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カテゴリ:trip photos( 155 )

アテネ古代遺跡2/ギリシア

ゼウス・オリンピウス神殿
アテネの中心部にある古代ローマ時代の遺跡で、ギリシア神話の最高神ゼウスを祭る神殿の跡。B.C.6世紀にアテネの僭主(せんしゅ:非合法手段で政権を握った独裁者)ペイシストラトスが建造を始めるが工事は途中で中止され、跡を継いだ息子らによりB.C.520年頃より建設が再開される。
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e0116578_1123951.jpgしかしB.C.510年に息子ヒッピアスが追放されたことでまたもや中断、基礎部分と僅かに完成していた円柱を残したまま336年間も放置されていた。
その後B.C.174年、セレウコス朝(B.C.312~B.C.63年:アレクサンドロス大王の後継者の一人が、オリエント地方に築いた王国。)のアンティオコス4世によって建設が再開されるも、10年後にアンティオコス4世が死去したことにより建設はまたまた中断する。
当時はすでに共和政ローマの支配下にあったアテナイで、ルキウス・コルネリウス・スッラ(B.C.138~B.C.78年:共和政ローマ期の軍人・政治家)が放置されていたゼウス神殿の柱をローマに持ち帰ったことで、神殿は大きく破壊されたという。
古代の世界で最大とされる神殿は、初代ローマ皇帝アウグストゥスの統治時代に建設再開となるが、完成は14代ローマ皇帝ハドリアヌスによって132年に完成。じつに建設開始から638年を経過したことになる。
しかしながら5世紀~6世紀にかけて、キリスト教以外の神を祀った神殿を否定する東ローマ帝国により神殿は破壊され、石材はキリスト教の聖堂建設に利用されたということである。


スタディオン
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上の写真はアテネのスタディオン。1869年~70年発掘され、1895年に再建されて、1896年の第1回近代オリンピック競技の会場になったことで有名。古代アテネの最も重要な祭典“パンアテナイア”(全アテナイの祭りという意味で、B.C.6世紀中頃に僭主ペイシストラトスによって整備され、女神アテナの名誉を守って4年ごとに催された宗教的な運動の祭典。)のために、2つの丘の谷間に自然の傾斜を生かして造られた競技場である。競技場を馬蹄形に取り巻く大理石の階段状の観覧席は、B.C.330年頃に建設が始められたとも言われているが、完成したのはA.D.143年、オデオンの音楽堂を建設したヘロディス・アッティコスの尽力によるとされている。
その後4世紀の後半に入ると、ローマ帝国のテオドシウス1世(在位379年~395年:東西に分裂していたローマ帝国を再統一し、一人で支配した最後の皇帝。)によって、パンアテナイアは禁止され、競技場は徐々に荒廃し、やがて小麦の畑に覆われたという。1836年の考古学的発掘で競技場の痕跡が発見され、1869年~70年にドイツ生まれの建築家エルンスト・ジラー(1837~1923:後にギリシア国民となり、20世紀初頭には、ギリシア国内で王室と市町村の公共建築を数多く手掛ける。)によって徹底的に発掘された。下の写真はGoogle Earthでみたスタディオン。
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ポセイドン神殿
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アテネの南南東約70km、アッティカ半島の東南端にあるスニオン岬に建つポセイドン神殿は、ギリシア神話の海の神ポセイドンを祀るドリス式の神殿である。B.C.444~440年ごろ、ペリクレス(B.C.495頃~B.C.429年:古代ギリシア、アテナイの軍人で政治家。現存のパルテノン神殿の再建など、文化面でも大きな役割を遺す。)によって、以前にあったとされる神殿跡に建てられた。
正面6柱、側面13柱の周柱式神殿は、A.D.1世紀頃にはこの聖域が放棄されたらしく、その後神殿は荒廃し、いまでは白亜の列柱を残すのみ。イタリアのローマ遺跡パエストゥムにある、ポセイドン神殿の完全な姿と迫力には及ばないが、エーゲ海の夕日に映える神殿の美しさが旅愁を誘い、アテネから離れているにもかかわらず多くの観光客が訪れる。
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by toshinac | 2018-06-18 12:00 | trip photos

アテネ古代遺跡1/ギリシア

ディオニソス劇場
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アクロポリスの東南斜面を利用して造られた野外劇場で、ギリシア神話に登場する豊穣と葡萄酒と酩酊の神“ディオニソス”の聖域の一部となっていた。ギリシア最古の劇場でB.C.6世紀頃の創建とされているが、ローマ時代のB.C.4世紀に改築され、第5代のローマ皇帝ネロが紀元61年に修理をさせたという記録が残るのみだそうである。オルケストラ床の敷石を菱型にかたどり、今は無い舞台の前面を飾る彫刻像など、現在にみる劇場の姿はローマ時代のものである。ちなみに収容人数は15,000~18,000人ほどらしい。

オデオンの音楽堂(へロディス・アッティコス音楽堂)
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ローマ時代の161年頃、アクロポリスの南西斜面に造られた音楽堂。
列柱廊によってディオニソス劇場と結ばれていた。ローマの元老院議員であったギリシア人貴族のヘロディス・アッティコスによって建設された施設で、劇場正面の列柱廊には木造の屋根が架けられていたという。主に音楽の演奏会に用いられ、約6,000人の収容が可能とされている。
客席と舞台部分の改修が行われた現在、演劇やコンサート等の催物に利用されている。

