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ヒエラポリス遺跡/トルコ共和国

エフェソス遺跡のあるセルチュクから、東に200km弱という、当時の都市の立地としては珍しい内陸部に位置するこの遺跡は、B.C.190年頃にペルガモン王国(紀元前2世紀に、現在のイスタンブールの南に位置するペルガマに栄えた、ヘレニズム時代の都市国家。)のエウメネス2世によって植民都市として建設され、初代国王の王妃ヒエラの名が付けられてヒエラポリスと命名される。だがこの名にはもう一つの由来があり、ギリシア語でヒエラが“神聖な”を意味することから“聖なる街”という説もある。
後のローマ帝国の支配下では神殿や劇場、アゴラや市場などが建設され、この地が温泉地ということから湯治場的な保養地としても繁栄し、豊富な水源を活かして綿花や穀物の栽培も盛り、東ローマ帝国(ビザンティン)時代やイスラム侵攻(7世紀)後も大いに栄えたとされている。
しかし1354年の大地震で都市は完全に崩壊し、ドイツの調査団による本格的な発掘が始まる1887年まで、ヒエラポリスは荒れ果てたまま放棄されていた。
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上の写真は、ヒエラポリス遺跡のなかでも比較的保全状態のいい円形劇場。2世紀にハドリアヌス帝(在位:117年~138年)の下で建てられ、3世紀にセウェルス帝(在位:193年~211年)の下で改装されている。急勾配の客席が特徴的なこの劇場は、15,000人を収容できたと言われている。下の写真は、オーケストラの床を支えた連続するアーチ。
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下の写真2葉は、ローマ帝国の第11代皇帝ドミティアヌス(在位:81年~96年)を讃えて造られた3連アーチのドミティアヌスの門と、その先のビザンツ門に至る石畳の通り。地下には下水管も整備され、両側には大きな建物が建ち並ぶかつてのメインストリート。
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上の写真は、ドミティアヌスの門の北にある浴場跡。3世紀のローマ浴場ではあったが、330年にキリスト教が公認されると、その後まもなく教会に変えられたという。
下の写真2葉は、ヒエラポリスの北に広がる古代のネクロポリス。アナトリア地方では最大級とされる共同墓地で、墓の数は1000基を超えると言われ、広範囲に分散する。ヘレニズム後期のものが主流だが、石室や石棺にはローマやビザンティンの影響も見られる。柱の上に石棺を載せた形態は、ここから200km以上南下したエーゲ海沿いの“古代リキア遺跡クサントス”のネクロポリスに見る柱状墓と、その概念は同じところだろうが、写真に見る石棺は柱状墓ではなく柱上墓といった印象である。
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toshinacHP
by toshinac | 2018-10-24 11:19 | trip photos

