(元々ラムセス2世の像であったが、第21王朝のパネジェム1世が名前を書き換えた。)が建ち、大列柱室の先にトトメス1世のオベリスクを見る。
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e0116578_11114860.jpg上の写真は大神殿最大の見どころともいえる大列柱室。第19王朝の第2代ファラオであったテセィ1世によって装飾が始められ、その息子であるラムセス2世によって完成したとされ、幅102m、奥行53mの空間に134本の巨大な円柱が林立する様は壮観。開花型のパピルス柱頭を持つ中央の12本の柱(上の写真左)は高さ21mで、両側に林立する、未開花型のパピルス柱より高くなっている。

左の写真は、その段差の間に設けられた採光のための石のルーバー。列柱室全体に屋根があったときを想像すると、ルーバーから射し込む光は荘厳な空間を演出したに違いない。





下の写真は、第5塔門先の中王国時代の中庭から大列柱室方向を見返す。手前にハトシェプスト女王のオベリスク、奥にトトメス1世のオベリスクを見る。
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コンス神殿
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アメン大神殿の神域西側の隅に位置し、塔門、前庭、列柱室から至聖所へと続く平面は、小規模ながら新王国時代の神殿建築の典型とも言われている。上の写真は第2(?)塔門。下の写真は第2塔門を抜けた先の、開花前のパピルス型円柱に囲まれた小さな中庭。アメン大神殿からチョット離れているため比較的観光客も少なく、この時代の建築特有の威圧感ある空間とは違い、ヒューマンスケールの静謐な空間。
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ルクソール神殿
ナイル川沿いに建つルクソール神殿は、もともとカルナック神殿の中心を成すアメン大神殿の付属神殿として建てられたもの。第18王朝のアメンホプテ3世によって中心部分が建立され、以後、彼の子供でアメン信仰を復活させたツタンカーメン王、第18王朝最後のファラオであるホルエムヘブ(元軍人でツタンカーメン王の時代は将軍)、そして第19王朝の建築王として知られるラムセス2世により現在の姿が完成。当初カルナック神殿とは2.5kmに及スフィンクス参道で結ばれていたという。
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上の図は、全長およそ250mのルクソール神殿平面図と断面図(MONUMENTS OF EGYPT THE NAPOLEONIC EDITION PRINCETON ARCHITECTURAL PRESSより)。ナイル川に沿ってほぼ平行に配置されていた神殿は、中央の列柱廊から軸線を大きくずらし、2.5km先のアメン大神殿に一直線。
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e0116578_11294756.jpg上の写真は、スフィンクス参道から見たルクソール神殿第1塔門正面。塔門の前には1対のラムセス2世の坐像、その手前に高さ25mのオベリスクが立っている。
オベリスクは本来左右2本立っていたが、1本は1819年にフランスに贈られ、現在パリのコンコルド広場に立っている。

左の写真は、塔門入口からラムセス2世の中庭越しに列柱廊を望む。







下の写真は、アメンホプテ3世の中庭から列柱廊を見返す。列柱廊の開花型のパピルス柱に対し、この中庭を取巻くパピルス柱は未開花型となっている。

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by toshinac | 2019-03-23 11:36 | trip photos

ナイル沿いの3つの神殿/エジプト

アスワンからルクソールまでのナイル川流域には、古代エジプト文明後期の遺跡が点在する。
なかでも、鰐の神と隼の神を祀るコム・オンボ神殿、隼の神を祀るエドフのホルス神殿、羊頭の創造神クヌムを祀るエスナのクヌム神殿、これらの遺跡は比較的保存状態も良く、古代人からのメッセージでもあるレリーフのほか、この時代特有な装飾も見られることから、アスワン~ルクソール間のナイル川クルーズの目的地にもなっている。

コム・オンボ神殿
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e0116578_9553534.jpgアスワンの北約50kmのナイル川沿いに位置するコム・オンボの町は、元々はヌブトと呼ばれ、ナイル川を利用したヌビアからの通商路で、古代ギリシア人がオンボスと呼んだことが町の名の由来だそうである。プトレマイオス朝の時代(B.C.332~32年)に建設された、ナイル川を見下ろす丘の上に建つコム・オンボ神殿が唯一の見どころ。
第18王朝の至聖所跡に建てられたこの神殿は2組の神々(鰐の神と隼の神)に捧げられたもので、出入口や至聖所など主要な部分は全て2組で構成されていることが最大の特徴。