アゴラ
アゴラとは、古代ギリシアの都市国家において、軍事的・精神的な中心であるアクロポリスに対して、周囲に様々な公共施設が配置された広場・市場であり、市民生活の中心となる場所を指す。アテネのアゴラは(B.C.6~2世紀)アクロポリスの北西に位置し、約200m四方の広場の周囲に、ストアと呼ばれる列柱廊をはじめ、神殿および行政・商業等の諸施設が整備されていた。市民の交流の場であった広場では、買い物の傍ら男達(古代ギリシアでは買い物は男性の役目とか)が、政治や芸術を論じたり、熱弁を振るう哲学者の思想にふれるなど、情報交流の場でもあったという。かのソクラテスやプラトンも、この場で熱弁を振るっていたと言われている。
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上の写真はアゴラの西の丘に建つヘファイストス神殿。B.C.449年に着工され、B.C.415年頃の完成とされ、前面6柱、側面13柱の大理石の柱が屋根を支えるドリス式の神殿は、ギリシア神話の火と鍛冶の神ヘファイストスを祭る。アテナイ(アテネの古名)の王テセウス(ギリシア神話に登場する伝説的な王で、国民的な英雄)のレリーフが多数施されていることから、テセウスの神殿“テセイオン”と呼ばれていた時期もある。また7世紀から19世紀まで、ギリシア正教のゲオルギウス聖堂として用いられたことで、最も破損が少ない古代ギリシア神殿として現存する。
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上の写真は、1952~1956年にかけて忠実に復元されたとされるヘレニズム時代の“アッタロスのストア” で、アテネのアゴラ東端部に建つ。B.C.150年頃、ペルガモン王国(現在のトルコのペルガモを都とした王国)の王アッタロス2世(在位B.C.159~138年)から寄贈されたもので、2階建て列柱廊の長さは111.96m、奥行19.52mで、かつては柱廊の両端に2階に上がる階段が設けられていた。両階とも前面に2列の柱廊、奥に21の部屋があり、当時は商店として使われていたという。
現在、アッタロスのストアは古代アゴラ博物館となっており、これらの部屋には当時の資料が展示されている。ストアの手前に見るビザンチン様式の建物は、11世紀頃建てられた聖使徒聖堂。
下の写真は、アテネ市内で一番標高が高いリカヴィトスの丘を背景に見たアッタロスのストア。
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by toshinac | 2018-06-10 09:23 | trip photos

アテネのアクロポリス/ギリシア

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アクロポリスとは、古代ギリシアのポリス(都市国家)の高所に造られた聖域で、域内には都市の守護神を祭る神殿や公共建築物が設置され、市政の重要な祭儀が執り行われたり、非常時の比護所となったりもした、“古代ギリシアの都市国家における宗教的・精神的な中心地”。ギリシア国内に幾つか残るアクロポリスの中でもアテネのアクロポリスは代表格。
上の写真はフィロパポスの丘より眺めたアテネのアクロポリス全景で、手前にローマ時代に造られたオデオンの音楽堂遺跡を見る。海抜150m、東西270m、南北156mの石灰岩の台地上に、パルテノン神殿をはじめ、ペリクレス(B.C.495?~429:古代ギリシア、アテネの政治家で、アテネの民主政治と帝国が最高の発展を見た時期の指導者。)の執政時期(B.C.444~429)を中心としたアテネの黄金時代に、ギリシア建築の傑作が建てられた。

パルテノン神殿
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上の写真はパルテノン神殿全景(B.C.447~432)。守護神アテナを祭る神殿はアクロポリスの中心にあり、正面8柱、側面17柱の周柱式神殿。基壇とエンタブラチュア(柱頭上部の水平に構築される部分で、モールディングや帯状装飾で飾られる。)にはむくりがつけられ、柱もごく僅かなエンタシス(膨らみ)をもっており、元来垂直であるはずの柱や壁も内側に傾斜し、隅の柱は対角線方向に傾けるなど、視覚上の補正が施された比例美はギリシア建築の極みといえる。

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左の写真は、ドーリア式オーダーのエンタブラチュア部分。古代建築の重要な要素であるエンタブラチュアは、一般的にはアーキトレーブ(各円柱間や円柱と壁との間に渡された直上部分)、フリーズ(アーキトレーブの上にあり、装飾が有る場合と無い場合がある帯状の部分)、コーニス(エンタブラチュアの最上部に置かれる部材で、破風の下に張り出した部分)、の3部分から成り、かつては色鮮やかな彩色が施されていた。







