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イスタンブール2/トルコ共和国

アヤソフィア(ハギア・ソフィア大聖堂)
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イスタンブールの歴史的建造物の代表格であるアヤソフィアは、4世紀、東ローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって建てられた聖堂に起源し、2度の大火による焼失後、532年から537年にかけて、ユスティニアヌス1世(在位:527~565)により現在の聖堂が再建された。しかし558年の地震によってドームは崩壊、ただちに構造的改造と修復がなされたが、その後もドームの部分的崩落が相次ぎ、その都度補修と改修が繰り返されてきた。1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落後、破壊をまぬがれた聖堂はミフラーブが設けられて4本のミナレットも建設され、堂内のキリスト教モザイク画は全て漆喰で塗りつぶされてモスクとして生まれ変わる。その後オスマン帝国が滅びトルコ共和国が成立すると、初代大統領ケマル・アタチュルクは(1881~1938)政教分離政策をとり、アヤソフィアを宗教施設とせず、博物館として広く世界に開放した。上の写真は、かつてのコンスタンティノープル先端部に建つアヤソフィア。
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e0116578_840871.jpg上の写真左上は、夕日を受けて赤く染まるアヤソフィア。同左下は大ドーム内部の説教台を見る。
同右は断面図と平面図(西洋建築史図集:日本建築学会編)。
左の写真は大ドーム内部。31mのペンディンティヴ(正方形の平面上にドームを載せる際、外接する四隅にみられる球面状の三角形部分)・ドームと半球型のセミ・ドームが創りだす大空間は、古代と中世の様式をあわせ持ち、かつ後陣アーチの聖母子像のモザイク画の下にはミフラーブがあり、壁にはアッラーやムハンマドの名が刻まれた黒と金のカリグラフィーの円板が掲げられ、ビザンティン美術とイスラム美術が同一空間を彩るなど、アヤソフィアは独特の雰囲気を醸し出す。

下の写真は入口上部のモザイク画。聖母子像を中央に、右にコンスタンティノープルを捧げるコンスタンティヌス1世と、左にアヤソフィア大聖堂を捧げるユスティニアヌス1世が描かれている。
さらに下の写真は折り紙建築アヤソフィア(中沢圭子作)
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カーリエ博物館(カーリエ・ジャーミ)
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e0116578_8502193.jpg東ローマ帝国の時代であった11世紀に、正教会修道院に付属して設けられたソーテール(救世主)聖堂で、幾度かの増改築を経て、オスマン帝国の時代にモスクに改装され、名称もカーリエ・ジャーミと改められた。トルコ共和国になると、後期ビザンティン美術の価値が高く評価され、アヤソフィアと同様に無宗教の博物館となる。上の写真は東側外観。複雑な建設過程や度重なる増改築で、建物はかなり不規則な形状を呈している。
ちなみに、中央のドラム(14世紀)上に載るドームは、オスマン帝国時代に木造で造り替えられ漆喰を上塗りしたものだそうで、ドーム天井には何も描かれていない。
左の写真は、内部ナルテックス(正面入口と身廊部分の間に設けられた広間)入口上部のモザイク画。
下の写真は南側ナルテックスのドーム天井のモザイク画。これら聖堂内部の装飾は、オスマン帝国時代には漆喰で塗り込められていたが、1948年~1958年にかけてアメリカのビザンティン研究所によって漆喰が除去され、四世紀半の眠りから後期ビザンティン美術が現代に甦る。
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by toshinac | 2018-08-21 08:58 | trip photos