上の写真は修復工事中のコム・オンボ神殿第1列柱室を見る。中央の柱を主軸として完全な左右対称で配置されている。

左の写真は、第2列柱室から至聖所に至る3つの前室入口を通して見たもので、その先にある至聖所は残念ながら祭壇と僅かな壁が残るのみ。

下の写真は神殿内部に残る壁。大きく破損しているものの、技術的にも高度なレリーフが美しい。
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エドフのホルス神殿
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e0116578_10142186.jpgコム・オンボから北に約60km、アスワンとルクソールのほぼ中間に位置するエドフは、古代ギリシア・ローマの時代に上エジプトの州都として栄えた町。隼の頭持つ太陽神ホルスを祀るホルス神殿がナイル西岸の町の中央に建っている。B.C.237年プトレマイオス3世によって建築が開始されるが、以後歴代の王へと工事が引き継がれ、B.C57年に完成したエドフのホルス神殿は、エジプトで最も保存状態の良い神殿の一つとなっている。1860年にフランスの考古学会が発掘するまで、この神殿は土の下に埋まっていた。その後修復が重ねられて神殿全体が甦り、当時の姿を見せている。上の写真はホルス神殿塔門。幅137m、高さ36mの塔門は、カルナックのアメン大神殿の塔門に次ぐエジプト第2の大きさである。

左の写真上はレリーフが刻まれた柱が立ち並ぶ列柱室。左の写真下はレリーフが刻まれている周壁。
下の写真は、塔門を抜けた先に見る第1列柱室。奥に第2列柱室、前室、至聖所へと続く。
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エスナのクヌム神殿
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e0116578_10191296.jpgエドフの北西約50km、ルクソールから南に58kmにあるエスナの町には、プトレマイオス朝の時代に建てられたクヌム神(牡羊の頭を持つナイル川第1急湍の神)を祀る神殿がある。
ナイル川西岸200mほどの街中に建つ神殿は列柱室のみが現存する。高さ13.3mの柱が24本、かつての彩色を僅かに残した蓮の葉型の柱頭は、エドフのホルス神殿列柱室と同様に、柱ごとにその形状が微妙に異なっている。
上の写真は列柱室正面。

左の写真は列柱室内部。壁、柱すべてにレリーフが施されている。



下の写真は、周囲の地面から9mも低いところにある神殿の前庭からの見上げ。2000年間の地表面の変化を目の当たりにすると、かつて毎年のように氾濫を繰り返したと言われる“暴れ川ナイル”の話も合点がゆく。
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by toshinac | 2019-03-01 09:00 | trip photos

アブ・シンベル神殿/エジプト

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世界遺産の象徴的な遺跡であるアブ・シンベル神殿は、アスワンの南約280km、スーダンとの国境に近いエジプト最南端の観光地、アブ・シンベルに建つ古代エジプトの岩窟神殿。アスワン・ハイ・ダムの建設に際し水没の危機にあったが、ユネスコによる国際的な救済活動が行われ、1964年から1968年にかけて、元の位置から約60m上方にコンクリート製ドームの人工的な丘を造り、そこに神殿を正確に分割して移築復元したのである。この大規模な移築工事がきっかけとなり、「人類共通の遺産」の保護という基本理念の考えを基に、1972年のユネスコ会議に於いて世界遺産条約が定められた。
ナイル川西岸の砂岩の岩山を穿って造られたオリジナルは、第19王朝のラムセス2世(在位:B.C.1303~1237)によってB.C.1300年頃に造営されている。「建築王」と呼ばれたラムセス2世が残した建造物は、アメン神殿(カルナック)の大列柱室やルクソール神殿の塔門など、エジプト各地で目にするが、壮麗さではアブ・シンベル神殿が群を抜いている。太陽神ラーを祭神とする大神殿と、ハトホル女神を祭神とする大小二つの神殿からなり、大神殿は幅38m、高さ33m、奥行63mで、正面に高さ20mにも及ぶラムセス2世の坐像が刻まれている。大神殿北側の小神殿は、ラムセス2世最愛の妻ネフェルタリのために造営したもので、規模はさほど大きくはないが、正面に王と王妃の立像が6体刻まれている。
上の写真はナセル湖の畔から眺めた大神殿。
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上の写真は大神殿正面。
向かって左から2番目のラムセス2世像は、神殿完成の数年後に起きた地震で崩れ、頭部の一部が前面に転がった状態のまま。4体のラムセス2世像の足元に立つ小像は家族の像だそうである。
下の写真は大神殿の入口を入ったところの大列柱室。オシリス神(古代エジプト神話の冥界の王)の姿をしたラムセス2世の像8体が柱となり、天井には星が描かれ、壁には戦闘場面のレリーフ刻まれている。
さらに下の写真は、入口から50mほどの最も奥にある至聖所。3体の神と共に神格化されたラムセス2世像(右から2番目)が坐す。
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上の写真は小神殿。中央入口両脇にラムセス2世像、その両側の愛妻ネフェルタリの像を挟むかたちでラムセス2世像が刻まれている。ネフェルタリ像の足元には、小さな王と王女が配されている。
下の写真は小神殿内部。愛と美の女神ハトフルの顔が彫られた柱が支える小さ目な列柱室。さらに下の写真は、小神殿前の広場から大神殿方向を望む。
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by toshinac | 2019-02-12 17:56 | trip photos