下の写真は正面。古代ギリシアとローマの古典的神殿建築の、対称性や奥行、その価値観に基づく設計から派生したヨーロッパの建築様式、いわゆるパラディアン様式の根源ともいえるパルテノン神殿。
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プロピライア
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上の写真は、アクロポリスの入口である西側の急斜面を上りきる所に造られた門“プロピライア”(B.C437~433:ラテン語とギリシア語から「前門としての建物」と言う意味)を見上げる。東西両面にドリス式の6本柱の門屋と、南北に張り出す翼屋から成り、北翼屋はピナコテカ(絵画館)と呼ばれている。また門屋の中央通路の両側には3本のイオニア式の柱が配されていることから、ドーリア式と、イオニア式の折衷的な効果が特徴となっている。
下の写真は、アクロポリスの入口を北西側から仰ぎ見る。手前にピナコテカ、入口階段を挟んで南翼屋とアテナ・ニケ神殿を見る。
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アテナ・ニケ神殿
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上の写真は、アクロポリス入口右手(南西)の稜堡上に建つアテナ・ニケの小神殿。B.C.6世紀に建設されたアテナ神殿が、B.C.480年にアケメネス朝ペルシャに破壊されたため、その廃墟の上にB.C.427年~424年頃に建設されたもの。だが神殿は1687年には取り壊されて砲台の部材にされていたのを、1835年に再発見され、1935年~1940に元の位置に再建された。基壇の前後それぞれに4本のイオニア式の柱が立ち、フリーズには神々の中央に座すアテナとアテネの戦士たちが刻まれている。しかしペディメントは失われたままである。

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by toshinac | 2018-06-01 01:00 | trip photos

マテーラ

“洞窟都市”として知られるマテーラは、プーリア州の西に接するバジリカータ州(イタリア半島を長靴に例えればちょうど土踏まずにあたる)にあり、イオニア海から70kmほど内陸に位置する世界遺産の町。
その起源は新石器時代に遡り、マテーラの大地に深く刻まれた巨大なグラヴィーナ渓谷の東向き斜面に始まる。軟らかな凝灰岩の地質は自然の浸食を受けやすく、渓谷の斜面には自然の洞窟が点在していたことから、人々はその洞窟に自然と住み着いた。時代が下った8世紀頃からは、イスラム勢力を逃れたギリシャからの修道僧が大挙して移り住み、自然の洞窟だけでなく、斜面を削った崖に横穴を規則的に掘り、入口や窓を設けた修道院や住居を崖の各層に構えていったという。その後15、16世紀頃までには石造りの地上の住居も加わり、現在に見られるセットバックしながら重なる高密度集落の景観を呈していったようである。
このような洞窟住居群をマテーラではサッシ(石や岩を意味するサッソの複数形)と呼び、渓谷の中央部に突き出た高台のチヴィタ地区南側に展開するサッソ・カヴェオーゾ地区と、北側のサッソ・バリサーノ地区という二つのサッシがある。
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上の写真は、グラヴィーナ渓谷の対岸から眺めたサッソ・カヴェオーゾ地区。二つのサッシの間にあるチヴィタ地区に建つドゥオモの鐘楼が、“洞窟都市”マテーラの景観をひときわ際立てる。
下の写真は、ドゥオモを中心とした高台のチヴィタ地区を望む。斜面には、洞窟の前面に壁や部屋を設けた混成型の住居と、完全に地上建てた石造りの住居が段状に混在し、すべてが同一の素材で構築されていることは、あたかも岩山を掘り刻んで造られた都市ではと想わせる景観である。
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e0116578_9271720.jpg上の写真は、サッソ・カヴェオーゾ地区の南のゾーンで、渓谷の下の方には自然の洞窟が点在し、その上には崖面を造ってそこに開口を設けただけの洞窟住居がならび、その上層には穴の前面に切石を積んで増築した住居が見られ、さらに一番上の地上には複数階の住棟群が建ち並ぶという、洞窟住居の生い立ちからその発展の軌跡を目の当たりにできる地区である。

左の写真は、チヴィタ地区の北側の渓谷に展開するもう一つのサッシ、サッソ・バリサーノ地区。




下の写真は、サッソ・カヴェオーゾの南ゾーンからチヴィタ地区を眺める。近代化から取り残され、住民不在による荒廃が進んだサッシの古い地区は、1993年の世界遺産登録以降、“洞窟都市マテーラ”として、現代の都市生活にも適合した再生を目指している。
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by toshinac | 2018-05-05 09:31 | trip photos