イスタンブール1/トルコ共和国

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トルコ共和国の西部に位置するイスタンブールは、アジアとヨーロッパの2つの大陸にまたがるトルコ最大の都市。黒海とアルマラ海をつなぐボスポラス海峡が市の中心を貫き、アルマラ海からヨーロッパ大陸側に角のように切り込んだ細長い金角湾(トルコ語でハリチ)の両岸には、ローマ帝国、東ローマ帝国(ビザンティン)、オスマン帝国(1299年オスマン1世が建国したトルコ系イスラム国家)という、3代続いた大帝国の繁栄を物語る名所・旧跡が展開する。上の写真は、ガラタ塔より眺めた朝もやの金角湾。スレイマニエ・モスクのドームとミナレットを見る。
この地で最初に都市が成立(B.C.660年)したのは、古代ギリシヤ時代の都市国家ビザンティオンで、金角湾の南側、アルマラ海に突き出た岬の先端に広がる丘陵に築かれた。現在のトプカピ宮殿が建つ場所である。B.C.201年にローマの同盟都市となるが、196年にはローマの支配下に置かれ、330年にコンスタンティヌス大帝(初めてキリスト教を公認し、これに改宗した皇帝)によってローマ帝国東方領の主都と定められ、コンスタンティノープルと呼ばれることとなる。
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e0116578_904164.jpg395年における東西ローマの分裂後は東ローマ帝国の首都として繁栄し、5世紀以降には人口100万を数える時期もあったという。
上の写真はヴァレンス水道橋。378年に完成したとされるローマ帝国の遺構。イスタンブール旧市街のほぼ中央にあり、北西郊外の水源から旧市街東部にある、東ローマ帝国の大貯水槽バシリカ・シスタン(通称地下宮殿)へと導く役割を果していたのではとされている。



左と下の写真はその地下宮殿バシリカ・シスタン。長さ138m、幅65m、高さ9mという地下の貯水槽空間は、330本を超える大理石円柱と煉瓦造の交差ヴォールトで支えられているが、円柱の3割ほどは古代の建築廃材が再利用され、左の写真のように、メデューサの顔が彫られた古代の石塊が土台に使用されたりしている。
映画007の「ロシアより愛をこめて」の撮影場所に使われた。
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長く続いた東ローマ帝国の繁栄も、11世紀頃から地中海貿易で進出してきたベネチア人やジェノバ人の勢力に帝国の商業と財政が支配されると、町の隆盛は徐々に失われ、オスマン帝国に征服された1453年には5万人を割るほどの人口だったと言われている。
オスマン帝国のメフメット2世(在位1451~1481)は、征服後ただちにハギア・ソフィア大聖堂(アヤ・ソフィア)をはじめ多くの教会をモスクに変えるとともに、1457年以降オスマン帝国の首都として、町の名をイスタンブールと改めた。また近隣の国々から多くの人々を移住させ、モスク、バザール、キャラバン・サライ、学校、病院などの社会施設を整え、さらに中央アジアのサマルカンドや西アジア各地から商人、学者、文人の移住が相次ぎ、16世紀中頃には人口50万人に達する大都市として復活、スレイマン1世(在位1520~1566)の時期に最盛期を迎え、東西、南北に及ぶ国際貿易の拠点として栄華を極める。
下の写真は、メフメット2世(オスマン帝国の第7代皇帝)がコンスタンティノープルを攻略中の1452年に造営し、攻略の拠点となったルメリ・ヒサールの城塞。
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17世紀に入ると、東ローマ帝国の時代からイタリア人商人の居留地であった金角湾北岸のガラタ地区には、イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国が競って領事館を建設し、キリスト教の諸教会も建設されて新市街が形成され、1845年に旧市街と新市街を結ぶガラタ橋が架けられた。
第1次世界大戦後、トルコ人による反帝国主義運動が起こると、イギリスをはじめとする連合国はイスタンブールを占領、1923年にトルコ共和国が成立すると首都はアンカラに移る。
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上の写真はガラタ橋の遠望と近影。金角湾の架橋では興味深い話がある。1845年に最初の橋が架けられるずっと以前の1503年に、レオナルド・ダ・ヴィンチがバヤズィト2世(オスマン帝国の第8代皇帝)に橋の計画を提案し、計画書を送っていたが実現には至らなかった。また1519年には、かつて架橋計画を売り込もうとしたことがあるミケランジェロの招聘計画もあったらしいが、ミケランジェロがこれを受け入れず、金角湾の架橋は19世紀まで棚上げされたとのこと。ちなみに初代の橋は1922年に焼失し、現在の橋は1994年に架けられたものである。
下の写真は金角湾で釣りに興じる人々。かつてはガラタ橋から釣り糸を垂らして釣ったサバを焼き、パンに挟んだサバ・サンドは金角湾の名物であったが、景観を損ねるということで橋からの釣りは2004年に禁止されている。
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by toshinac | 2018-08-04 09:16 | trip photos