エフェソス遺跡/トルコ共和国

トルコのエーゲ海沿岸の都市イズミールの、南約70kmに位置する小さな町セルチュク近郊にあるエフェソス遺跡は、数多くの遺跡が残るエーゲ海周辺でも最大級を誇る古代都市遺跡。その歴史はギリシア(イオニア)の植民都市として始まり、古代ローマ、ヘレニズム(B.C.334年のアレクサンドロスの東征以後成立した、ギリシア文化が普及した東方的な専制国家で300年ほど続く)、ローマ帝国、東ローマ帝国(ビザンティン)時代へと、長き繁栄を物語る遺構が展開する。なかでも遺跡観光の中心となっているのは、当時一大貿易港として栄えたヘレニズムからローマ帝国時代にかけて建設された遺跡群である。
4世紀にローマ帝国がキリスト教を国教としたことで、エフェソスはさらに整備された宗教都市となり、東ローマ帝国時代も経済的、宗教的にも重要な役割を果す都市となっていた。しかし8世紀になると、急速に拡張してきたイスラム勢力の攻撃に対抗できず、エフェソスは放棄され、1300年間続いてきた繁栄は幕を閉じることになる。
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上の写真は、遺跡のほぼ中央に位置する大劇場と、港に続くアルカディアン通り(港通り)を見る。大劇場はB.C.3世紀頃の建設だが、ローマ帝国時代に大きく拡張されている。ピオンの丘の西斜面に造られた観客席は、直径154m高さ38mの半円形で、24,000人を収容できたという。
皇帝アルカディウスが修復したことから、アルカディアンと名付けられた通りは、往時500mに亘って商店が建ち並び、夜には街灯も灯されたという。通りの先はエフェソスに繁栄をもたらした港湾であったが、2世紀頃から土砂の堆積が始まり、7~8世紀には港は完全に埋まって湿地と化し、その機能を消失させてしまう。一説には4世紀のキリスト教の国教化が起因していたのではと言われている。キリスト教の思想の下で森林が伐採され、小麦畑や葡萄畑やオリーブ畑に変わったことで、保水力を奪われた山からの土砂が徐々に港を埋めつくしたというのである。
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上の写真は、エフェソス遺跡で最も有名で美しいセルシウス図書館の跡。110年代の着工で135年の完成とされている。ローマ帝国の執政官でアジア州の提督であった、ティベリウス・ジュリアス・セルシウスの息子ティベリウス・ジュリアス・アクイラが、父の死後霊廟として建てたもので、図書館はその建物の中に後に開設されたという。12,000冊の蔵書があったとされ、当時のアレクサンドリア、ペルガモンの図書館と並んで、世界の三大図書館と評されていたとか。

e0116578_939183.jpgファサードは、錯視効果を用いて高く大きく見せようと、1階の柱に比べ2階の柱を細く短くするなどの遠近法を取り入れて造られている。
だが3世紀後半のゴート族(ゲルマン系の民族)の侵略で破壊され(地震が原因という説もある)、さらに10世紀の地震で完全に崩壊する。遺跡発掘後の1960年~1970年にファサード部分が現在の姿に修復再建された。右側の二つのアーチはマテウスとミトリダテスの門で、その外側にはアゴラ(商業広場)が広がっている。

左の写真は、セルシウス図書館に向かって下るクレティア通り。なだらかな石畳の通りの両側には、神殿や住宅街、娼館や浴場や公衆便所などの遺跡が展開する。

下の写真の左上は円柱や彫像の台座などが並ぶクレティア通り。同上右はアゴラの先に見るセルシウス図書館。左下は公衆便所跡。右下は公衆浴場跡である。
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上の写真はハドリアヌス神殿。ローマ皇帝ハドリアヌス(在位:117~138)に捧げられたコリント式の神殿で2世紀の建立とされ、繊細な装飾が施されたアーチ中央の楔石には、市の守護神でもある女神ティケの胸像が彫られている。下左の写真は、エフェソスの考古学博物館に展示されているアルテミス像。

e0116578_947394.jpgアルテミスとはギリシア神話の女神で、清純な女狩人として知られているが、エフェソスのアルテミス像は豊穣多産を象徴する多数の乳房を持っている像で、清楚で力強いギリシアのアルテミスとは対照的。ギリシア文化以前の伝説によれば、この辺りには女性が狩猟・戦闘を行うアマゾネスと呼ばれる人々が住んでいたとされ、母系制社会の中で大地と豊穣の女神を信仰し、その対象が多数の乳房を付けた木製の偶像だったという。
下の写真は、遺跡の南7km程の山中にある十字型ドームの聖母マリアの家。薄暗い奥の壁龕にマリア像が祀られている小さな空間である。伝承によれば、十字架に架けられたイエスが、弟子のヨハネに母・マリアを託したため、ヨハネがエフェソス方面の布教に赴くおり、マリアも共に移り住んだのではとされている。後に、神秘的な能力を持っていたとされる尼僧カタリナ・エメリッヒ(1774~1824)が見たという幻影にそって、1891年にこの地が発掘調査され、1世紀と4世紀の壁の跡が発見され、そこに建てられた小聖堂が「聖母マリアの家」ということで、現在の家は1951年に再建されたもの。1967年にはローマ教皇パウロ6世が訪れ、以後公認の聖地となっている。
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toshinacHP
by toshinac | 2018-10-06 10:03 | trip photos