ロコロトンド

プーリア州バーリ県のコムーネの一つであるロコロトンドは、州中部の「ムルジェ地方」と呼ばれる丘陵地域の南東部「ムルジェ・ディ・トゥルッリ」の高台にある都市で、町の南側には、「イトリアの谷」と呼ばれる葡萄畑やオリーブ畑が続くのどかな農村風景が広がり、地域名「ムルジェ・ディ・トゥルッリ」が示すとおりトゥルッリの農家が多く点在する。
その美しい谷を見晴らすことができるロコロトンドのチェントロ・ストリコ(歴史的街区)は、「クルメルセ」と呼ばれる急勾配の切妻屋根の建物が連なり、それが円形の輪郭を形成して市壁を兼ねるというめずらしい“円形都市”。古代ローマの殉教者サン・ジョルジョを祀った教会の周りに生まれた村落で、「カサーレ・サン・ジョルジョ」と呼ばれていたそうだが、12世紀の前半には円形状の集落が形成されて、「カサーレ・ロトンド」、後に「ルオーゴ・ロトンド」と呼ばれ、1834年に現在のロコロトンド(ロコ=場所・ロトンド=丸い)と呼ばれるようになったと言われている。ただ、これほどきれいな円形の都市がなぜできたのか、その形成過程は定かではない。
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上の写真はロコロトンドの凧写真。現在ならばGoogle Earthやドローンで容易に俯瞰することが可能だが、当時(1988年)は凧にカメラを付けての風まかせ写真。現像するまでどのように映っているかも分からないという、そんな時代の写真である。
街のほぼ中央に建つ教会は、1825年完成のマドーレ・サン・ジョルジョ教会。もともとこの場所には、1195年に建てられたサン・ジョルジョ教会と、16世紀に建てられたマドーレ教会という2つの教会があったことから、その跡地に建てられたことで2つの教会名を合わせた名称になっている。下の写真は、イトリアの谷にそびえる丘上のチェントロ・ストリコを円形状に縁取る住宅「クルメルセ」。
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上の写真は円形状の外周を廻っていて見つけた目と眉毛を持つクルメルセ。
下の写真はロコロトンドの街区内部。ムルジェ地方の他の小都市同様に、連続する家屋の白壁と迷路のような路地、そこに取付く階段や路地を跨ぐバットレスなど、歩みとともに移り変わる街路空間のシークエンスに胸躍る。さらに下の写真はロコロトンド近くのイトリアの谷で見かけたトゥリッリの農家。
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下の写真はGoogle Earthで見たロコロトンドのチェントロ・ストリコ。円形状の輪郭の中に、マドーレ・サン・ジョルジョ教会を中心に切妻屋根のクルメルセが密集する。
俯瞰写真は、いまではドローンによる撮影がもっとも効果的と思えるが、現地で凧を組み立てて、風を読みながら撮影範囲を想定してシャッターをきる凧写真は、そのときの撮影行動も含めて鮮明に甦るので、それなりに貴重な写真となっている。
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by toshinac | 2018-04-16 10:17 | trip photos

アルベロベッロ

しばしば長靴の形で例えられるイタリア半島の、踵の部分にあたるプーリア州の小さなコムーネ(基礎自治体)の一つアルベロベッロは、白壁に石積のとんがり屋根という、この地方の伝統的な家屋であるトゥルッリ民家の集落で知られる世界遺産の小さな町。
アルベロベッロのあるムルジェ地方は、肥沃な表土のすぐ下に石灰岩の層があることから、良好な石材を容易に得ることができ、それを積上げて壁を造り、ドーム状の屋根を架けた建築が古くから造られてきた。その発展した形ともいえる円錐形ドームを持つトゥルッリは、素朴な農家の孤立した形式が本来の姿だが、それが集まって町のような景観を見せるのがアルベロベッロである。
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e0116578_9241178.jpgイタリア建築史の研究者によれば、現在のアルベロベッロは、15世紀・16世紀頃には分散していたトゥルッリの小集落が、17世紀・18世紀の発展に伴って拡大し、結果トゥルッリの大集合体が形成されたという。「アルベロベッロのトゥルッリ」として世界遺産に登録されている地域は、町の東部高台のアイア・ピッコラ地区と、横長の谷状の底にあるジュゼッペ・マルテロッタ広場から、南に展開する北向き斜面のモンティ地区である。ユネスコによればアイア・ピッコラ地区には1030軒、モンティ地区には590軒のトゥルッリが現存しているそうである。
上の写真は、モンティ地区のトゥルッリ集落を、対面する高台からマルテロッタ広場越しに見晴るかす。

左の写真はマルテッロ広場から上る通りの昼下がり。坂の両側の民家の多くが土産物屋を営んでいるが、果樹園等の農業に従事している家も少なくないようである。
下の写真はモンティ地区の別の通り。緩やかな弧を描く坂道の両側に、壁を共有しながら整然と連なるトゥルッリの民家。
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下の写真2葉はアイア・ピッコラ地区のトゥルッリの町並み。
モンティ地区に比べ少し古い地区だけに、さまざまな形のトゥルッリが不規則に連なるが、不思議と統一感のとれた美しい町並みが形成され、土産物屋が多いモンティ地区と違い観光客の数も少なく、落ち着いたたたずまいを見せている。
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下の写真はアイア・ピッコラ地区にあるトゥルッロ・ソヴラーノ。主権者のトゥルッロ(トゥルッリの単数形)と呼ばれているだけに、一般のトゥルッリに比べると規模も大きく、石積にモルタルを使用するなど、建築の技術にも変化が見られ、トゥルッリでは殆んど見られない2階のある造りとなっている。最も古い部分は17世紀初頭のもので、18世紀に拡張し現在の形が造られ、その後領主の館や地元司祭のための施設など、様々な役割をはたしてきたという。現在はトゥルッリ博物館になっている。
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上の写真は、プーリア州ムルジェ地方の通称オリーブ街道沿いに点在するトゥルッリ。左上はアルベロベッロと見紛うばかりのオストゥーニ近くのトゥルッリの集落。左下は、同じオストゥーニ近くで見たオリーブの木に囲まれたトゥルッリだが、石積みの壁に石灰が塗られていないことからか、素朴でいかにも農家という印象を受けたトゥルッリ。右上下は、州都バーリの北西約30kmの小さな港町モルフェッタから、さらに北西約20kmの港町トラーニに向かう途中のオリーブ畑の中に見た珍しい渦巻き状のトゥルッロ。壁から屋根に連続して石を積上げて空間を獲得するこのトゥルッロは、いまは農機具の置場や倉庫として使用されているようだが、元来トゥルッロは農夫が休憩したり、農繁期に宿泊したりする場所だったことを考えると、これはトゥルッリの祖形ではと思えてくる。
下の写真は折り紙建築のシフトカード「アルベロベッロ」。1枚の紙で作られており、折り重なった上下を摘まんで横に移動させると奥行感のあるカードとなることから、シフトカードと呼んでいる。(作:中沢圭子)
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by toshinac | 2018-03-28 09:46 | trip photos

ヒヴァ (2)/ウズベキスタン

クフナ・アルク
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上の写真はクフナ・アルクの城門前広場。
イチャン・カラ(内城)の西門北側の一角にあるクフナ・アルク(古い宮殿)は、鋸歯状の高い土壁によって囲まれた17世紀のハーンの居城。中にはハーンの公邸をはじめ、モスクやハーレム、兵器庫や火薬工場、それに造幣所などもあったという要塞。城壁の最上部にあるアク・シェイフ・ババの見張り台は、イチャン・カラを一望できるベストポジションとなっている。
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e0116578_1620658.jpg上の写真はクフナ・アルク内のスナップショット。
左上は城壁。
右上は造幣所の中庭にある夏のモスク。アッラクリ・ハーン(アッラーフ・クリ・バハドゥール:在位1825~1842)の命により1838年に建設。
上の写真左下はハーンの接見の間であるクリヌッシュ・ハナのアイワン。17世紀に建てられたが、1740年のペルシャによる攻撃で破壊されてしまい、現在見るアイワンは19世紀の初めに再建されたもの。
右下は同じ中庭を囲むロッジア風の建物。2階のアイワンの屋根奥にアク・シェイブ・ババの見張り台を見る。
左の写真は、城壁最上部にある、14世紀の建造とされるアク・シェイブ・ババの見張り台。緻密な彫刻が施された風化した木柱が時の流れを想わせる。
下の写真はクフナ・アルクの城壁上から眺めたイチャン・カラ。
クフナ・アルクの城門越しに、ムハンマド・ラヒム・ハーン・マドラサやジュマ・モスクのミナレット、右奥にイスラム・フッジャのミナレットを望む。
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ムハンマド・アミン・ハーン・マドラサとカルタ・ミナル
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西門を入ってすぐ右にあるムハンマド・アミン・ハーン(在位:1846~1855)のマドラサは、1852年の完成。中央アジアで最も大きな規模の神学校で、イスラムの最高裁判所の事務局も置かれた処。1977年よりホテルとして利用されている。

e0116578_16263779.jpgムハンマド・アミン・ハーン・マドラサに沿って建つカルタ・ミナルは、1852年に着工されるが、アミン・ハーンがペルシャとの戦いで亡くなったことで工事が中断され、“未完のミナレット”として現在に至っている。中央アジア一の高さを目指したという規模の大きさと、青の彩釉タイルで覆われた美しさから、イチャン・カラのシンボルとなっている。
上の写真は、クフナ・アルクの城壁上から見たムハンマド・アミン・ハーン・マドラサとカルタ・ミナル。奥にイスラム・フッジャのミナレットを望む。

左の写真は、マドラサとカルタ・ミナルに架けられたブリッジ。


下の写真は、朝日を浴びるカルタ・ミナルと観光用の駱駝。手前のドームはラヒム・ハーン・マドラサの施設であったが、現在は “Bir Gunbaz Tea House”というカフェになっている。右奥にアク・シェイブ・ババの見張り台が見える。
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タシュ・ハウリ宮殿
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ハーンの公邸であるクフナ・アルクに対し、ハーンの私邸であるタシュ・ハウリ宮殿は、1830年から1838年にかけてアッラクリ・ハーンによって建てられた。163の部屋と3つの大きな中庭、5つの小さな中庭からなる邸宅で、建物配置としては簡素な構成の建築だが、広い壁面を利用した彩釉タイルの装飾や、木柱の複雑な彫刻の美しさが高く評価されている。
上の写真はハーレムのある北側の中庭。北向きのアイワンが5つ連続する棟には4人の正妻が住み、中庭を囲む2階建ての小さなアイワンのある部屋はハーレムの女性達の部屋で、ハーンは中庭に建てたユルタに居ることを好んだそうである。下の写真は、アイワンの壁と天井を彩るタイル装飾と木柱。
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ジュマ・モスク
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中央アジアでも有名な多柱式建築として知られるジュマ・モスクは、10世紀頃の創建以来、幾度かの修復工事を重ね、現在の形になったのは1788年から1789年にかけてのことだそうである。
広さ約55m×46m、何の装飾もない焼成煉瓦の分厚い壁に囲まれた陸屋根の建築で、窓もなく、明かりは天井に設けられた2ケ所の開口部、いわゆる“光の井戸”のみ。暗いモスク内には陸屋根を支える212本の木柱が約3mの間隔で林立し、光の井戸から差込む明かりが神秘的な空間を創出する。彫刻が施された木柱は同じデザインのものは無く、古いものでは10世紀~11世紀のものもあるという。
クフナ・アルクやタシュ・ハウリ宮殿のアイワンでも見られるように、緻密な彫刻が施されたヒヴァに見る木柱は、辣韮(らっきょう)のような形状をした根元部分に特徴があり、独立した基礎との間に、鉄パイプ状の接合部材を設けている。それは接地面の腐食防止ということだけでなく、もともと遊牧の民であった彼らの建築空間である“天幕”を支える柱が様式化されたものではと、岡野忠幸氏は自著「シルクロード建築考」で述べている。確かに細く絞られた根本をみると、組立解体に容易な天幕の柱が象徴化されているのかな?と想像できなくもない。

パフラヴァン・マフムド廟
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ジュマ・モスクの真裏に位置するパフラヴァン・マフムド廟は、1664年に創建、1810年に現在の煉瓦造りに改築され、ドーム屋根の完成は1835年だそうである。ヒヴァの守護者として尊敬されていたパフラヴァン・マフムド(1247~1326)の墓を中心に、ムハンマド・ラヒム・ハーン(在位:1807~1826)やその親族などの墓もある合同の廟となっている。
偉人の傍に葬られると天国に行けるという俗信か、廟の周囲には多くの墓が造られている。

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by toshinac | 2018-03-01 01:00 | trip photos

ヒヴァ (1)/ウズベキスタン

首都タシュケントの西約750km、ホラズム州の州都ウルゲンチの南西30kmに位置するヒヴァは、古代ペルシャ時代からカラコム沙漠への出入口として栄えたオアシス都市。
その起源は考古学的には1世紀頃に遡ると考えられている。年間300日は雲一つないという「太陽の国」ホラズム(中央アジア西部に位置する歴史的な地域)の古都ヒヴァの名が初めて現れたのは、10世紀に書かれたアラビア語の地理書の中だそうである。13世紀のチンギス・ハーンによる攻撃や、14世紀のティムールによる支配で破壊、荒廃したホラズムを再興したのは16世紀初めに南下したウズベク族で、ブハラ、コーカンドとならんで、3ハーン国の一つとされるヒヴァ・ハーン国が建設されたのは1512年。
1643年にヒヴァ・ハーン国の首都がウルゲンチからヒヴァに移されると、街はホラズムの政治、経済、宗教の中心地としてその地位を確立する。街には二重の城壁が巡らされ、外側の城壁に囲まれたデシャン・カラ(外城)と、内側の城壁で囲まれたイチャン・カラ(内城)に分かれている。1740年、ペルシャのナーディル・シャーによる攻撃で街は破壊され、イチャン・カラも廃墟と化したが、18世紀から19世紀にかけてほぼ完全に再建されている。1873年にはロシア軍に占領されて帝国の属国となるが、ハーンの住居やイスラムの信仰施設の建設はつづけられていた。
ロシア革命(1917年)後の1924年にウズベク・ソビエト社会主義共和国が成立すると、ヒヴァはウズベクに区画され、1938年にホラズム州に編入された。

イチャン・カラ
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イスラム教の聖都ヒヴァのイチャン・カラには、20のモスクと20のマドラサ、6基のミナレットなど、多くの遺跡が残されており、1969年には“博物館都市”に指定され、1990年には世界文化遺産に登録されている。上の写真は、東西約450m、南北約650mのイチャン・カラを囲む城壁の一部。ヒヴァには城壁に死者を埋葬する旧習があったことから、城壁の基部にはイスラム独特の形をした墓が連なるように造られている。
下の写真はイチャン・カラの東西南北にある城門の一つで、南にあるタシュ・ダルワザ門。過酷なカラクム沙漠への出入口である。
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上の写真は観光客の入口となる西門(アタ・ダルワザ)を抜け、最初に目にするイチャン・カラのシンボル、未完の塔“カルタ・ミナル”を逆光の中に見る。左側の壁は古い宮殿を意味するクフナ・アルクの城壁。あえて逆光補正をしなかった結果の写真で、シルエットのみの景観となった。

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e0116578_14628.jpg上の写真は西門近くの城壁上からの眺め。城壁の右側がイチャン・カラで、1983年に大規模な改修工事が行われ、歴史記念物地区の建物は保存・改修され、老朽化が進んだ一部の建物は取り壊され、居住区の古い家屋は撤去と建替えが行われたという。


左の写真は、イチャン・カラの中心部からタシュ・ダルワザ門(南門)に通じる通り。イスラムの中世都市景観を彷彿させてくれる。
イチャン・カラのランドマークともいえる、高さ45mのイスラム・ホッジャ・マドラサ(1910年)のミナレットを正面に見る。


下の写真は東側のバルヴァン・ダルワザ門(1835年)。門の外側には、ロシアの支配下(1873年)に入るまで奴隷市場があったことから別名「奴隷の門」とも言われた。
当時奴隷の数は3万人を超え、ロシア人の奴隷も3000人を数えたとされ、強靭なロシア人奴隷はラクダ4頭で売られたという説がある。
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by toshinac | 2018-02-01 14:11 | trip photos

ブハラ (2)/ウズベキスタン

アルク城
ブハラ市街の北西部にあるアルク城は、古代ブハラの発祥の地とされており、5世紀頃には城壁を持つ要塞がすでに存在していたという説がある。7世紀、当時荒廃していた城砦はブハラの領主ビドゥン・ブカール・クドーによって復興し、城内には宮殿だけでなく、官房、神殿、監獄、倉庫なども造られた。7世紀後半、アラブ軍の中央アジア侵入が始まると、ブハラは抵抗するすべもなく蹂躙されて圧政下に置かれることになる。
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e0116578_14231687.jpgその後サーマーン朝(イラン系土着の領主一族)、カラハン朝(トルコ系遊牧民族の中で最初にイスラム化した集団)、の統治を経てのホラズム朝(1077~1231:セルジュク朝から自立したイスラム王朝)支配下にあった1220年、モンゴル軍の襲来で市街の大部分は廃墟となり、城に立てこもった多くの市民が虐殺され、城も破壊されてしまう。
以降も15世紀のティムール朝、16世紀後半のシャイバーニ朝と、王朝が変わる毎に城砦は破壊と再建が繰り返されるが、1920年にロシアに攻略されて滅亡するまで、歴代ブハラ・ハンの居城となってきた。現在残っている城は18世紀のものである。

上と左の写真はアルク城の城壁と城門。城壁の高さは16m~20mで周長は790mほど。現在は博物館となっている。



下の写真2葉は城内のジュマ・モスク内外。
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イスマイール・サマニ廟
874年に成立したサーマーン朝の王族の霊廟で、完全な姿を保つ初期イスラム建築としては中央アジア最古で、892年~943年の間に建築されたものとされている。モンゴル来襲の際には、砂の中に埋もれていたため破壊を免れ、およそ700年後の1926年に考古学者によって発掘された。一辺約10mの正方形平面で各面に入口を持ち、高さも外観上約10mという立方体に、内径8mのドームが載るという構成である。
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e0116578_1434123.jpg上の写真は外観。これまでの日干し煉瓦ではなく、焼いた煉瓦を用いた陰影の深い文様積みの意匠が美しい。ドーム屋根はスキンチ(三角隅部分の構造処理)によって支えられた単一ドームだが、外観ではスキンチ部分の高さまで壁を立ち上げ、内部と通じた10個のアーチ窓を設けたギャラリーを廻らせてトランジション部分を覆い隠している。
左の写真は廟内部。約7.2mの正方形で、壁の厚さは1.8m。このドーム空間の建築構成は、仏教寺院の木造による井桁で組んだ降穹天井が源流ではという説もある。
下の写真に見られる、入口アーチの上部にある四角い文様が、敦煌莫高窟の249窟に描かれた降穹天井に酷似していることなどからも、東方の仏教文化の名残が、四方のイスラム文化と融合して生まれた“珠玉の建築”と評されている。ちなみにこの建築は煉瓦造とはいえ、構造的にはコンクリ―ト造を主体とした煉瓦積外装の建築である。装飾積した煉瓦を型枠として、中にローマン・コンクリート(ローマ時代に考案され、石灰や火山灰と砂や砕石などを混合したもの。)を少しずつ詰め固めたものである。
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マゴキ・アッタリ・モスク
1936年に、ロシアの考古学者によって発掘されたカラハン朝時代の小さなモスクで、マゴキという“穴の中”を意味する名が付くとおり、周囲の地面より5mほど掘り下げられた状態にある。
創建はイスラム化する以前のゾロアスター教寺院の跡に、9~10世紀頃に建てられたと推測されているが、実質的にはカラハンがブハラを統治した12世紀に再建されたもの。壁面の小型煉瓦の文様積み、テラコッタ・タイル、スタッコ浮彫り、アラベスク模様など、破壊と再建の繰り返しを物語る時代ごとの装飾技法が認められる歴史的なモスクである。現在は絨毯博物館となっている。
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チャシュマ・アイユブ
旧約聖書にでてくる預言者“ヨブ”が、この地で杖を叩いたら聖なる水が湧き出たという伝説によるチャシュマ・アイユブ(ヨブの泉)は、水不足で悩む沙漠の民を助け、治癒力をもあると信じられていたこともあり、ティムール時代の12世紀に井戸の上に廟が建てられた。
その後14世紀、16世紀と形態の異なるドームが増築され続け、結果的に造形の基本的形態である“丸・三角・四角”そろい踏みの外観を呈している。
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by toshinac | 2018-01-01 01:00 | trip photos

ブハラ (1)/ウズベキスタン

ウズベキスタンの首都タシュケントの南西約450kmに位置するブハラは、サマルカンドと共にシルクロードの重要拠点として繁栄したオアシス都市。その歴史は古く、考古学上では紀元前5世紀頃には現在の地に城壁に囲まれた都市が築かれていたとされている。紀元後にはイラン系ソグド人の都市国家が建設され、ブハラの商人たちは東西交易の仲介者として活躍していたらしく、7世紀の中国の文献にはブハラは「安国」と記されて登場する。8世紀初頭のイスラム帝国の勢力増大とともにイスラム化が進み、9世紀後半にサーマーン朝(土着のイラン系貴族)が成立すると、ブハラは10世紀末まで王朝の首都となり、イスラムの学術とイラン文化の中心地となっていく。 
13世紀前半、モンゴル軍によってブハラは征服され市街は荒廃するが、同世紀の後半には復興する。しかし15世紀のティムール朝まで政治的な中心はサマルカンドにあったため、征服以前の繁栄には及ばなかったという。16世紀後半に至り、ウズベク人のシャイバーニ朝によってサマルカンドから遷都され、ブハラ・ハン国の首都となるとブハラは再び拡大し、地域の政治・経済・文化の中心地となっていく。中央アジアの他の都市同様に、繁栄と破壊が繰り返された歴史を持つブハラに残る遺跡のほとんどは、ブハラ・ハン国の首都として栄えた16世紀のものである。
19世紀後半には、ロシア帝国の南下政策によって植民地に組み入れられ、1917年のロシア革命後はブハラ人民ソビエト共和国(1920~1924)の首都となり、1924年、ウズベク・ソビエト社会主義共和国成立後の1928年ブハラ州の首都となる。1991年のソ連崩壊後、独立国ウズベキスタン共和国の国領となる。

カラーン・ミナレットとモスク
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町のどこからでも見えるブハラのシンボル“カラーン・ミナレット”は、カラハーン朝 (9世紀~12世紀:中央アジアのトルコ系遊牧民族のなかで、最初にイスラム化した集団と考えられ、サーマーン朝を滅ぼした後、西トルキスタン一帯にティルク(トルコ)・イスラム文化を確立する。)時代の1121年に創建されたカラーン・モスク (16世紀に再建されたもの。)の前に建設されたミナレットで1127年の完成。基底部の直径約9m、高さは約46mで、西トルキスタンに現存するミナレットのなかでは最大規模を誇る。1220年のモンゴル軍による占領で、モスクは破壊されたと考えられているが、ミナレットは破壊をまぬがれたことから多くの伝説が残っている。その一つが、モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハーンが、このミナレットに感動し、部下に破壊をやめるよう命じたため、という説である。
上の写真はカラーン・モスクの中庭から、回廊越しにミナレットを望む。
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e0116578_10471662.jpg上の写真は、ミナレット上部のアザーン(礼拝の呼びかけ)が行われていた部屋からカラーン・モスクを俯瞰する。1万人の信者が礼拝できるという大きさは、サマルカンドのビビハニム・モスクに匹敵するとされ、中庭を囲む回廊は208本の柱と288の小さなドーム屋根で構成されている。
左の写真は煉瓦造りのミナレット内部の螺旋階段。段数は105で、段鼻には木材が使われている。






下の写真は、ミナレットから眺めたブハラ旧市街。
手前のドーム屋根の建物は現在博物館のようであり、左の中庭を持つ2階建ての建物はアブドゥールアジス・ハーン・マドラサ。その奥のドームを持つ建物は小さなモスクである。
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ミル・アラブ・マドラサ
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e0116578_10585688.jpgカラーン・モスクに面して建ち、青いモザイクタイルで装飾された巨大なアーチを持つ正面入口と、ドラムに精緻な装飾が施された2つの青いドーム屋根が特徴的なミル・アラブ・マドラサは、末期ティムール様式の典型的な例と言われている。
1536年の建立で、宗教を禁じたソ連時代にあっても、中央アジアで開校を認められていた数少ない神学校。
上の写真はカラーン・モスクの入口側からミル・アラブ・マドラサを正面から見る。

左の写真はカラーン・ミナレットから俯瞰したもの。中庭を囲んで回廊があり、一階に講義室や図書室などが設けられ、2階がフジュラ(学生のための寄宿舎)となっている。
奥の土色のドームはタキと呼ばれる交差点を覆うバザールで、ブハラ市内には幾つかあり、このバザールはタキ・ザルガランという宝石商市場。
そのドームの先にウルグ・ベク・マドラサがあり、向い合ってアブドゥールアジス・ハーン・マドラサが建っている。



ウルグ・ベク・マドラサとアブドゥールアジス・ハーン・マドラサ
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ティムールの孫であるウルグ・ベクが、真の教育施設にしたいと願って1418年に創設した神学校で、1585年に修復はされているが、中央アジアに現存する最古のマドラサで、現在は歴史博物館となっている。
上の写真は正面入口と中庭側。マドラサの扉には、「向学心こそムスリムにはなくてはならぬもの」と記されている。
下の写真は、ウルグ・ベク・マドラサの真向かいに建つアブドゥールアジス・ハーン・マドラサ。ウルグ・ベク・マドラサの創建後、200年以上も経てから建てられているので、色彩も豊かになり、中央イワーンにはムカルナス装飾も見られるなど、イスラム建築の変遷が見えてくる。
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by toshinac | 2017-12-11 11:10 | trip photos